第1話 元王太子、囚人として着任
護送車から降りた元王太子は、出迎えの女を見て足を止めた。
くすんだ灰色の作業着。泥に沈みかけた靴。王宮でクラウディアを見下ろしていたユリウスが、今は彼女の持つ受入名簿に目を落としている。
北東国境のノルデン賠償執行区。初秋の風が、二人の間で書類の端を揺らした。
「到着しましたか」
待ち受けていたクラウディアは、手元の書類から顔を上げ、静かに声をかけた。
装飾を排した実務用の濃紺のドレスに、きつく結い上げた亜麻色の髪。書類を持つ指に力が入る。クラウディアは一度だけ息を整えた。
声まで確かめて、ユリウスは一歩後ずさった。
「クラウディア……? なぜ、君がここに……」
ひび割れた声が風に溶ける。かつて自信に満ち溢れていた青年の面影は薄く、今の彼にあるのは現状に対する混乱と、拭いきれない特権階級特有の戸惑いだけだった。
クラウディアは彼の問いには答えず、羽ペンで書類に受け取りの署名を記した。
「身分照会を完了しました。本日付で、ユリウス元殿下を本試行区の執行対象者として受け入れます」
「待ってくれ。君は、王都の別邸に送られたはずでは……いや、それ以前に、なぜ君が私を見下ろしている。ここは罪人が労役を務める施設だろう? どうして君が……」
「私は、このノルデン賠償執行区の所長を務めております」
抑揚のない声で事実のみを告げると、クラウディアは彼に歩み寄り、束ねられた数枚の書類を差し出した。
「これがあなたの残債を記した明細です。そして、こちらが本施設における宿舎の利用規定と、作業規則になります。熟読し、署名をお願いします」
「残債……」
ユリウスは震える手で書類を受け取った。一番上の用紙には、返済すべき残額が記されていた。
『残債務:六百金貨』
それは、彼の私財をすべて差し押さえてもなお残った、莫大な賠償金の額だった。
その数字を見つめるユリウスの顔が歪む。何かを言い訳するように唇が動いたのを見て、クラウディアは静かに目を伏せた。
脳裏に蘇るのは、ちょうど一年前の光景だ。
――一年前、王宮大広間。
建国を祝う華やかな夜会の最中、音楽は突如として止められ、煌びやかなシャンデリアの下で、クラウディアは冷たい大理石の床に膝をつかされていた。
周囲を取り囲むのは、好奇と嘲笑を含んだ貴族たちの視線。
そして彼女を見下ろしていたのは、豪奢な礼装に身を包んだユリウスだった。
『クラウディア・ヴェルン。お前が北部救済物資の支援金を横領し、私腹を肥やしていた証拠は揃っている。次期王妃となるべき者が、これほど浅ましく国庫を食い物にしていたとはな』
ユリウスの声が、音楽のやんだ広間に響いた。
クラウディアは六年もの間、王太子妃となるべく誰よりも厳しく行政実務を学んできた。横領などしていない。むしろ、中央の賠償管理局を経由せず、苦しむ領民へ直接金を届けるための仕組みを懸命に構築していたのだ。
提出された帳簿が偽造されたものであることは、少し精査すればすぐに分かるはずだった。
『お待ちください、殿下。その帳簿には不自然な点があります。原本と照合するお時間を――』
『言い訳は聞きたくない!』
ユリウスはクラウディアの言葉を無惨に叩き斬った。
その横には、クラウディアの妹であるセシリアが、怯えた小鳥のようにユリウスの腕にすがりついていた。
『私は、君の言葉よりセシリアを信じる』
決定的な一言だった。
『お前との婚約は本日をもって破棄する。また、お前が進めていた救済事業の契約はすべて凍結とする。……これより、私の隣に立つのは、真実を告発した勇気ある彼女、セシリアだ』
ユリウスがセシリアの肩を抱き寄せると、セシリアは涙を浮かべながらも、頬を紅潮させて深く頷いた。
姉を陥れ、姉が座るはずだった席を奪い取った妹と、調査の義務を怠り、特権のままに断罪を下した王太子。
クラウディアは、彼らにすべてを奪われた。名誉も、仕事も、家族の庇護さえも。
「……聞いて、いるのか。クラウディア」
ユリウスの掠れた声で、クラウディアは現実へと意識を戻した。
目の前にいるのは、あの夜、冷酷に自分を見下ろしていた煌びやかな王太子ではない。すべてを失い、労働で罪を償うために辺境へ送られてきた、ただの男だ。
断罪から三か月後、セシリアの証言と帳簿が偽造であったことが正式に発覚した。ユリウスは廃嫡され、セシリアとの婚約内定も当然のように失効した。
クラウディアの無実は証明されたが、凍結された事業によって多くの商会や職人が破産寸前に追い込まれるという、甚大な経済的損害が残された。
その賠償を、今、目の前の男が負っているのだ。
「聞いております。規則の内容にご不明な点がおありですか」
クラウディアは息を整え、明細の金額を指した。
「ちがう、そうじゃない。私は……私は騙されていたんだ。セシリアに、そして側近たちに。確かに調査を怠った私の責任は重い。だが、あの時はそれが正しいと信じて……」
「ユリウス元殿下」
クラウディアの鋭い声が、彼の言い訳を断ち切った。
「ここは、あなたが過去の過ちを悔いるための懺悔室ではありません。誰に騙されたか、何を意図していたかは関係ありません。あなたが行った決断により、十二名の被害者と総額千八百六十金貨という損害が確定した。それがすべてです」
「クラウディア……」
「王家の財産は、個人の債務には使えません。私財を差し押さえても足りなかった六百金貨。あなたは今日から、ここで自らの手で働き、生み出した事業収益をもって、被害者への賠償に充てていただきます」
風が二人の間を吹き抜け、明細の端を揺らした。
謝ってほしかった夜は、確かにあった。けれど今、この男の謝罪を待っている間にも、支払期限は近づいている。クラウディアは明細を差し出したまま、手を引かなかった。
ユリウスはそれ以上言葉を継ぐことができず、肩を落とした。
「……案内を頼む」
ユリウスが係員に連れられ、灰色の宿舎へと歩き去っていく背中を、クラウディアは静かに見送った。
彼が悔い改めようと、悲惨な環境に嘆こうと、そんなことはどうでもいい。彼の労働が利益を生み、奪われた人々の口座へ確実に金が届くこと。それだけが、この試行区の、そしてクラウディアの目的だった。
その時、広場に残っていた護送車から、重いブーツの足音が響いた。
振り返ると、一人の男が降り立っていた。
ユリウスと同じ便でやってきたとは思えないほど、隙のない佇まいだ。漆黒の外套を羽織り、背筋を真っ直ぐに伸ばした長身の男。灰色の瞳をクラウディアへ向け、男は広場を横切ってきた。
男はクラウディアの前まで歩み寄ると、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、彼女の目の前に突きつけた。
そこには、王都の紋章と、管理局とは別の監察局の印が押されている。
「ノルデン賠償執行区所長、クラウディア・ヴェルンだな」
低く、事務的な声。
「私は法務省の独立監察局から派遣された執行監察官、アルヴィン・グレイだ」
「監察官、ですか」
「そうだ。主要な債権者であり、かつての被害者であるあなたが所長を務めるこの施設において、執行対象者に対する不当な扱い、あるいは私怨による報復が行われていないか。そのすべてを厳密に監査させてもらう」
男――アルヴィンは、令状を差し出したまま彼女の返答を待った。
クラウディアがかつての婚約者を虐げるためにこの職に就いたのではないかと、最初から疑ってかかっている目だ。
だが、クラウディアは顔色一つ変えなかった。
むしろ、好都合だとさえ思った。自分の行動が正当であると証明するためには、第三者の厳しい目が必要だったからだ。
「ええ。規則通りの監査を、歓迎いたします。監察官殿」
クラウディアは凛とした声で応じ、アルヴィンの冷たい視線を正面から受け止めた。
アルヴィンは令状を下ろした。
「では、最初にあなた自身の債権処理を確認する」
「帳簿は所長室にあります。どうぞ」
クラウディアは先に立って歩き出した。




