第25話 最初の完済者
二百二十金貨の一斉送金と、それに伴う王都からの公聴会召喚状。
嵐のような出来事が通り過ぎた三日後のノルデン賠償執行区は、底冷えのする静寂に包まれていた。
所長室のデスクに座るクラウディアの前には、購買班の作業着を着たトリスタン・ヘラーが立っていた。彼はどこか落ち着かない様子で、時折クラウディアと、壁際に立つアルヴィンの顔を交互に窺っていた。
「トリスタン。あなたを呼んだのは他でもありません。先日の二百二十金貨とは別に、あなたの残額分の送金が完了したからです」
クラウディアは淡々とした声で台帳を開き、一枚の公的な証書をデスクの上に滑らせた。
「あなたが購買班として原価改善に努め、これまでに積み上げていた認証済み配当四十三金貨。その四十三金貨が今朝、別便の送金として被害者側へ満額実着金しました。これにより、あなたの確定負担額である百九十金貨――判決時の私財差押え分六十金貨と、当執行区での労働充当分百三十金貨のすべてが支払われました」
「……!」
「民事上の賠償債務は、本日をもって完済となります」
マルタの台帳には、八名への受領確認が並んでいた。ハンナへ六、オットーへ十二、エリーズとパウルへ各五、ミリアムへ四、ヨアナとレミへ各三、フーゴへ五。合計四十三金貨。クラウディアは合計欄を確かめ、トリスタンへ向き直った。
その言葉を聞いた瞬間、トリスタンの顔にパッと輝かしい喜悦の色が浮かんだ。
彼は震える手でデスクの上の証書――『賠償完了通知』を取り上げ、信じられないというように何度もその文面を読み返した。
「終わった……終わったぞ! 私が誰よりも早く、あの法外な借金を返し切ったんだ!」
彼は興奮のあまり声を上擦らせた。
トリスタンは明細の残額欄を指でなぞった。ゼロ。その横に自分の名がある。
彼はクラウディアに向き直り、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「所長! 私が生み出した利益で、エリーズ殿の商会も随分と助かったはずだ。彼女から私への感謝の手紙か、面会の申し出は来ているか? 直接会って謝罪と和解をしたい。そうすれば、私の功績も広く知れ渡るだろう」
「……」
「それに、これで私は自由の身だ。王都へ帰還する手配を頼む。できれば、私がこれほど早く債務を完済し、有能な実務家として更生したことを証明する『所長からの推薦状』も書いてもらいたい。そうすれば、すぐにでも王宮の書記官あたりに復帰できるはずだ!」
ペラペラと夢を語るトリスタンを、クラウディアは氷の海のように冷たく静かな目で見つめていた。
彼の中では、真面目に働いて借金を返せば、被害者は感動して自分を許し、社会は再び彼を特権階級として受け入れてくれるという、おぞましいほど都合の良い物語が完成しているようだった。
「……トリスタン。あなたは、何か大きな勘違いをしていますね」
「何?」
「エリーズからの面会申し出などありません。彼女はあなたに対する一切の接触を拒絶していますし、感謝の言葉など一言もありません。彼女が受け取ったのは、あなたが奪ったものを返させただけの『当然の金』だからです。あなたが渡されたその完了通知の紙切れ一枚、それがすべてです」
トリスタンの笑顔が、ピシリと凍りついた。
「そして、あなたが王都へ帰ることも、元の地位に復帰することもありません」
「な、何を言っている! 私は民事賠償をすべて払い終えたんだぞ! 自由の身のはずだ!」
「民事上の賠償が終わっただけです。あの時の事件における公文書偽造および契約不履行の責任として、あなたには『刑事上の最低公的奉仕期間』がまだ一年以上残っている。忘れたとは言わせませんよ」
「あっ……」
「あなたは本日午後、護送馬車にてノルデンを退去し、南部にある別の公共インフラ整備施設へ移送されます。そこで残りの期間、一介の労働力として奉仕活動を続けてください。推薦状など書きません。あなたはただ、借金を返し終わっただけの罪人です」
トリスタンは完了通知の紙を握りしめたまま、膝から崩れ落ちた。もはや抗議する気力すら湧かないのだろう。彼は係員に両脇を抱えられ、絶望に虚ろな目を向けたまま、所長室から引きずり出されていった。
最初の完済者の退去処理を終えた後、クラウディアは大きく息を吐き、デスクの上の書類を片付け始めた。
すぐにマルタとローディンが所長室へ呼ばれた。
「明日、私と監察官殿は、王都の公聴会へ向けて出発します。期間は往復と滞在を含め、およそ二週間。……その間のノルデンの運営は、あなたたち二人に完全に委任します」
クラウディアが署名入りの委任状を差し出すと、マルタはそれを恭しく受け取った。
「お任せください、所長。市場の運営、冬用案件の出荷管理、そして争いのある配当を地方銀行で保全し、裁判所の指示に従う手続き。すべて所長が構築された規則通りに、一寸の狂いもなく回してご覧に入れます」
「俺たち住民も、今更あんな罪人どもに現場を掻き回させはしねえ。現場の段取りも休息も、俺たちが見ておくさ」
ローディンも太い腕を叩いて力強く請け負った。
あの時のクラウディアなら、自分が不在になることに耐えられない不安を抱いていただろう。だが今は違う。彼女が血を吐くような思いで構築した『返すための制度』は、すでに彼女個人の執念に依存せずとも、自立して稼働する強固な組織となっていた。
彼らがいれば、ユリウスやセシリアたちが暴走することも、事業が止まることもない。
「頼りにしています。……私は、王都で通常送金の仕組みを改めるための仕事に専念してきます」
クラウディアが静かに微笑むと、マルタとローディンは「行ってらっしゃいませ、所長」と深く頭を下げた。
翌朝。
ノルデンの正門前には、王都への長旅に耐えうる堅牢な馬車が用意されていた。
空からは細かい雪が舞い散り、吐く息は真っ白に染まる。
旅行用の防寒外套を羽織ったクラウディアが馬車に乗り込もうとした時、傍らで護衛の準備をしていたアルヴィンが、ふと足を止めて彼女の方へ向き直った。
「所長」
呼び止められ、クラウディアが振り返る。
アルヴィンは口を開きかけ、一度閉じた。仕事の報告なら、こんな間を置く人ではない。
彼はクラウディアの正面に立ち、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「今回の公聴会では、あなたの手続きそのものが争われる。私は監察官として、確認した事実と記録を提出する。異議が出れば、一つずつ答えよう。所長一人に説明を背負わせはしない」
「ええ。分かっています。あなたがいるから、私は安心して戦える」
クラウディアが信頼を込めて頷くと、アルヴィンはほんの少しだけ目を伏せ、そして再び彼女を強く見つめた。
「……だから、この公聴会が無事に終わり、君が『所長』として再びこのノルデンに帰還することができたら」
雪が降りしきる中、彼の低く落ち着いた声だけがはっきりと届く。
「少し、勤務外で話したいことがある。……俺個人の、話だ」
それは、彼からの明確な予告だった。
クラウディアは一瞬だけ目を見開き、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「……分かりました。すべてが終わって、ここへ戻ってきたら……ゆっくりと」
クラウディアが柔らかく微笑んで応えると、アルヴィンの口元にも確かな安堵の笑みが浮かんだ。
二人は並んで馬車に乗り込む。
御者が鞭を振るい、馬車は雪を踏みしめながら、忌まわしき王都へと向けて走り出した。
かつて、すべてを奪われて追放された場所へ。
今度は、自らの足と、強固な証拠と、確かな相棒と共に。




