第35話 署名しかけた借換え証書
ネラは、ペン先を署名欄の上で止めた。
机の向こうの男は、急かさなかった。工房に残っている糸の量も、借入の返済日も知っている顔で、静かに待っていた。
「額面の八割です。買い取りに応じてくだされば、残りの借入も更新できます」
「これを断ったら?」
「更新の審査は、難しくなるでしょうね」
病床の母を起こしたくなくて、ネラは声を抑えた。
冬の着金で、工房は一度持ち直した。しかし、次の借入期限までなくなったわけではない。糸を仕入れ、織って売るまでの間を、この男は狙ってきた。
連絡会へ相談するべきだとは分かっている。けれど、また助けてほしいと頼むのが怖かった。
玄関で、鐘が鳴った。
男の目が細くなる。
「お客ですか」
「約束していたんです」
ネラは席を立った。エミリアとレミが戸口にいる。
窓口へ相談を出したのは、昨夜遅くだった。来てもらえるとは思っていなかった。
「まだ、署名していない?」
エミリアが尋ねる。
ネラは、ペンを握ったまま頷いた。
レミは男の前に座り、同席の記録を取り始めた。エミリアは別の書類をネラへ差し出す。
「すぐに決めなくていい。この注文の前払金と、短期の共同保証が使える」
「でも、皆だって苦しいのに」
「返せる見込みを確かめてから持ってきたの。贈り物ではないわ」
保証には上限も、返済日も記されていた。エミリア一人が無制限に背負うのではなく、参加を承諾した商会が分けて引き受ける。
ネラはその条件を読んだ。今月を越えれば、納めた布の代金が入る。家族の工房を残すために、債権まで手放さずに済む道があった。
「こちらの契約と、比べてもいいですか」
ネラが男に尋ねた。
「この買い取り条件は、本日限りです」
「では、今日は契約しません」
言った途端、声が震えた。それでもペンを置けた。
男はエミリアを睨んだが、レミの記録用紙に気づき、口を閉じた。
「融資の件は、別に連絡が来ますよ」
「その条件も、書面でお願いします」
ネラが答えた。
男が去ってから、彼女はようやく椅子に座り込んだ。
エミリアは、署名されなかった証書を取り上げた。
「写しを取って、監察局へ送るわ。あなたの選んだことも、変えずに伝える」
数日後、その報告がノルデンへ届いた。
クラウディアは最後まで読み、長く息を吐いた。ネラが断れたことだけでなく、断るための資金計画が付いていることが嬉しかった。
「連絡会が、自分たちで間に合わせたのですね」
「こちらには、監察局からの回答も来ている」
アルヴィンが、封印のある写しを広げた。
秋から進めていた金融組合の調査に対し、裁判所が帳簿の提出を命じたのだ。そこには代理人の旅費、宿泊費、成功報酬の支払先が記されていた。
「同じ男だ。エミリアの店へ来た時の名も、宿泊日も一致する」
「支払元は?」
「中央局の外郭口座。銀行の記録も照合した」
クラウディアは、二つの紙を並べた。
玄関先で脅した男の費用が、被害者への送金を扱う局の外側から支払われている。使い道の分からなかった金が、具体的な行動と結びついた。
「原記録を裁判所へ。私たちの写しも、別に保管しましょう」
アルヴィンが頷く。
その下に、エミリアからの追記があった。
『王都で、ノルデンが閉鎖されるという話が広がっています。買付けを止めた商会があります。そちらの注文にも影響が出るかもしれません』
クラウディアは、次の市場の予約表を引き寄せた。
空欄が、先週より増えていた。




