第36話 最後の市場にはしない
その後も倉庫の改修と出荷を続け、冬の終わりが近づいた朝。ノルデンの広場に設けられた市場には、冬前に立ち上げた冬用案件の製品――上質な防寒具や、保存の利く干し肉、雪害対策用の修繕部材――が山のように積まれていた。
共同倉庫は最後の区画まで使えるようになった。移転で落とした売上を取り戻すためにも、今日の買付けが必要だった。
しかし、市場を歩く行商人たちの足取りは、ひどく重かった。
「……やはり、影響が出ていますね」
広場を見下ろす高台から、クラウディアが静かにつぶやいた。
いつもの市場なら、良質な品物を求めて商人たちが朝から値段交渉の声を張り上げているはずだ。しかし今日は、遠巻きに品物を眺めるだけで、実際に買い付けを行おうとする者が極端に少なかった。
マルタとローディンが、顔を曇らせて報告に上がってきた。
「所長。やはり王都で流されている風評工作の影響です。『ノルデンは所長の不正により、まもなく正式に閉鎖される』という悪質な噂が、商人たちの耳にも届いています」
「閉鎖される予定の町と大口の取引を結べば、前金を持ち逃げされるか、品物が届かないかもしれない。商人たちが様子見に回るのは当然の心理だ」
アルヴィンが腕を組み、忌々しげに舌打ちをした。
以前、囚人製品は不衛生だという風評が流された時は、第三者の品質検査と返品保証という手段で切り抜けた。だが、今回は違う。「行政区そのものが閉鎖される」という根源的な不安に対し、小手先の品質保証や返品約束など何の意味も持たない。閉鎖されれば、保証の主体そのものが消滅してしまうからだ。
「どうします、所長。このままでは冬の出荷予定枠が埋まりません。強引にでも値下げして売り捌きますか?」
「いいえ。安売りは絶対にしません。それは私たちの製品の価値を自ら貶める行為です」
焦るローディンに対し、クラウディアはあくまで冷静だった。
「予約済みの相手へ納品方法を確認します。前金は銀行で分別管理し、引き渡せなければ返す。その条件を示したうえで、必要な分だけ買ってもらいましょう」
クラウディアの視線の先。
王都へ続く雪深い街道から、数台の堅牢な荷馬車が連なってやってくるのが見えた。
先頭の馬車に掲げられていたのは、『ハルト商会』の紋章。そして後ろに続く三台の馬車には、それぞれ別の王都の有力商会の紋章が刻まれていた。
広場に到着するなり、馬車から降り立ったエミリア・ハルトは、様子見をしている商人たちを掻き分けるようにして、真っ直ぐに防寒具と修繕部材の並ぶ区画へと歩み寄った。
「こちらの修繕部材を、先に取り決めた数量でお願いします。前金は契約どおり、銀行の預り口座へ入れてあります」
エミリアの堂々たる宣言に、周囲の行商人たちがざわめいた。
顔見知りの商人が、慌ててエミリアを引き止めようとする。
「お、お待ちくださいハルト会頭! ご存じないのですか、この町はまもなく閉鎖されるという噂で持ち切りです! 前金など払えば、金だけ取られて品物が届かない危険が……!」
「噂、ですか」
エミリアは冷ややかに鼻で笑うと、後ろに控えていた三人の商会長たちを振り返った。彼らもまた、エミリアと同じように迷いのない足取りで、保存食や木材の買い付けを始めている。
「私たちは噂など信じません。信じるのは、自分たちの帳簿と、これまでの実績だけです」
エミリアは、周囲の商人たちに向かってはっきりと通る声で告げた。
「私の店は数ヶ月前、資金繰りが悪化して倒産寸前でした。その店を救ってくれたのは、まさにこのノルデンから、約束の日に、約束の金額が一銅貨の狂いもなく送金されてきた『二十四金貨』です。そして後ろにいる三つの商会も、ノルデンと契約を結び、極めて適正な品を、適正な価格で期日通りに納品されてきたという揺るぎない『実績』を持っています」
エミリアの言葉に、商人たちの間の動揺がピタリと止まった。
「閉鎖の申請があるのかは、裁判所へ確認しています。私たちは品の引渡しと前金の保全を確かめて、この数量なら取引できると判断しました」
エミリアは銀行の預り証を机に置き、注文に署名した。
一人の行商人が、エミリアの置いた預り証を覗き込んだ。
「同じ条件で、うちも十樽だけ頼めるか」
「数量と引渡日を、こちらへお願いします」
マルタが注文用紙を差し出す。
昼までには修繕部材の追加注文も入った。買わずに帰る者もいて、広場の品がすべてなくなったわけではない。
閉場後、ローディンとマルタが残った品を数えた。予定には届かないが、今週の材料費と賃金を賄い、来週の市場も開けるだけの注文はある。
「……続けられますね」
クラウディアが言うと、ローディンは注文表を巻いて懐へ入れた。
「明日から、これを納めるぞ」
市場が無事に終わり、夕闇がノルデンを包み込んだ頃。
執務を終えた所長室で、クラウディアは一人、暖炉の火を見つめながら温かいお茶を飲んでいた。
そこへ、夜警の準備を終えたアルヴィンが入ってきた。彼はいつものように向かいの椅子に座ると、懐から小さな紙包みを取り出し、テーブルの上に置いた。
「アルヴィン? それは?」
「今日の市場の片隅で、住民が売っていた手作りの焼菓子だ。こっそり予約しておいた」
アルヴィンが包みを開くと、ふわりと甘く香ばしい匂いが漂った。素朴だが、蜂蜜と木の実がたっぷりと使われた美味しそうな菓子だった。
「……よくやったな、クラウディア」
静かな部屋に、アルヴィンの低く落ち着いた声が響いた。
執務中には聞かない、恋人としての柔らかな呼び方だった。
クラウディアは目を見張り、やがて頬をわずかに染めて微笑んだ。
「あなたがいなければ、きっと途中で心が折れていました。……ありがとうございます、アルヴィン」
二人は温かいお茶と甘い焼菓子を分け合いながら、静かで穏やかな時間を過ごした。過酷な辺境の冬にあって、その空間だけは、互いへの絶対的な信頼と甘やかな熱に満たされていた。
焼菓子を食べ終えたところで、クラウディアは明日の予定を見た。
自分自身の債権を含む、最終配分計画の審査。その欄には、最初から彼女とアルヴィンの名が外されている。
「明日は、マルタに任せる日ですね」
「ああ。本部の担当官も来ている」
クラウディアは予定表を閉じ、残っていた茶をゆっくり飲んだ。




