第32話 あなたが私から奪ったもの
王都から帰還したばかりの冷え切った所長室。
クラウディアがデスクに着くと、間もなくして重い扉が開いた。入ってきたのは、灰色の作業着に身を包んだユリウスだった。
彼は入室するなり、クラウディアの傍らに控えていたアルヴィンへ一瞥をくれた。アルヴィンは何も言わず、ただクラウディアに向かって小さく頷き、静かに部屋を出て扉を閉めた。
面談はクラウディア自身が受けると決めた。扉の外には職員が待機し、必要ならすぐ呼べることも確認してある。
静まり返った部屋の中で、ユリウスはしばらくの間、足元の床を見つめていた。
やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。
「……王都での公聴会の結果を聞いた」
彼の声はひどく掠れていた。
「君は自らの手で、中央賠償管理局の不正を暴き、被害者たちへの直接送金命令を勝ち取ったそうだな。私が未検証のまま凍結した事業の裏にあった巨大な悪意を、君一人で叩き潰してきたと」
「ええ。ですが、それは私一人の力ではありません。アルヴィン監察官や、被害者連絡会の方々との連携があってこその成果です」
クラウディアは淡々と事実だけを述べた。
ユリウスは痛ましげに顔を歪め、その場に深く頭を下げた。
「私は……取り返しのつかないことをした」
搾り出すような声だった。
「己の目を過信し、権力を無自覚に振りかざし、あの夜、君を一方的に断罪した。その結果、君がどれほどのものを失い、どれほどの地獄を見たのか……ここで泥にまみれ、君が作り上げた制度の中で働かされるようになって、ようやく理解した。私は、君からあまりにも多くのものを奪ってしまった」
ユリウスの言葉には、確かな後悔が滲んでいた。
彼がノルデンで重ねてきた過酷な肉体労働は、彼から『王太子』という虚飾を剥ぎ取り、己の愚かさを直視させていた。
クラウディアは、ユリウスが言い終えるまで待った。
許してほしい、憐れんでほしい。そんな響きが少しでも混じっていれば、即座に叩き出していただろう。彼女は手元のペンを置き、正面から彼を見据えた。
「ええ、ユリウス。あなたは私から、数え切れないほどのものを奪いました」
クラウディアの声は静かだったが、そこには長年抑え込んできた怒りと、生々しい傷の痛みがはっきりと乗っていた。冷静な実務家の顔の下に隠されていた、一人の人間としての切実な感情の吐露。
「次期王妃として、血を吐くような思いで耐え抜いた六年間の婚約者教育。あの日、集まった人々の前で、反証の証拠を提出して話を聞いてもらうという当然の権利。……偽証を疑いながらも保身に走った家族から切り離され、地方の別邸でいつ処分されるとも知れずに過ごした、暗く絶望的な時間」
ユリウスが、息を呑んで顔を歪めた。
彼が奪ったものの重さが、言葉となって直接彼の胸を突き刺す。
「そして何より、あなたは私の『将来を自分で選ぶ権利』を奪ったのです」
クラウディアは真っ直ぐに彼を射抜いた。
「私がどんな人生を歩むのか、誰と手を取り、何を成し遂げるのか。それを、私の意思とは無関係に、あの夜のあなたのたった一言がすべて破壊した。……それが、あなたが私に犯した罪の正体です」
静かな所長室に、クラウディアの言葉だけが鋭く響き渡った。
ユリウスは反論することも、見苦しい言い訳をすることもなかった。ただ、蒼白な顔でその言葉のすべてを受け止めていた。
クラウディアはふと、深く冷たい息を吐き出した。
「ですが、私があなたに返してほしいのは、失われた六年間の地位や、過去の愛情ではありません」
「……」
「返してほしいのは過去ではなく、私が自分の将来を選ぶ自由です。私がこれから自分の意思で選ぶ仕事に、そして私の人生に、二度と立ち入らないこと。……あなたに対する望みは、それだけです」
復縁の可能性も、王太子としての特権的な許しも、この辺境には何一つ存在しない。
ユリウスはしばらくの間、目を伏せて黙り込んでいた。
やがて彼は、諦めとも、覚悟ともとれる静かな声で答えた。
「……分かった。私の残債務は、今の時点でまだ四百七十六金貨、残っているな」
「ええ。最初の二十四金貨、その後の二十金貨、冬の八十金貨を受領済みとして、その残額です」
「私は、それを返すためだけに働く。これ以上、君に許しを乞うような見苦しい真似はしない。君の人生には、もう二度と触れない」
ユリウスは深く一礼し、踵を返した。
彼の背中にはもう、かつての王太子の傲慢さはなかった。ただ借金を返すためだけの、一人の労働者としての背中だった。
扉が閉まり、所長室に再び静寂が戻る。
クラウディアは椅子の背もたれに深く寄りかかり、ゆっくりと目を閉じた。
ペンを持っていない指が、細かく震えていた。言えたからといって、あの夜が消えるわけではない。それでも、次に彼の言葉を待つ必要はなくなった。
不意に、扉が開く音がした。
目を開けると、外で待機していたアルヴィンが、静かに部屋へ入ってくるところだった。
彼はクラウディアの顔を見て、何かを察したように歩みを止めた。
「……終わったか」
「言いたかったことは、言えました。……少し、座っていてもいいですか」
クラウディアは立ち上がり、デスクを回り込んで彼の方へ歩み寄った。
彼女の顔には、長年の枷から解放された、晴れやかで柔らかな光が満ちていた。
「待たせましたね、アルヴィン」
クラウディアは、自分を支え、守り、対等に戦ってくれた男の灰色の瞳を、真っ直ぐに見上げた。
「過去の話は、これで終わりです。……ここからは、私の未来の話を」
王都からの帰路、雪の降る馬車の中で告げられた、不器用で誠実な求愛。
自分の意思で将来を選ぶ権利を取り戻した彼女は、今、その最初の選択を口にしようとしていた。
「あなたへの返事を、させてください」




