第22話 所長は自分から休む
雪道を抜けた馬車がノルデン賠償執行区の正門をくぐった時、クラウディアの視界は高熱でひどく揺れていた。
全身の関節が軋むように痛み、息を吐くたびに肺が熱い。今すぐにでも意識を手放して倒れ込んでしまいたいという誘惑が、幾度も頭をよぎる。
だが、彼女は馬車が止まると同時、差し伸べられたアルヴィンの手を借り、足元を確かめて降り立った。
「おい、無理をするな。医務室へ運ぶ」
「医務室へ行きます。マルタを呼んでもらえますか。引継ぎ表を渡したいのです」
クラウディアは青白い顔のまま、医務室の扉へ目を向けた。
王都にいた一年前の彼女なら、自分が倒れればすべてが破綻すると一人で抱え込み、結果的に限界を迎えて他人に隙を突かれていただろう。だが、今の彼女は違う。
医務室の椅子に座ると、彼女は駆けつけた会計主任のマルタへ一枚の書類を手渡した。
「マルタ。私は発熱のため、本日の午後から明朝まで休養を取ります。これはその間の『権限代行表』です」
「所長……! お顔の色がひどいです。すぐに代行の手続きに入りますから、どうかご無理をなさらず!」
「ええ。市場の準備指揮はローディンへ、物品の検収はあなたが代行してください。私の決裁印が必要な事項は、この表に定めた優先順位に従って処理を。……アルヴィン」
クラウディアは振り返り、厳しい目つきで見守っているアルヴィンを見上げた。
「マルタが行う代行決裁については、利益相反を防ぐため、外部監察官であるあなたの監査署名を必須条件とします。……私が不在でも、絶対に事業を止めないでください」
「……分かった。代行表に沿って確認する。だからさっさと部屋へ戻って寝ろ」
アルヴィンが深く息を吐きながら頷いたのを確認し、クラウディアはようやく表情を緩めた。
熱冷ましの薬を飲み、自室のベッドに横たわると、重い泥のような疲労が一気に押し寄せてきた。
微睡みの中、窓の外からはノルデンの活気ある音が絶え間なく聞こえてくる。
ダリウスが荷車の馬の扱いについて怒鳴る声。ローディンが市場用の木箱の寸法を指示する声。そして、一般住民たちが立ち働く足音。
かつての荒涼とした辺境は、確かな価値を生み出す巨大な事業所へと変貌していた。
クラウディアは目を閉じ、熱い息を吐いた。
(……私がいなくても、回っている)
それは、所長としての敗北感ではなく、深い安堵だった。
外の喧騒を子守唄のように聞きながら、クラウディアは着任して初めて、深い眠りへと落ちていった。
夕刻。
窓から差し込む光が橙色に変わった頃、控えめなノックの音でクラウディアは目を覚ました。
身体の痛みはかなり引き、頭の芯にあった熱も嘘のように軽くなっている。
入室を許可すると、扉を開けて入ってきたのはアルヴィンだった。彼の手には分厚い台帳と、木製のお盆が乗せられている。
「……目は覚めたか。気分はどうだ」
「ええ。ずいぶん楽になりました。……事業の進行は?」
起き上がろうとするクラウディアを片手で制し、アルヴィンは椅子を引き寄せてベッドの傍らに座った。
「まずは、監察官としての報告だ。マルタの権限代行は規定どおりに行われた。トリスタンの原価計算も、ダリウスの物流手配も、今日の締切に間に合っている。あなたが半日休んでも、ノルデンの事業は全く問題なく回っている」
「……そうですか。良かったです」
クラウディアが心底ホッとしたように微笑むと、アルヴィンは台帳を閉じ、傍らのサイドテーブルにお盆を置いた。
そこには、食堂で作らせてきた湯気を立てる柔らかなパンと、温かい野菜のスープが乗っていた。
「ここからは、勤務外の話だ」
アルヴィンは低い声で言い、スープの器を彼女の方へ少し押しやった。
「君は他人の損失にはひどく敏感だが、自分自身の限界には無頓着すぎる。一人で抱え込まなくても成果が出る仕組みを、君自身が作ったんだろう。……少しは自分の組織と、俺たちを信用しろ」
それは、熱に浮かされていた彼女の心に、静かに染み渡る言葉だった。
過剰な同情でも、甘やかしでもない。仕事の対等な相棒として、彼女の築き上げたものを認め、その上で『もう一人で戦わなくてもいい』と告げてくれている。
クラウディアは小さく頷き、温かいスープを一口含んだ。
アルヴィンは何かを命じるわけでもなく、気の利いた慰めを言うわけでもなく、ただ静かに彼女が食事を終えるまでの間、同じ空間に留まって穏やかな時間を共有してくれた。
やがて、食事が終わり、空になった器をお盆に戻したタイミングで、アルヴィンの灰色の瞳が再び鋭い実務家のそれに変わった。
「体調が戻りつつあるところ悪いが、報告しなければならない重要な数字がもう一つある」
「……中央の未着額ですね。エミリアから連絡が?」
クラウディアは居住まいを正した。
アルヴィンは懐から、被害者連絡会から届いたばかりの最新の照合記録を取り出した。
「ああ。通常経路からまだ戻らない金について、銀行と被害者側の照合が終わった。中央が全額止めた後続分も含めた額だ」
アルヴィンは紙片を広げ、その末尾に記された数字を読み上げた。
「……百四十六金貨だ」
その数字の重みに、クラウディアの背筋が冷たく粟立った。
三金貨から始まった小さな搾取は、今や百四十六金貨という、地方の小商会がいくつも吹き飛ぶほどの巨大な未着額へと膨れ上がっていた。
催告の日付も、中央の返答も揃っている。単に額が大きいからではなく、返すべき期限を過ぎても返さなかったことを示せる。
「また、届かない分が増えたのですね」
クラウディアは枕元の引継ぎ表に、追送する資料を書き足した。
「アルヴィン。明日、提出済みの申し立てへ、この集計と冬の支払期限を追送します。緊急審理への切り替えを求めます。この百四十六金貨の不当留保の解除と、次月以降の認証額の『直接送金命令』を勝ち取ります」
冬まで残りわずか。




