第30話 合法な留保、違法な凍結
アルヴィンが突きつけた色褪せた一枚の羊皮紙。
かつて、クラウディアの無実の可能性を示唆し、事業凍結を見送るべきだと警告した『未検証メモ』の存在が暴露された瞬間、王宮の第一大広間は静まり返った。
中央賠償管理局長・ベルナール侯爵の顔から、微かに血の気が引くのが見えた。しかし、長年権力の中枢を泳ぎ渡ってきた老練な狸は、すぐさま顔に鉄面皮を貼り付け、重々しく息を吐いてみせた。
「……なるほど。確かに当時、実務官からそのようなメモが上がってきていたことは認めよう」
ベルナールは堂々とした態度で証言台を見据え、言い放った。
「だが、だから何だと言うのかね? 当時、王太子であったユリウス殿下から『明らかな不正があるゆえ、即時の事業凍結を求める』という強い要請があったのだ。我々管理局は、一介の実務官の未検証メモよりも、王太子の要請と総合的な行政判断を優先したまでだ。結果としてクラウディア所長には気の毒なことをしたが、行政手続きとしては何ら違法性はない。……現在、当事者である貴官らが騒ぎ立てている『管理予備金』の留保にしても同じことだ」
ベルナールは広間を見渡し、大声で己の正当性を主張し始めた。
「賠償法の特例において、中央局が被害者への送金準備やシステム維持のために、賠償金を一時的に運用し留保することは明確に認められている! それを横領だの何だのと騒ぎ立てるのは、法規を理解していない地方所長の無知と、個人的な私怨による言いがかりに過ぎない!」
合法。一時運用。行政判断。
分厚い法の壁と権力の盾。ベルナールは、どんな証拠を突きつけられても、最終的にはこの『合法の範疇である』という強弁で逃げ切れると高を括っていた。
だが、クラウディアの氷のように澄んだ瞳は、彼のその態度を見透かしていた。
「ええ。ベルナール局長のおっしゃる通りです」
クラウディアの思いがけない肯定に、ベルナールがわずかに眉を動かした。
「法規上、中央局による一時留保そのものは、法の穴を突いた『合法な運用』でしょう。その点について争うつもりはありません」
「ほう。ならば、これ以上の審理は無意味だということだな」
「いいえ」
クラウディアの声が、冷たい刃のように広間の空気を切り裂いた。
「私が告発しているのは、合法な留保の裏に隠された『明確な違法行為』についてです」
「な、何……?」
「一時留保が合法であるからといって、法定上限を大幅に無視した『超過手数料の天引き』が許されるわけではありません。被害者の口座にはまだ届いていないにもかかわらず、中央の帳簿上では送金完了とした『虚偽の受領日報告』。さらには……」
クラウディアは、エミリアたち被害者連絡会から託された分厚い報告書を掲げた。
「ノルデンからの送金と被害者の着金額の差で生じた百四十六金貨をはじめとする莫大な資金を、正規の帳簿に乗らない『外郭口座』へ流用し、それを原資として、王都の金融組合に被害者の債権を八割で買い叩かせる圧力をかけていた疑い。受領日の虚偽は銀行記録で確認しました。外郭口座の全容は、正式な調査で明らかにしていただきたい」
「で、出鱈目を言うな! そのような事実はない! すべて貴官が捏造した私怨の産物だ!」
ベルナールが怒声とともに机を叩いた。
アルヴィンが発言の許可を得て、原本の照合記録を示した。
「法務省独立監察局・執行監察官として宣言する。クラウディア所長が提示したすべての記録、ならびに被害者連絡会からの受領台帳は、監察局の厳格な照合と監査を経た真正な証拠である。各原本の保管先と、照合した日付も提出する」
ベルナールは息を呑み、反論の言葉を喉に詰まらせた。
クラウディアは証言台から一歩踏み出し、被告席に立つベルナールを真っ直ぐに見据えた。
「あの夜。建国祝賀会の夜、私はすべてを奪われました」
「セシリアの承認欲求や、ユリウス元殿下の傲慢さが引き金になったのは事実です。しかし、ユリウス元殿下が命じ、側近たちが実行した凍結を、検証の機会があったあなたも止めなかった。……あなた自身の責任を問うています、ベルナール侯爵」
「……っ!」
「私が担当していた『直接支払試行事業』が全国に拡大すれば、賠償管理局が中抜きできる留保運用益……すなわちあなた方の裏金が激減する。あなたはその利益を得る立場にあり、未検証という警告を受けながら凍結を承認した。パスカルへの指示の範囲も含め、正式な調査が必要です」
広間の誰もが息を止めた。
一介の令嬢の嫉妬や、恋愛のもつれによる悲劇だと思われていたあの時の断罪。その損害を広げた過程には、利権を持つ官僚の判断も重なっていた。
クラウディアの人生を狂わせた個人的な傷と、ノルデンの被害者たちを苦しめている制度の巨悪が、今ここで一本の線で繋がった。
「あなたの強欲が奪った千八百六十金貨の重みを、この場で完全に証明してみせました。……これ以上、被害者の金で私腹を肥やすことは絶対に許しません」
クラウディアの宣告は、反論の余地を持たない調査を避けられない告発だった。
ベルナールは額に脂汗を浮かべ、ワナワナと唇を震わせたが、もはや「合法だ」という言葉すら紡ぐことができなかった。彼の背後で、実行犯であるパスカルはすでに崩れ落ち、虚ろな目をしている。
広間の貴族や官僚たちは、クラウディアの理路整然とした告発と、暴かれた巨大な闇の前に、水を打ったように静まり返っていた。かつて、彼女を嘲笑した者たちの口は塞がれていた。
沈黙を破ったのは、裁判長の厳粛な声だった。
「……証拠と証言の提出は、十分に果たされたと認める」
裁判長は木槌を手に取り、広間に向かって宣言した。
「本日の審理において提出された証拠の重大性に鑑み、裁判所は以下の決定を下す。クラウディア・ヴェルン所長の利益相反による権限濫用の疑いについては、これを完全に棄却する。また、被害者の権利を保全するため、本件に関する直接送金の暫定保護、ならびにベルナール局長およびパスカル秘書官への本格的な法調査の可否について……明日の緊急審理にて、最終的な判断を下すものとする!」
木槌が打ち鳴らされ、公聴会は閉廷となった。
ベルナール侯爵は立ち上がることすらできず、警備の騎士たちに囲まれながら被告席に座り込んでいた。
クラウディアは静かに一礼し、証言台から身を翻した。
「……終わったな」
控室への廊下を歩きながら、アルヴィンが低い声で言った。
「ええ。私たちの提出した証拠がすべて採用されました。明日、彼らへの本格的な調査と、直接送金の保護命令が下れば、金を中央から切り離す、大きな一歩です」
「よくやった、所長。……いや、クラウディア」
アルヴィンが、彼女の職名ではなく、初めて私的な名前で呼んだ。
あの時の因縁を自らの手で断ち切り、王都の闇を晴らした彼女の横顔は、張り詰めていた糸が少しだけ解け、柔らかい光を帯びていた。
明日、次の送金を守れるかどうかが決まる。
そして、二人が交わした『勤務外の約束』の時が、すぐそこまで迫っていた。




