第37話 所長の印章がなくても送れる
所長室の机に、見慣れない印章箱が置かれていた。
王都の独立監察局から来た審査担当官のものだ。マルタが、配分計画と銀行記録をその前へ並べている。
クラウディアの決裁印は、引き出しにしまわれたままだった。
「本日は、クラウディア様の債権を含む最終配分計画を審査します」
マルタが確認する。
「はい。金額も順位も、私からは指示しません」
就任時に定めた決まりだ。自分の債権処理には関わらない。交際を始めたアルヴィンも、この審査には加わらない。
裁判所から届いた通知は、その取扱いを改めて確認するものだった。
「本人抜きで処理できなければ、最初からこの職には就けませんから」
クラウディアはそう言って席を立った。
審査担当官は頷き、マルタへ銀行の控えを求めた。挨拶に愛想はない。それが、今日はありがたかった。
クラウディアは別室で、住民の雇用相談と春の市場の準備を進めた。
金銭の審査から外れたからといって、所長の仕事がすべてなくなるわけではない。けれど、あの机を気にして戻る必要もなかった。
昼前に、マルタが報告に来た。
「配分計画は承認されました。現在の係争中口座には三百十二金貨。ほかに今後の収益から払う残額があり、そちらにはクラウディア様の百五十七金貨が含まれます」
「私の口座に、今送るわけではないのですね」
「はい。今日は計画の審査です。実際の入金は、原資と送金条件が揃ってから。判決時の百三金貨とは別に管理します」
マルタは二枚の台帳を閉じた。
一方は被害者へまだ届いていない資金。もう一方は、クラウディアがすでに受領しながら、使わずにいる自分の金だった。
「こちらの百三金貨は、いつでも生活口座へ移せます。受け取りを待つ義務はありません」
「……分かっています」
返事が小さくなった。
誰かの支払期限には迷わず動けるのに、自分の家の話になると、まだ手が止まる。
マルタは急かさず、書類を片付けた。
「決められたら、銀行へ。手続きはこちらでできますから」
午後の休憩室には、先にアルヴィンがいた。
彼も審査室へは入らず、別件の現場報告を片付けてきたところだった。
「君の署名がなくても、承認が下りた」
「私が休んでも、今度は私自身の件でも、進むのですね」
「それを作ったのは君だ」
クラウディアは向かいに座り、茶を注いだ。
「明日は雪かもしれません。こんな時間に、私が座っているなんて」
「今日はもう降っている」
アルヴィンが窓を指した。
細い雪が流れている。クラウディアは笑い、彼のカップを手元へ寄せて、もう少し茶を足した。
短い休憩を終えて戻ると、裁判所からの通知が届いていた。
ベルナール側による閉鎖申請が、正式に受理されたという。
クラウディアは文面を最後まで読んだ。
申請の受理は、閉鎖の決定ではない。だが、その違いが分からないまま広まれば、町の取引は止まる。
「明日の朝、住民に説明します。閉鎖を退ける理由も、もし退けられなかった場合の備えも」
彼女はマルタを呼んだ。
今度は所長として、自分が署名する書類だった。




