第4話 届いた金は取り上げさせない
窓外が夜の闇に沈んだ頃、所長室のデスクの上には、王都の中央賠償管理局から届いた通達書が広げられていた。
クラウディアは蝋燭を近づけ、通達の末尾まで目を通した。その対面では、アルヴィンが腕を組み、不快げに眉をひそめていた。
「今回は『事後的に承認する』。次回以降は、中央局を経由する通常経路に限る、か」
アルヴィンは二つの箇所に印を付けた。
クラウディアは手元の法務規定集を閉じ、アルヴィンを見た。
「監察官殿。この通達において最も重要な点は、『事後的に承認する』という一文です。つまり彼らは、今回送金した二十四金貨について、手続き上の違法性を問うことはできなかった。返還要求の根拠を持たないということです」
「ああ。適用の要件と確認記録は揃えてある。異議が出れば、その記録を提出する」
中央がどれほど不満を持とうと、エミリア・ハルトの商会に届いた金は、すでに彼女のものとして確定している。
クラウディアはすぐに羊皮紙を引き寄せ、ペンを走らせた。
「では、エミリア・ハルト宛てに正式な通知書を作成します。『貴殿の口座に入金された二十四金貨は、法的に確定した賠償充当額であり、今後いかなる理由があろうとも中央局や王国から返還を求められることはない』と。……彼女も、一度手にした金が権力によって再び奪われるのではないかと、不安に思っているはずですから」
クラウディアは通知書に署名し、アルヴィンへ渡した。
彼が副署名を終えると、封筒にエミリアの店の宛名を書く。朝一番の便に間に合うよう、発送箱の一番上へ置いた。
翌日、クラウディアは次回以降の賠償額算定と送金準備のために、中央局から同封されてきた新しい「通常送金用の規定書式」に目を通していた。
緊急条項を使わない場合、執行対象者の労働によって生み出された事業利益は、一旦この書式に沿って中央局へ送られ、そこから各被害者へと分配される仕組みになっている。
「……おや?」
書類の束をめくっていたクラウディアの手が止まった。
かつて彼女自身が王太子妃候補として、賠償管理局の直接支払試行事業を担当していた頃には存在しなかった、見慣れない項目が追加されていたのだ。
「どうした、所長」
執務デスクの隅で、ノルデン全体の設備監査報告書を作成していたアルヴィンが顔を上げる。
「中央局から指定された新しい送金票の書式です。金額の記入欄の横に、『管理予備金』という空欄が設けられています。以前の書式には、このような項目はありませんでした」
「管理予備金だと?」
アルヴィンは席を立ち、クラウディアの後ろへ回って書式を覗き込んだ。彼の肩口から漂う微かな革の香りに、クラウディアはほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「通常、中央局が事務手続きにかかる正当な手数料を差し引くことは法律で認められています。しかし、それは『事務手数料』として明記されるべきものです。予備金という名目で、具体的な比率も使途も書かれていない控除欄が存在するのは、極めて不自然です」
「……何らかの理由をつけて、賠償金の一部を中央で一時的に留保する、あるいは吸い上げるための隠れ蓑かもしれないな」
アルヴィンは鋭い目を細め、指先でその空欄を叩いた。
「現時点ではまだこの書式で送金を行っていない以上、実害はない。だが、次回の通常送金時には、我々が地方銀行から中央へ送った額と、実際に被害者の手元へ届いた額に差異が生じないか、厳密に追跡する必要がある」
「はい。被害者側からの着金報告と、こちらの送金台帳を突き合わせる『七日照合規則』を徹底します」
二人は不穏な予感を共有しながらも、今は目の前の実務を進めるしかなかった。
さらに数日が経過した。
初回の木材出荷を無事に終えたノルデンの町では、次の事業計画である「週一回の市場開設」に向けた準備が進められていた。道路の修繕や、近隣の村から人を呼ぶための荷車の確保など、やるべきことは山積みだ。
ユリウスは相変わらず泥にまみれながら、今度は市場のための整地作業に駆り出されている。仕事を終えると、自分の靴についた泥を落として宿舎へ戻る。食堂の列も、洗い場の順番も、彼のために空くことはなかった。
そんな日の午後、所長室の扉が控えめにノックされ、会計主任のマルタが入室してきた。
三十代後半の、元商家で番頭を務めていただけあって数字に厳しい女性だ。クラウディアの権限分散を支える優秀な右腕でもある。
しかし、今日のマルタの表情には、いつにない戸惑いと、気遣うような色が見え隠れしていた。
「所長。王都から、明後日到着予定の護送便に関する名簿と書類が届きました。……新たな執行対象者が一名、追加されるとのことです」
マルタは書類の束をデスクに置きながら、少し言いにくそうにクラウディアの顔色を窺った。
通常、新たな執行対象者が来ることは珍しいことではない。ノルデンには三十名までの収容上限があり、常に入退去が繰り返されている。
だが、マルタの様子から、クラウディアはその名簿に誰の名が書かれているかを即座に察した。
「ご苦労様です、マルタ」
クラウディアは表情を全く変えることなく、一番上の名簿を手に取った。
そこには、達筆な字で一人の女性の名前が記されている。
『セシリア・ヴェルン』
クラウディアの実の妹。
一年前の祝賀会で、姉を罠にかけ、虚偽の証言で姉を断罪の舞台から引きずり下ろした張本人。そして、ユリウスにすがりつき、「次の婚約者」としての内定を勝ち取った女。
三か月後に偽証が発覚したことで内定は失効し、彼女自身も賠償責任を問われることになった。その妹が、姉が管理するこのノルデンへ、罪人として送られてくるのだ。
「……所長。もし、直接の面会や管理に支障がおありでしたら、初期の手続きは私が代行いたしますが」
マルタが静かに申し出た。王都での騒動のあらましは、ノルデンの職員たちも大まかには知っている。姉として、これほど残酷で数奇な巡り合わせはないだろうと同情しているのだ。
だが、クラウディアは名簿を見つめたまま、静かに首を横に振った。
「お気遣いには感謝します。ですが、その必要はありません」
妹の名で止まった指を、クラウディアは受入予定の欄へ移した。
羽ペンを取り、受入承認欄に署名してから所長印を押した。
「彼女の確定負担額は三百三十金貨。判決時の私財差押えで九十金貨を支払い済みであり、この試行区での残債務は二百四十金貨です」
クラウディアは台帳に新しいページを開き、数字を書き込んでいく。
「彼女は王太子妃になるための教育など受けていませんから、高度な行政判断はできません。しかし、書類の照合や単純な筆記作業であれば、一般の未熟練労働以上の価値は出せるはずです。到着次第、事務補助の班へ割り当てます」
マルタは頷き、配属先を手元の控えに書き留めた。
「マルタ。彼女の宿舎の手配と、作業着の支給準備をお願いします。特別扱いは一切無用です。他の者と全く同じ規則を適用してください」
「承知いたしました、所長」
マルタが退室した後、クラウディアは窓辺に歩み寄り、冷たいガラス越しに広場を見下ろした。
ユリウスに続き、セシリアまでもがやってくる。
姉からすべてを奪い、特権階級の甘い汁を吸おうとした妹は、間もなくこの荒涼とした辺境で、泥にまみれた元婚約者と同じ灰色の作業着を着ることになる。
腹立たしさは、まだある。それでも、彼女が奪ったものを、彼女自身の労働と数字で、一金貨たりとも逃さず被害者へ返し切らせる。




