第26話 王都は何も変わっていない
馬車が王都の強固な城門をくぐり抜けると、そこには辺境の厳しい雪景色とは無縁の、絢爛たる冬の情景が広がっていた。
石畳の通りには手入れの行き届いた馬車が行き交い、沿道の商店には鮮やかな色彩の冬物衣料や高価な宝飾品が並んでいる。道行く貴族たちの表情には、過酷な自然に対する恐れも、明日のパンを案じる切実さもない。
あの夜から、この王都は何も変わっていなかった。
「……ずいぶんと歓迎されているようだな」
向かいの席に座るアルヴィンが、馬車の窓枠に軽く腕を乗せながら皮肉げに言った。
アルヴィンの言う通り、王都の目抜き通りを進む彼らの馬車――ノルデン賠償執行区の紋章が刻まれた馬車――に向けられる視線は、決して温かいものではなかった。
通りを歩く貴族たちがヒソヒソと囁き合い、好奇と嫌悪の入り混じった目で馬車を指差しているのが、窓越しにもはっきりと伝わってくる。
「社交界では、まだ私の噂がくすぶっているのでしょうね」
クラウディアは手元の書類から顔を上げることなく、淡々と答えた。
「『あの時の恨みを晴らすため、復讐の鬼となって辺境の地で元王太子殿下を虐げている恐ろしい女』。あるいは、『権力を濫用して莫大な賠償金を巻き上げている強欲な悪女』……といったところでしょうか」
「怒らないのか。君がどれだけ血の滲むような思いで証拠を作り、適正な労働をさせて被害者へ金を送っているか、奴らは何一つ知らないくせに」
「怒るだけ無駄です」
クラウディアはページをめくり、答えた。
「彼らは真実を知りたいのではなく、自分たちが消費しやすい『物語』を欲しているだけです。悲劇の元王太子と、それをいたぶる悪女。その方が、彼らの退屈な日常を潤すには都合が良いのでしょう。……王都の視線など、私の台帳には一銅貨の価値もありません」
その毅然とした横顔に、強がりや虚勢は一切なかった。
かつて、彼女はこの王都の視線に殺されかけた。周囲の全員が自分を嘘つきだと断定し、冷笑するあの断罪の夜、彼女の尊厳はズタズタに引き裂かれた。
「……違いない。なら、俺も監察官として、堂々と『悪女』のお供をするとしよう」
アルヴィンが小さく笑みをこぼし、クラウディアもまた、ほんのわずかに口角を上げた。
やがて馬車は、貴族たちが立ち並ぶ一等地を抜け、官庁街の奥にある堅牢な石造りの建物へと到着した。
王国の地方官僚や監査官が上京した際に滞在する『公的宿舎』である。
本来であれば、ヴェルン公爵家の令嬢であるクラウディアは、王都にある実家のタウンハウスに滞在するのが常識であり、体面でもあった。しかし彼女は、あえて実家との接触を避け、この公的な施設を滞在先に選んだのだ。
荷物を降ろし、割り当てられた簡素な執務室に入るなり、クラウディアは息をつく間もなく鞄から分厚いファイルを取り出した。
「アルヴィン。明日の公聴会で提出する、百四十六金貨の未着金に関する連続証拠と、監察局の監査証明書の最終確認を行います。相手はあのベルナールです、書面の体裁に一つでも瑕疵があれば、そこを突いて無効化を図ってくるはずです」
「ああ。監察局の独立回線で取り寄せた王都側の着金記録も揃っている。照合を急ごう」
二人は上着を脱ぐのもそこそこに、巨大な机に書類を広げて作業を開始した。
アルヴィンは、クラウディアの横に立ち、次々と数字を読み上げていく。彼は彼女を後ろから守る『護衛』ではなく、ともに最前線で証拠を組み上げる『対等な相棒』としてそこにいた。
作業開始から数時間が経過し、提出書類の束が完成しかけた頃だった。
公的宿舎の管理人が、困惑した顔で執務室の扉をノックした。
「ヴェルン所長。……その、王都のヴェルン公爵家より、使者の方がお見えなのですが」
「通してください」
クラウディアがペンを置いた直後、足音荒く入ってきたのは、見覚えのある公爵家の家令だった。
家令は、簡素な公的宿舎の造りと、作業着に近い実務服で机に向かうクラウディアを見て、あからさまに顔をしかめた。
「クラウディアお嬢様。このような場所に滞在されるなど、公爵家の体面に関わります。公爵様が、ただちに実家のタウンハウスへ戻るよう命じておられます」
高圧的な態度で言い放つ家令に、クラウディアは椅子に座ったまま、冷たい視線を向けた。
「お父様が、私に実家へ戻れと?」
「左様でございます。明日の公聴会には、当家の馬車に乗り、『ヴェルン公爵家の令嬢』として出廷するようにとのことです。お嬢様が辺境で賠償事業を軌道に乗せ、莫大な金額の送金を成功させたことは、公爵家としても大いに誇らしい成果であると、旦那様は仰っております」
その言葉を聞いた瞬間、クラウディアの胸の奥で、静かだが確かな怒りの炎が燃え上がった。
あの時の断罪の夜。
両親は、セシリアの証言が不自然であることに気づきながらも、王家からの追及を恐れ、家名の保全を最優先した。彼らは無実を主張するクラウディアの言葉に耳を貸さず、早々に彼女を地方の別邸へと放逐したのだ。
それが今になってどうだ。
クラウディアが自らの力でノルデンの所長となり、二百二十金貨もの大着金を成功させたと知るや否や、その成功を『公爵家としての功績』として取り込もうとしている。
どこまでも都合のいい、浅ましい権力志向だった。
「家令。お父様に伝えてください。私は実家には戻りません」
クラウディアの毅然とした拒絶に、家令は目を剥いた。
「なっ……! お嬢様、ご自分が何を仰っているのか分かっておいでですか! 公爵様のご厚意を無碍にするなど――」
「これは感情論ではありません。実務上の規定です」
クラウディアは立ち上がり、家令と向き合った。
「私は現在、国王陛下の任命を受けた『ノルデン賠償執行区所長』という公職としてこの王都に滞在しています。明日の公聴会も、一人の行政官として出廷するのです。私が特定の上位貴族であるヴェルン家の庇護下に入り、その令嬢として振る舞えば、公平性を欠く『利益相反』とみなされ、公爵家の意向で証言を変えたのではないかという、不要な疑念を招きます」
「そ、それは……」
「お父様は、私の公務を妨害し、王国の賠償事業に泥を塗るおつもりですか? もしそうであれば、公爵家の当主として極めて不見識であると、明日の公聴会で証言せざるを得ませんが」
感情的な反抗ではなく、公人としての絶対的な拒絶を前に、家令は一言も言い返すことができず、顔を赤くしたり青くしたりしながら後ずさった。
「し、失礼いたします!」
逃げるように退室していく家令の背中を見送り、扉が閉まると、クラウディアは静かに息を吐いて椅子に座り直した。
「……あの返事でいいんだな。次に来ても、同じ窓口へ案内する」
アルヴィンが、感心したように低い声を漏らした。
クラウディアは手元の書類を揃え直しながら、感情のない声で答えた。
「今の私には、守るべき被害者と事業があります。彼らのために積み上げた成果を、実家の保身や虚栄心のために利用させるわけにはいきません」
「ああ、全くだ。……これで、外野の邪魔は消えた。残るは明日の本番だけだ」
アルヴィンは、机の上に広げられた王宮の見取り図を指差した。
そこには、明日の公聴会が行われる会場が記されている。
「明日の審理は、王宮の第一大広間で行われる。……かつて、君がユリウスから断罪された、あの同じ場所だ」
「ええ、知っています」
クラウディアは、その図面を見つめながら、氷のように澄んだ瞳で頷いた。
逃げ場のない群衆の真ん中で、嘘に塗れ、すべてを奪われた忌まわしき舞台。
だが今度は違う。
今度は彼女が、百四十六金貨という動かぬ証拠を携え、敵の嘘を暴き、制度の闇を裁く側としてあの場所に立つ。
「行きましょう。過去を清算し、彼らからすべてを奪い返すために」
王都の夜が更けていく中、所長と監察官は、決戦に向けた最後の刃を静かに研ぎ澄ましていた。




