第29話 妹の一度きりの証言
王宮の第一大広間は、水を打ったような静けさに包まれていた。
無数の貴族たちの視線が、部屋の中央に進み出た小柄な少女に突き刺さっている。
セシリア・ヴェルン。
あの時の建国祝賀会で、姉であるクラウディアの不正を涙ながらに告発し、その場で王太子ユリウスの腕にすがりついて『次の婚約者』としての内定を勝ち取った女。
あの夜、彼女は華やかなシルクのドレスを纏い、悲劇のヒロインとしてすべての同情と称賛を独占していた。しかし今、彼女が身に纏っているのは、泥と埃が染み付いたノルデン賠償執行区の灰色の作業着だった。その手首には手錠こそないものの、屈強な衛兵に両脇を固められている。
「証人、セシリア・ヴェルン。宣誓の上、真実を述べよ」
裁判長の重々しい声が響いた。
セシリアはビクッと肩を震わせ、傍聴席にいる両親の姿を一瞬だけ見た。父親は青ざめ、母親はハンカチを口に当てて目を逸らした。公爵家は先ほど、クラウディアの公的な絶縁宣言によって、彼女たち姉妹の動向から切り離されていた。もう、実家という後ろ盾は何もない。
セシリアは小さく息を吸い込み、証言台の向こう側に座るクラウディアを見た。
姉は何も言わなかった。セシリアが言葉を探す間も、目を逸らさずに待っていた。
「……あの夜。私は、姉の救済事業の帳簿に、架空の横領の記録を書き込みました」
セシリアの震える声が、マイクの役割を果たす魔石を通じて広間に響き渡った。
「その際、私に『特定の記号』と『数字の間隔の取り方』……中央の官僚たちが暗号として使う内部様式を教え、本物の書類にその嘘を混ぜ込むよう指示した人物がいます」
「その者の名を、ここにいる全員に聞こえるように告げなさい」
クラウディアが静かに促した。
セシリアの視線が、被告席側に座る恰幅の良い男――ベルナール侯爵の背後に立つ、痩せぎすの男を捉えた。
「当時、王太子府へ出向していた……パスカル・エルデン氏です」
広間が大きくどよめいた。
名指しされたパスカルの顔から、一気に血の気が引いた。彼はベルナール侯爵の筆頭秘書官であり、賠償管理局の裏の実務を取り仕切る男だ。
「彼、彼は私にこう言いました。『この様式に従って姉の帳簿に不正の痕跡を作れば、彼女は確実に失脚する。そうすれば、公爵家でのあなたの評価は、あの完璧な姉を超えることができる』と。……私は、彼から渡された様式マニュアルを見ながら、その通りに数字を書き換えました」
クラウディアが立ち上がり、先ほど提出した『貸出票』と、ノルデンで押収した『管理予備金の送金票』を並べて掲げた。
「裁判長。証人の言葉通り、あの時の私の偽造帳簿に用いられた数字の癖と、現在、中央賠償管理局が不当に天引きを行っている百四十六金貨の送金票の癖は、完全に同一のシステムに基づいています。パスカル・エルデンが当時王太子府の書庫から様式マニュアルを持ち出した貸出票の記録と合わせれば、彼がこの偽造を主導したことは明白です」
動かぬ物的証拠と、実行犯の生々しい自白。
パスカルは「ち、違う! 私はただ資料を貸しただけで……!」と叫ぼうとしたが、その声は恐怖で裏返っていた。
「さらに、申し上げたいことがあります」
セシリアが、パスカルの言い訳を遮るように声を張り上げた。
彼女は両手を強く握り締め、自分の全身を震わせながらも、はっきりと前を向いていた。
「私は、彼に脅されて嘘を書いたわけではありません」
「……セシリア?」
予想外の言葉に、傍聴席がざわめく。クラウディアもわずかに目を細めた。
「私は、姉に嫉妬していました。何をやっても完璧で、次期王妃として誰からも尊敬される姉を、蹴落としてやりたかった。パスカル氏に唆されたのは事実ですが……同時に、姉が失脚すれば、私が王太子ユリウス様の新しい婚約者になれるかもしれないという、醜い欲がありました。私は自分の野心のために、自分の意思で、進んで嘘を書いたのです!」
その告白は、広間に衝撃を与えた。
彼女は「悪い大人に騙された哀れな少女」という立場に逃げ込むこともできたはずだ。ノルデンでの彼女は、常に被害者ぶって責任を逃れようとする浅はかな娘だったからだ。
「私は自らの罪を完全に認めます。……裁判長、ならびにクラウディア所長。この証言を行うにあたり、私に対する残債務の減免や、情状酌量は一切要求しません。私はノルデンへ戻り、自らの労働で、被害者の方々への借金を全額返し切ります!」
セシリアの悲痛だが力強い決意表明に、法廷は静まり返った。
自分の罪を明確に言語化し、特権や言い訳という逃げ道を自ら塞ぐ。それはかつて、姉を罠にかけた愚かな少女からの、確かな決別だった。
クラウディアは静かに頷き、書記官へ向けて告げた。
「証人セシリア・ヴェルンの証言と、減刑を要求しない旨を公式記録に記載してください。……この供述は録取し、原記録と併せて保全してください」
同じ証言を何度も繰り返させ、彼女を晒し者にする必要はない。追加の確認が必要かどうかは裁判所が決める。クラウディアが同じ告白を要求し続ける理由はなかった。
実行犯の逃げ場のない自白により、パスカル・エルデンは崩れ落ちた。彼は膝をつき、絶望に顔を覆った。
その時だった。
「……なんという恐ろしい陰謀だ」
被告席の中央で、ずっと沈黙を保っていたベルナール侯爵が大仰に天を仰いだ。
彼は崩れ落ちたパスカルを冷たい目で見下ろし、ひどく芝居がかった声で裁判長に語りかけた。
「裁判長。私は今、言葉を失っております。まさか、私の信頼していた筆頭秘書官が、裏でこれほどおぞましい犯罪に手を染め、ヴェルン所長を陥れていたとは……夢にも思いませんでした。人を見る目のなかった己の不徳を恥じるばかりです」
それは、見事なまでの『トカゲの尻尾切り』だった。
ベルナールはパスカルにすべての罪を被せ、自分は何も知らなかった被害者の一人であるかのように装い始めたのだ。
「かつて、私のもとにクラウディア所長の事業凍結案が上がってきた際、私は提出された帳簿を『正規の証拠』と信じ込んで決裁印を押してしまった。まさかそれが、私の秘書官によって仕組まれた偽造品だったとは。……私は騙されていたのです」
ベルナールは胸に手を当て、深く頭を下げてみせた。
パスカルは裏切られた衝撃に目を見開いたが、侯爵の強大な権力を前に反論の言葉を発することができなかった。
議場の空気が、再び揺らぎ始める。もしベルナールが本当に「知らなかった」のであれば、彼を一連の陰謀の首謀者として裁くことは難しくなる。一時留保の百四十六金貨も、「パスカルが勝手にやったこと」として処理されかねない。
「……本当に、夢にも思わなかったのかな。局長閣下」
アルヴィンが、発言の許可を求めた。
アルヴィン・グレイが、漆黒の外套を翻して証言台の横へ進み出た。彼の手には、色褪せた数枚の書類が握られている。
「監察官。何か言いたいことがあるのかね?」
「ええ。あなたが『騙された』という主張が、いかに浅薄な嘘であるかを証明するために、もう一つ証拠を提出させていただきます」
アルヴィンは、その書類を裁判長へ向けて掲げた。
「これは、私が監察局の特権を用いて、賠償管理局の深部……公聴会の文書提出命令により、封印されていた書庫から取り寄せた、当時の局内資料だ。……クラウディア所長の事業凍結を、あなた自身の決裁印で承認した当日の午前の日付が記されている」
「なに……?」
ベルナールの顔から、初めて余裕が消え去った。
「これは、当時クラウディア所長の事業を監査していた実務官から、あなた宛てに直接提出された『内部メモ』だ。そこには、明確にこう記されている」
アルヴィンの低く、よく通る声が、決定的な一撃を読み上げた。
「『王太子府から提出されたクラウディア・ヴェルン氏の横領に関する資料は、現在未検証である。一部の数字の動きに不自然な点があり、偽造の疑いが濃厚であるため、即時の契約凍結は見送るべきである』……とな」
広間が、爆発したような騒然たる空気に包まれた。
「局長閣下。あなたはこの警告メモを受け取り、クラウディア所長の無実の可能性を知りながら、あえて無視をして事業凍結を承認したのだ。……あなたが『知らなかった』という主張は、今この瞬間に完全に崩壊した」
ベルナールの顔が、かつてないほどの土気色に染まった。
あの時の断罪の夜、権力で握り潰された真実が、百四十六金貨の横領という現在の悪事と結びつき、ついに最大の黒幕の喉元に突きつけられたのだった。




