第24話 冬の二百二十金貨
翌日の午後、ノルデンの所長室に一枚の重々しい羊皮紙が届けられた。
地方裁判所からの、緊急審理に対する決定命令書である。
クラウディアが封を切り、書面に目を走らせる。その傍らでは、外部監察官であるアルヴィンが腕を組み、静かに結果を待っていた。
「……下りました」
クラウディアは顔を上げ、小さく、だが確かな震えを帯びた声で言った。
「裁判所は、私たちが提出した連続証拠と監査証明を全面的に採用しました。中央局が行っていた『管理予備金』の天引きは、法定留保期間を逸脱した違法な超過留保であると認定され……中央にプールされていた『百四十六金貨』の即時解除ならびに被害者への返還が命じられました」
「やったな」
アルヴィンが、滅多に見せない力強い笑みを浮かべた。
「それだけではありません。この百四十六金貨の返還と同時に、私たちが冬の事業拡張で当月新たに確定させた賠償配当『七十四金貨』についても、中央の口座を経由させず、地方銀行から被害者たちへ直接送金することが特例として許可されました」
百四十六と、七十四。
合計、二百二十金貨。
それは、ノルデンの罪人たちが泥と雪にまみれ、埃っぽい書庫で計算を繰り返し、過酷な労働の果てに捻り出した事業利益の結晶だった。クラウディアは直ちにマルタを呼び出し、地方銀行へ向けて一斉直送の指示書を手渡した。
「全件、今日中に処理を。被害者たちの冬越しの命運が、この金にかかっています」
「はい、所長! 直ちに!」
マルタが血相を変えて飛び出していく。
クラウディアはデスクに手をつき、長く、深い息を吐き出した。かつて、公衆の面前ですべてを奪われた日から、どれほどの血の滲むような思いでここまで来たか。
だが、その努力が今日、巨大な数字の束となって、奪われた人々の元へ還っていくのだ。
その日の夕刻。王都の片隅にあるハルト商会の事務所は、歓喜と涙に包まれていた。
エミリア・ハルトの元に、被害者連絡会のメンバーたちから、次々と地方銀行の着金通知が持ち込まれていた。
「エミリアさん! 届いた……届きました!」
薬材商を営むリオラが、雪の降る外から駆け込んできて、赤い顔で一枚の証書を広げた。
「私の口座に、四十金貨! これで、王都の問屋から冬用の高価な薬材を買い付けることができます! 店を……親から継いだ店を、閉めずに済みます!」
「よかった……本当によかったわ、リオラ」
エミリアは涙ぐむリオラの手を強く握りしめた。
エミリア自身の口座にも、追加で三十金貨が実着金していた。初回にノルデンから送られた二十四金貨で首の皮一枚繋がった商会は、今回の三十金貨によって、冬の仕入れと職人たちの雇用維持が確定したのだ。
歓報はそれだけではなかった。
病身の親族を抱え、あの時の事業凍結で治療費の捻出に苦しんでいたオットーとエリーズの元にも、それぞれ二十金貨が着金した。彼らはこれで、滞納していた治療費を払い、温かい家を確保することができる。
理不尽に保証契約を打ち切られ、多額の負債を背負わされていたハンナの元には二十五金貨。パウル、ミリアム、ヨアナ、レミの四名にも、それぞれ十五金貨が届いた。
家族の工房のために借入を抱えていたネラにも、十金貨が振り込まれた。さらにフーゴへ十五金貨。
クラウディア自身を除く、十一人の被害者たち。
合計二百二十金貨という莫大な現金が、彼らの首を絞めていた高利の借入を清算し、滞っていた契約を動かし、それぞれの生活を絶望の淵から引き上げた。
「……返ってきたわ」
エミリアは、集まった着金証書の束を胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。
あの建国祝賀会の夜、自分たちの人生を虫ケラのように踏み躙った者たち。彼らが辺境の地で働き、生み出した価値が、こうして自分たちの命を繋いだ。
許す必要はない。感謝する必要もない。だが、失われた時間を取り戻せなくても、明日の暮らしに使える金は戻った。
同じ頃、ノルデンの所長室では、クラウディアが執行対象者たちの残債務台帳を更新していた。
二百二十金貨の配当は、ユリウス、セシリア、トリスタン、ダリウス、ヴィヴィアンたちの総負担額から、彼らの労働寄与率に応じて正確に差し引かれる。
「……トリスタン・ヘラー。本日の着金をもって、彼の残債務は残り四十三金貨となりました。ダリウスとヴィヴィアンも、年明けにはかなりの額を返済できる見込みです」
クラウディアがペンを置き、台帳の数字をアルヴィンに示した。
「彼らが労働をサボらず、事業利益を生み出せば、被害者が救われると同時に、彼ら自身の借金も確実に減っていく。これは復讐のための拷問施設ではない。働いて得た金を、確実に被害者へ届ける場所です」
「ああ。そしてその正当性を、あなたが見事に証明してみせた」
アルヴィンは監察官としてではなく、一人の男として、深い敬意を込めた眼差しを彼女に向けた。
冬を前にして最大の懸念だった資金ショートの危機は、二百二十金貨の大着金によって回避された。これで被害者たちは無事に冬を越すことができる。ノルデンの辺境再建も、軌道に乗り始めた。
すべてが、クラウディアの望んだ通りに進んでいるかに見えた。
だが。
所長室の扉がノックされ、マルタが青ざめた顔で一通の書状を持ってきた。
それは、中央賠償管理局からの、王都の紋章が封蝋された重々しい封書だった。
「所長。王都から、速達の通信鳥が……」
クラウディアは封を切り、中の羊皮紙を取り出した。
数行の文面に目を走らせた瞬間、彼女の瞳がスッと細められた。
「……ベルナール侯爵が、反撃に出ましたね」
「何が書かれている?」
「今回の地方裁判所の命令を不服とし、次月以降の賠償金の扱いについて、王都での上級審理へ回す手配をしたようです。そして……」
クラウディアは、書状をアルヴィンへ手渡した。
「私に対し、『被害者でありながら所長を務めることによる、利益相反と権限濫用の疑い』について釈明を求めるため、王都での公聴会への召喚状が出ています」
アルヴィンが書状を睨みつけ、低く舌打ちをした。
地方の法廷で負けたベルナール一派は、今度は自分たちのホームグラウンドである王都の権力の中枢へ、クラウディアを直接引きずり出して潰す気なのだ。
「罠だぞ、所長。王都の公聴会となれば、あの断罪の夜と同じように、彼らに買収された貴族や官僚が周りを固めている。あなたを孤立させ、不当な裁定でノルデンの所長職から引きずり下ろすつもりだ」
「分かっています」
クラウディアは、一切の恐怖を見せずに立ち上がった。
「ですが、逃げるわけにはいきません。私がここで召喚を拒めば、彼らはそれを理由にノルデンの事業そのものを凍結しにくるでしょう。……行きます、王都へ」
かつて、無実の罪を着せられ、すべてを奪われて追放された場所。
今度は、自らの足で、奪われた人々の生活を背負う所長として、あの伏魔殿へと乗り込むのだ。
「……あなたが一人で抱え込む必要はないと言ったはずだ」
アルヴィンは、壁にかけてあった自分の漆黒の外套を手に取った。
「外部監察官である私も同行する。あなたの行った手続きがすべて適法であり、権限濫用など存在しないことを、中央の連中の前で証明してやる」
頼もしい相棒の言葉に、クラウディアは小さく頷いた。
冬を乗り切るための最大の着金を成功させた辺境の所長は、ついに最終的な決着をつけるべく、忌まわしき王都への帰還を決意した。




