第21話 監察官の私情
窓枠をガタガタと揺らす風の音が、古い木造建築の隙間から絶え間なく響いていた。
ノルデン賠償執行区から馬車で半日ほど離れた、山間の小さな村。冬用防寒具の生産を委託している織物工房の視察に訪れていたアルヴィンとクラウディアは、突如として見舞われた猛烈な吹雪により、村長の家の一室で足止めを余儀なくされていた。
「……駄目だな。この吹雪では馬を出せない。街道の雪が落ち着くまで、明日の朝まではここを動けないぞ」
厚い霜に覆われた窓ガラスから外を覗き込んでいたアルヴィンが、忌々しげに息を吐いて振り返った。
部屋の中央には古びた暖炉があり、パチパチと薪が爆ぜる音だけが、外の吹雪の音をかき消すように響いている。
その暖炉の火の傍らで、クラウディアは小さな丸テーブルに持参した書類鞄の中身を広げ、無言でペンを走らせていた。彼女はアルヴィンの報告に短く「分かりました」とだけ答えると、再び視線を台帳の数字の羅列へと落とした。
アルヴィンは壁に背を預け、腕を組んでその横顔を見つめた。
揺らめく炎に照らされた彼女の顔は、ひどく白く、そして張り詰めていた。
「オットーの商会が抱えている緊急融資の期限まで、あと十日。この分なら、次回の市場売上から彼の債権額を優先して充当できる。……ネラの工房へのつなぎ資金の返済期限は二週間後。今週の生産ロットが予定通り王都の問屋に卸せれば、彼女の分も……」
クラウディアの口から漏れる呟きは、すべて十二人の被害者たちが抱える負債のタイムリミットだった。
一年前の契約凍結の煽りを受け、被害者たちの事業と生活はギリギリの綱渡りを続けている。クラウディアは彼らの借金の返済期限や、家族の治療費の支払い期日をすべて頭に叩き込み、それをまるで自分自身の命の期限であるかのように扱っていた。
『中央に留保された額が百金貨を超えた』という事実が判明して以降、彼女の仕事に対する執念は、さらに異常な熱を帯びていた。
(……俺は当初、こいつをどう思っていたか)
アルヴィンは、自らの心の奥底に問いかけた。
独立監察局の命令でノルデンへ派遣された時、彼はクラウディア・ヴェルンという女を『復讐のために権力を濫用するかもしれない、危険な監察対象』として警戒していた。
実際に着任してみれば、彼女は自分を陥れたユリウスやセシリアに対しても、一分の隙もなく『規則通り』に接する、恐ろしいほど公正な実務家だった。その手腕への警戒は、やがて能力への純粋な感嘆へと変わっていった。
だが、今はどうだ。
彼女は、他人の休息は細かく確かめるのに、自分自身の生活や休息には驚くほど無頓着だった。隔離口座に入っているはずの、彼女自身の賠償金百三金貨には一切手をつけていない。
自分が倒れる寸前まですり減らしながら、他人の損失を取り戻すためだけに生きている。
暖炉の火に照らされたその脆くも強い横顔を見ていると、アルヴィンの胸の奥が、ギリッと音を立てて軋んだ。
ただの感嘆ではない。同情でもない。
それは明確な焦燥であり、彼女の身を案じる痛みを伴う感情だった。
(『監察対象だから気になる』。……そんなくだらない言い訳が、もはや自分に対しても通用しないことくらい、分かっている)
アルヴィンは、薄暗い部屋の中で小さく息を吐き出した。
認めるしかなかった。彼は、一人の女性としてクラウディア・ヴェルンに強く惹かれている。彼女の抱える過去の傷ごと守り、その重荷を少しでも背負ってやりたいと、明確な熱を持って望んでいる。
だが、彼はその感情を口にすることはしなかった。
「……所長。少し休め」
アルヴィンは壁から離れ、クラウディアの座るテーブルの向かいに腰を下ろした。
「視察で一日中歩き回った後だ。ただでさえ睡眠を削っているあなたが、こんな所で夜通し計算を続ければ確実に倒れる。あなたが倒れれば、ノルデンの事業全体が止まるんだぞ」
「休んではいられません」
クラウディアはペンを止めず、目線だけをアルヴィンに向けた。
「私が止まれば、彼らの生活が止まります。一年前の祝賀会の夜、私は何もできずに彼らの事業が凍結されるのを黙って見ていることしかできなかった。……二度と、あんな思いはさせない。冬が来る前に、彼らの首を絞めている緊急の借入だけは、絶対に完済させなければならないのです」
彼女の目には、悲壮なまでの決意が宿っていた。
アルヴィンは痛いほど分かっていた。今の彼女にとって、恋愛などという甘い感情が入り込む隙間はない。彼女はまだ一年前の断罪の傷の中にいて、自分自身の人生を取り戻せていないのだから。
彼が今、個人的な感情を告げれば、それは彼女の仕事の妨げになり、築き上げてきた『所長と監察官』という対等な信頼関係すらも壊しかねない。
だからアルヴィンは、恋愛感情を心の奥底に厳重に封じ込め、あくまで『仕事の相棒』としての態度を貫いた。
「分かった。なら、その書類の半分をこっちへ寄こせ」
アルヴィンはクラウディアに手を差し出し、銀行側の照合用写しを受け取った。
「アルヴィン? 何を……」
「あなたは事業側の申請をまとめる。私は銀行記録との照合を先に進める。自分で作った計算を自分で承認することにはしない」
「……では、この束をお願いします」
「それと、半刻で終わらない分は明日に回そう。村長に、灯油を使い切ると叱られる」
「私より、そちらが心配ですか」
「どちらもだ」
クラウディアの唇に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
暖炉の火が静かに燃える中、二人は一つのテーブルに向かい合い、無言でペンを走らせ始めた。
甘い言葉も、手を取り合うこともない。だが、外で荒れ狂う吹雪の音を背景に、ただ書類の紙をめくる音と、羽ペンが羊皮紙を擦る音だけが規則正しく響くその空間には、何よりも親密で穏やかな時間が流れていた。
翌朝。
夜通し吹き荒れていた吹雪が嘘のように収まり、冷たく澄んだ青空が広がっていた。
村長の手配で雪かきが行われ、ノルデンへ向かう街道がなんとか通れるようになったのを確認し、二人は馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと雪道を進み始めた時、向かいの席に座っていたクラウディアの様子がおかしいことにアルヴィンは気づいた。
彼女は目を閉じ、腕を組んでじっと耐えているようだったが、その呼吸は不自然に浅く、白い頬には微かに朱が差していた。
「所長。顔色が悪いぞ」
アルヴィンが身を乗り出して声をかけると、クラウディアはゆっくりと目を開けた。その瞳の焦点が、わずかに定まっていない。
「……問題ありません。ただの、寝不足です。帰ったらすぐに、昨日まとめた送金の指示書を銀行へ……」
強がる彼女の言葉とは裏腹に、その額には冷たい空気の中にあって不自然な汗が滲んでいた。
アルヴィンは咄嗟に手袋を外し、彼女の額にそっと手の甲を当てた。
「所長……熱があるじゃないか」
「……平気、です。少し、休めば……」
クラウディアはアルヴィンの手を払いのけようとしたが、その手には全く力がこもっていなかった。彼女の身体がふらりと傾き、アルヴィンが咄嗟にその肩を支える。
張り詰めていた糸が、ついに切れたのだ。
冬を目前にした事業の重圧、中央局が仕掛けてくる悪意との戦い、そして何より、自分を後回しにして走り続けてきたツケが、ここに来て彼女の限界を突破させていた。
「もう大丈夫だと言わなくていい。着いたら、誰に引き継ぐ?」
アルヴィンは悪態をつきながらも、その腕に抱き留めた彼女の身体の熱さに、胸を締め付けられるような焦りを覚えていた。
馬車は雪を踏みしめながら、足早にノルデンへの帰路を急いだ。




