第2話 監察官は初日から帳簿を開く
到着の翌朝、冷え切った空気が残るノルデン賠償執行区の所長室には、羊皮紙をめくる乾いた音だけが響いていた。
装飾の一切ない実務用の重厚なオーク材のデスク。その対面に座ったアルヴィン・グレイは、クラウディアが提出した過去三か月分の運用台帳を開き、規定書と照らし合わせていた。
確認した項目の脇へ印を付け、次の支払記録に移る。
「……労務評価基準、生活維持控除の算出、ならびに一般住民への賃金支払実績。すべて王国の市場単価規定に適合している。執行対象者に対する不当な減額や、危険作業の強制による意図的な評価額のつり上げも見られない」
「当然です。ここは被害者へ確実に金銭を還流させるための施設であって、私刑場ではありませんから」
クラウディアは手元の書類決裁を進めながら、淡々と答えた。
彼女自身も、十二名いる被害者の一人である。だからこそ、所長就任の条件として「自らの債権処理に関する本人忌避」が義務付けられていた。
アルヴィンは次のファイルを開き、その隔離口座の記録に目を走らせた。
「所長自身の債権処理への不介入も確認した。あなたの取り分は裁判所の隔離口座で厳格に処理されており、あなたは順位の繰り上げも、金額の操作も行っていない。……いや、行っていないどころか」
アルヴィンの手が止まり、わずかに眉が寄せられた。
「あなたは着任以来、自分自身の生活費として引き出せるはずの正当な賠償金にすら、一切手をつけていないな。医療規定に関してもそうだ。執行対象者には規定通りの休息と医療を与えているが、所長であるあなた自身の休暇記録が、就任以来一日もない」
王都の社交界では、彼女は「元婚約者を辺境の地でいたぶるために所長に志願した、復讐に燃える女」と噂されていた。アルヴィン自身、利益相反を疑ってここへ来た。
だが、帳簿が示す現実はまるで逆だった。彼女は他者――それが自分を陥れた加害者であっても――に対しては公正で規則通りに接するが、自分自身の利益や保護については、後回しにしている。
アルヴィンは、目の前で静かにペンを走らせる彼女に対し、監査対象に対するものとは違う、小さな違和感を覚えた。それは職業的な警戒というよりは、彼女という人間の在り方に対する純粋な疑問に近いものだった。
「私の生活は所長としての給与で賄えています。優先すべきは、事業を回し、他の被害者たちの損失を補填することです」
「規則上、あなたが休まないことを咎めることはできないが……長くは続かないやり方だ。所長が倒れれば、事業全体が停止する」
「ご忠告痛み入ります、監察官殿。ですが、今は立ち止まるわけにはいかないのです」
クラウディアはペンを置き、立ち上がった。
「机上の監査が一段落したのなら、現場の視察へ参りましょう。彼らがどのように賠償金を捻出しているのか、外部監察官の目で直接確認していただく必要があります」
ノルデンの外縁部にある製材現場は、朝から活気に満ちていた。
近隣の森から切り出された丸太が次々と運び込まれ、鋸の音と労働者たちの怒号が飛び交っている。木屑が舞う中、クラウディアとアルヴィンは少し離れた場所からその様子を観察した。
労働者たちの中に、昨日支給された灰色の作業着を着た男がいた。ユリウスだ。
「おい、新入り! 何をもたもたしている、そっちの端をしっかり支えろ!」
「っ、わかっている……!」
初老の現場監督の容赦ない怒声に、ユリウスは顔を真っ赤にして答えた。
彼は二人一組で丸太を荷車へ積み込む運搬補助作業に割り当てられていた。しかし、王宮で剣術や馬術の訓練は受けていても、こうした泥臭い不慣れな荷役に耐えうる筋肉はない。
足場はぬかるみ、丸太は容赦なく重い。
バランスを崩したユリウスの手から丸太が滑り落ち、鈍い音を立てて泥水を跳ね上げた。
「くそっ……!」
跳ねた泥がユリウスの顔や作業着を汚す。かつて誰よりも身嗜みに気を使い、塵一つついていない衣服を纏っていた男の見る影はなかった。息は絶え絶えで、手は木屑と泥にまみれ、震えている。
周囲で働く一般の住民たちは、彼が「元王太子」であることを知っている。だが、誰一人として畏れ敬う様子はない。彼らの生活はこの事業の売上にかかっており、作業が遅れれば、身分を気にせず声を掛けて急がせた。
「……随分な姿だな」
アルヴィンが低い声で呟いた。
クラウディアはユリウスの手を見て、作業監督へ休息の時刻を確かめた。
彼女は手元の書類板に何かを書き込むと、現場監督を呼び寄せた。
「監督。新入りの作業効率が落ちています。安全規則第七条に則り、彼を含むあの班に十分間の休息と規定量の水分補給を指示してください」
「ですが所長、あいつのせいで遅れが」
「事故が起きれば、全体の工程が止まります。規則通りに」
「……へい、分かりました」
監督が駆け戻り、休憩の笛を鳴らす。
膝に手をついて荒い息を吐くユリウスが、ふと顔を上げ、視察に来ているクラウディアに気づいた。
自分を笑いに来たのか。それとも哀れみに来たのか。彼の瞳にはそんな疑念が浮かんでいた。だが、クラウディアは彼と目を合わせることなく、ただ淡々と次の現場への移動をアルヴィンに促した。
優遇もせず、冷遇もしない。働いた内容と、必要な休息を分けて扱う。ユリウスにとって、感情を向けられないことこそが最も逃げ場のない現実として突き刺さっているはずだった。
視察を終え、所長室に戻る道すがら、アルヴィンが口を開いた。
「王都では、王家が彼の借金を肩代わりすればすぐに終わる話だと噂する者もいたが」
「不可能です。王冠領や王室の宝物、そして国庫は、国家の財産であって王族個人のものではありません。彼の個人的な過失による賠償に、公金を使うことは法律が許さない」
「だから、本人の自由処分が可能な私財を差し押さえた、か」
「はい。判決が確定した二か月前、ユリウス元殿下をはじめとする加害者五名の私財、合計七百三十五金貨は即座に差し押さえられ、すでに十二名の被害者へ確定債権の割合に応じて支払われています。その支払記録も裁判所に保管されています」
クラウディアは歩きながら、頭の中にある数字を正確に紡ぎ出した。
「しかし、ユリウス元殿下の私財をすべて処分しても、六百金貨の残債が残りました。彼がここで行う『賠償履行労役』は、刑罰としての苦役ではありません」
「労働によって価値を生み出し、返すための仕組みというわけか」
「働いた分から、皆に共通の衣食住の費用を引く。それに、その人の仕事が生んだ事業利益の配当を加えます。一般住民の賃金も、彼らの労務評価も、先に経費として確保します」
「利益を二重に数えないわけだな。残りは?」
「町の設備修繕と事業資金へ。所長個人の収入にはなりません」
所長室に戻り、扉を閉めると同時に、アルヴィンが一つの書類をデスクの上に置いた。
それは、クラウディアが管理している被害者たちの状況報告書だった。
「今朝の書類確認で、この報告書と判決文の付帯事項を照らし合わせて確認した。被害者の一人、エミリア・ハルトの商会が深刻な資金繰りの危機に瀕しているな」
クラウディアの表情が、今日初めてわずかに険しいものになった。
「……はい。彼女の商会は、旧事業の凍結による違約金と緊急融資の返済で、判決時に支払われた七十一金貨をすでに使い果たしています。明日までに職人への賃金十八金貨と、店舗の家賃六金貨が支払えなければ、店を畳まざるを得ません」
「中央賠償管理局を経由する通常の送金手続きでは、手元に届くまでに通常でも数日、照会が入れば二週間以上かかる。間に合わないぞ」
「だからこそ、この条項を使います」
クラウディアは判決文の一節を指し示した。
「判決に付随する『緊急直接支払条項』です。被害者の事業存続が著しい危機にあると客観的に認められる場合、中央局を経由せず、地方銀行から直接、被害者の口座へ賠償金を送金できる例外規定です」
アルヴィンは条文を素早く読み込み、頷いた。
「なるほど。法的要件は満たしている。だが、問題はその原資だ。明日までに、エミリアの危機を救うための二十四金貨を用意できるのか」
「明日、このノルデンから初回の木材大口出荷が行われます。昨日からユリウスに検品表と契約条件を照合させています。今朝の運搬補助も、その出荷分です」
クラウディアはアルヴィンを真っ直ぐに見据えた。
「この出荷を滞りなく通し、利益を確定させる。契約どおりに引き渡せれば、三日分の検品評価と利益配分で必要額に届く見込みです。元王太子だからという加点は、もちろんありません」
机上の計算ではない。実際に汗を流し、材木を売り、得た利益で、誰かの明日を救う。
アルヴィンは出荷予定表を引き寄せ、引渡しの時刻を確かめた。
「いいだろう。その事業評価と配当の算定が適正であるか、そして送金の手続きに瑕疵がないか。外部監察官として、私がこの目で見届け、監査署名をしよう」
奪われたものを取り戻すための、最初の一歩。
タイムリミットは、明日だった。




