第3話 最初の二十四金貨
ユリウスの着任から三日目。ノルデン賠償執行区の朝は、木材を積んだ何台もの大型荷車が並び、男たちの怒号と馬のいななきで騒然としていた。
今日は、この辺境を立て直すための重要な資金源となる、初回の木材大口出荷日である。
霜が降りるほどの冷え込みの中、荷台への積み込み作業は佳境を迎えていた。その労働者の輪の中に、泥と木屑にまみれたユリウスの姿があった。
「そこだ、そのまま押し込め!」
監督の指示に合わせ、ユリウスは歯を食いしばりながら太い丸太の端を持ち上げていた。着任からの三日間、彼は慣れない肉体労働に悲鳴を上げる身体をどうにか動かし続けていた。かつて王太子として玉座の近くで微笑んでいた彼に、誰も同情はしない。休息の笛が鳴れば、全員が手を止める。ユリウスも同じ列に座って水を飲んだ。誰も彼の分を先に運んではくれなかった。
その時、ユリウスは自分が手にした丸太の裏側に、奇妙な変色があるのに気づいた。
「待て! この木は駄目だ」
ユリウスは咄嗟に声を上げ、積み込みを止めさせた。
「あぁ? 何を言ってやがる新入り。さっさと積まねえと出発に遅れるだろうが!」
「見ろ、裏側が腐食し始めている。このまま納品すれば、契約の品質基準を満たさず、大口の取引そのものが違約とみなされる可能性がある。別の木と差し替えろ」
職人たちが顔を見合わせ、監督の合図で丸太を転がして確認する。ユリウスの指摘通り、その丸太は内部から腐りかけていた。もしこれが混ざったまま王都の商会に届けば、全体の買取価格を大幅に叩かれるか、最悪の場合は全品返品という事態に陥っていたはずだった。
ユリウスは王宮で最高の教育を受けてきた。納入契約の読み方は知っていた。昨日、職人に教わった傷みの見分け方を、手元の検品表と突き合わせていたのだ。
「……ふん、一丁前に目利きはできるらしいな。おい、別の丸太を持ってこい!」
監督の号令で作業が再開される。
少し離れた場所で視察していたクラウディアは、その一部始終を静かに見届けていた。隣には、監査のための記録板を持ったアルヴィンが立っている。
クラウディアはユリウスに歩み寄ることはせず、彼を称賛することもしなかった。ただ手元の書類板にペンを走らせ、事務的に呟いた。
「これで、出荷条件を完全に満たしました。品質不良による減額リスクも回避できたと記録します」
「彼の判断が、今回の事業利益を守ったというわけか」
「はい。彼の働きは、規則に従い厳密に評価し、残債の充当に反映させます」
やがて、朝日が昇り切る頃、満載の荷車が次々とノルデンの門を出発していった。
出発前、買い手の検収員は現地で引き取りに署名していた。代金はあらかじめ地方商業銀行に預けられており、引渡証の確認で決済される。その日の午後、所長室のデスクには、その代金決済を証明する地方商業銀行からの通知書が置かれていた。
クラウディアは台帳を開き、素早くペンを動かして数字を確定させていく。その斜め後ろで、アルヴィンは計算に使われた単価と規定書を照合していた。
「……計算が終わりました」
クラウディアは顔を上げ、アルヴィンに書類を差し出した。
「ユリウスの三日分の検品作業に対する労務評価と、彼が不良品を弾いて守った初回出荷の事業利益配分。それらを合わせ、規定の生活維持控除を差し引いた結果……彼からエミリア・ハルトへの残債充当額は、二十四金貨で確定しました」
アルヴィンは書類を受け取り、各項目の数字を一つ一つ目で追った。
明細には、検品の評価額と出荷利益からの配分が分けて記されていた。
「作業記録とも一致している。これなら、今日の送金に回せる」
アルヴィンは書類の末尾に、執行監察官としての流麗なサインを書き込んだ。
これが『緊急直接支払条項』の発動を法的に裏付ける決定打となる。クラウディアはすぐに地方商業銀行への送金指示書を作成した。支店間の通知は、商業銀行の通信鳥で送られる。
すべての手続きが終わり、デスクの上には、銀行から発行された『送金受付の控え』だけが残された。
クラウディアとアルヴィンは、その小さな紙切れを同時に見つめた。
「……間に合ったな」
アルヴィンが、仕事の緊張を解いた低い声で言った。
クラウディアは小さく息を吐き出し、着任してから初めて、ほんのわずかに口元を綻ばせた。
「ええ。あとは向こうの受領確認です」
その日の夕方。ノルデンから早馬で半日ほどの街の片隅にある『ハルト商会』の事務所で、エミリア・ハルトは絶望の淵に立たされていた。
元子爵令嬢でありながら、身一つで商会を切り盛りしてきた彼女の目の前には、空っぽの金庫と、支払いを待つ督促状の山がある。
一年前のあの日、クラウディアの事業が凍結された煽りを受け、取引先であった彼女の商会も連鎖的に窮地に陥った。判決が下った二か月前、加害者たちの私財から七十一金貨が彼女に支払われたが、それは断罪直後に発生した莫大な違約金と、高利の緊急融資の返済で右から左へと消えてしまった。
「……もう、限界ね」
エミリアは血の気の引いた唇を噛んだ。
今日の日没までに、この商会を支えてくれた職人たちへの賃金十八金貨と、店舗の家賃六金貨を支払わなければならない。だが、手元には銀貨数枚しかない。
もう店を畳み、職人たちを路頭に迷わせるしかない。そう覚悟を決めた時だった。
「エミリア様! エミリア様!」
事務所の扉が勢いよく開き、地方商業銀行の使いが息を切らせて駆け込んできた。
「銀行から急ぎの報せです! たった今、あなたの口座に多額の入金がありました!」
「……え? 入金? 誰から……?」
「ノルデン賠償執行区からです。名目は『緊急直接支払条項に基づく残債充当』。金額は、二十四金貨です!」
使いが差し出した証書を見て、エミリアの心臓が大きく跳ねた。
二十四金貨。
それは、職人への賃金と店舗の家賃を払い、明日からもこの店を開け続けるために必要な額、そのものだった。
「あ、ああ……」
エミリアの目から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙が溢れ落ちた。
彼女はユリウスを許したわけではない。彼がどんな惨めな思いをしていようが、あの日に受けた屈辱と恐怖が消えるわけでもない。
だが、金は届いたのだ。
謝罪の言葉でも、安っぽい同情でもない。血の通った、店を救うための確かな『数字』が、彼女の手元にやってきた。
「ありがとう……間に合った……!」
エミリアは証書を握りしめ、銀行へ走った。
窓口で職人たちへの十八金貨を振り分け、家主宛ての六金貨を支払う。家賃の受取印が押されるまで見届けてから、工房へ戻った。
「明日も、いつもどおり来てください」
戸口で荷物をまとめていた職人が、手を止めた。
「店を、閉めずに済むんですか」
「ええ。給金も振り込みました。遅くなって、ごめんなさい」
職人はしばらく黙っていた。それから、紐をかけた道具箱をもう一度開いた。
エミリアは裏返しかけた店の札を、営業中の向きに戻した。
その日の夕刻。ノルデンの所長室に、王都の中央賠償管理局から通信鳥が飛び込んできた。
受け取った書状を開いたクラウディアの目が、冷ややかに細められる。
「どうした?」
「中央局からの照会です。『今回の緊急直接支払条項の適用は事後承認するが、同条項の適用範囲は極めて限定的である。次回以降は、必ず中央局を経由する通常経路を使用せよ』……と」
アルヴィンが傍らに立ち、書面を覗き込んで鼻で笑った。
「見え透いた牽制だな。地方で勝手に大金を動かされては、中央の権威が傷つくか、あるいは何か別の不都合があるということだ」
「ええ。ですが、問題ありません」
クラウディアは書状をデスクに置き、きっぱりと言い切った。
「すでに地方銀行から送られた二十四金貨は、覆りません。彼らが後から何を言おうと、被害者の手元に届いた金を取り上げさせることなど、絶対に許しません」
「ああ、法的にも返還要求は成立しない。そこは監察官である私が保証する」
クラウディアは窓の外、夕闇に沈みゆくノルデンの町を見つめながら、次なる戦いへと思いを馳せていた。




