第31話 帰る場所と、仕事の外の話
王都高等裁判所、大法廷。
高い天井に、裁判長の声が響いた。
「昨日の公聴会にて提出された証拠の重大性に鑑み、当裁判所は、中央賠償管理局長ベルナール侯爵、ならびに同秘書官パスカル・エルデンに対する本格的な法調査の開始を命ずる」
被告席に立つベルナール侯爵の顔は土気色に染まり、弁護士へ何度も小声で尋ねていた。
彼が駆使してきた「合法な行政手続」という建前は、クラウディアが『七日照合』によって積み上げた百四十六金貨という明確な未着金額と、アルヴィンが掘り起こした『未検証メモ』の存在によって打ち砕かれていたのだ。
「さらに、本調査の完了と最終判決が下るまでの間、被害者の権利保全を目的として以下の暫定措置を命ずる。ノルデン賠償執行区で発生した賠償配当のうち、『争いのない確定額』については、中央局を経由させない被害者直結口座への直接送金を全面的に保護する」
「……っ!」
「一方で、管理予備金、超過手数料、および外郭口座への関与が疑われる『争いのある係争額』については、これを中央局へは渡さず、当裁判所が管理する『係争中隔離口座』へ一時的に累積させるものとする。……以上である!」
木槌が鳴らされ、審理は終了した。
これから認証する配当は、中央へ渡さず保全できる。クラウディアは命令書の送付先に地方銀行が含まれていることを確かめた。
「終わりましたね」
閉廷後、裁判所の廊下を歩きながら、クラウディアは小さく息を吐いた。
「ああ。これからの賠償原資は保全できる。ただ、調査開始の命令だけで局長を免職にはできない。今回保護された送金へ手は出せなくても、ほかの行政申請を行う権限や、これまで動かした資金、取引先は残る。現場でも備えが要る」
隣を歩くアルヴィンも、満足げに頷いた。
その時、廊下の前方に数人の司法官僚や高位貴族たちが待ち構えていた。彼らは満面の笑みを浮かべ、クラウディアに擦り寄ってきた。
「ヴェルン所長! 見事な立証でしたぞ」
「ええ、我々もあの時の事件には心を痛めていたのです。つきましては、あなたの不当な追放を謝罪し、王宮で盛大な『名誉回復式典』を開こうという声が上がっておりまして……」
勝ち馬に乗ろうとする、浅ましい権力者たちのすり寄り。
クラウディアは歩みを止めることなく、冷ややかな視線だけで彼らを射抜いた。
「お断りします」
「え……?」
「私に必要なのは、着飾って虚栄を満たすための式典ではなく、被害者の方々へ一銅貨でも早く、多くの金を届けるための実務の時間です。これ以上、私の公務の邪魔をしないでください」
クラウディアは取り付く島もなく彼らを切り捨て、真っ直ぐに裁判所の出口へと向かった。
かつて、彼女が何よりも重んじていた『王都での評価』や『貴族としての名誉』。今はもう、そんなものに一欠片の価値も見出せなかった。彼女が帰るべき場所は、被害者たちに返すための金を生み出している、あの冷たく泥臭い辺境の地だった。
その日の夜。
王都を出発し、ノルデンへと向かう帰路の馬車の中。
窓の外には暗い雪原が広がっていたが、車内は魔石のストーブによって快適な温度に保たれていた。
アルヴィンは手元の監査台帳に最後の署名を書き込み、パタンと表紙を閉じた。
「……王都での審理に関するすべての監査記録、完了だ。今回の利益相反の申し立ては退けられた。ノルデンへ戻って職務を続けられる」
「あなたの監査証明があったからです。アルヴィン、本当にありがとうございました」
クラウディアが深く頭を下げると、アルヴィンは台帳を鞄にしまい、一つ深く息を吐いた。
彼は外套の襟を緩め、クラウディアの方へ座り直した。
「一つ、先に伝えておく。今後のノルデンの金銭監査は、本部の別担当者が最終承認する。私自身が金銭監査の決裁担当の変更を申請して、今日、決まった」
「なぜですか」
「あなたへの気持ちを抱えたまま、私一人で適否を決めるべきではないからだ。現地の証拠保全と安全確認は続けるが、あなたの評価と債権処理からは外れる」
アルヴィンは、膝の上で両手を組んだ。
「……ここからは、その理由を、勤務の外で聞いてほしい」
アルヴィンの声のトーンが変わったことに気づき、クラウディアはわずかに肩を揺らした。
ノルデンを出発する朝、雪の中で彼が告げた『少し、勤務外で話したいことがある』という予告。
アルヴィンは真っ直ぐにクラウディアを見据えた。灰色の瞳には、一人の男としての熱情と誠実さが宿っていた。
「かつて、すべてを奪われた君が、自らの足で立ち上がり、法と数字を武器にしてあのベルナールを追い詰めた。俺は、君のその強さと、孤独な戦いを心から尊敬している。……だが、それだけじゃない」
馬車が微かに揺れる中、アルヴィンの低く落ち着いた声だけが、クラウディアの耳に届く。
「俺は一人の男として、クラウディア、君という女性に強く惹かれている」
「アルヴィン……」
「勘違いしないでくれ。俺は君の仕事を取り上げて、庇護下に入れたいわけじゃない。君が被害者のために戦うなら、俺はその戦いを守る盾になる。……君の隣に立つ男として、俺を選んでくれないか」
クラウディアの胸の奥で、張り詰めていた氷が溶け出し、温かいものが込み上げてきた。彼女もまた、この過酷な日々の中で、彼の不器用な優しさと絶対的な信頼に、どれほど救われてきたか分からなかった。
「……返事は、急がせない。今はただ、俺の意思を伝えたかっただけだ」
アルヴィンが少しだけ照れ隠しのように視線を逸らすと、クラウディアは小さく、だがはっきりと微笑んだ。
「王都では、私もまだ気を張っていましたから。……ノルデンへ帰ったら。私たちの帰る場所へ着いたら、きちんと私自身の言葉で、お返事します」
クラウディアの答えに、アルヴィンは安堵の息を吐き、静かに頷いた。
二人の間の曖昧な境界線は、すでに過去のものとなっていた。
数日後。
雪に覆われたノルデン賠償執行区の正門を、馬車がくぐり抜けた。
広場では一般住民たちが活気づいており、留守を任されていたマルタとローディンが、満面の笑みで所長の帰還を出迎えた。
「所長! 監察官殿! 王都での大勝利、通信鳥で伺っております!」
「ええ。あなたたちがここで事業を守り続けてくれたおかげです」
クラウディアが馬車から降り、マルタの手を握った。
しかし、喜びに沸くマルタの表情が、ふと深刻なものに変わった。彼女は声を潜め、クラウディアの耳元に身を寄せた。
「所長。ご帰還早々、申し訳ありません。……実は、ユリウス元殿下が」
「ユリウス元殿下が、どうしたのですか?」
「『王都から戻り次第、クラウディア所長との正式な面会を要求する』と。……休息時間の面会枠でよいので、直接お伝えしたいことがあると申し出ています」
クラウディアの表情から、柔らかな微笑みが消えた。
隣に立つアルヴィンも、厳しい目つきで振り返る。
クラウディアは冷たい冬の空気を深く吸い込み、マルタへ向き直った。
「分かりました。面会要求を受理します。……所長室へ通しなさい」




