第20話 被害者は許しに来ない
灰色の雲が垂れ込める、底冷えのする朝。
ノルデンの所長室に、硬く、ぎこちないノックの音が響いた。
クラウディアが短く入室を許可すると、煤と泥が染み付いた作業着姿の男が、重い足取りで部屋に入ってきた。ユリウスだった。
彼は室内を一瞥し、息を呑んで立ち尽くした。
執務デスクの向こうにはクラウディアが、壁際には監察官のアルヴィンが立っている。そして、部屋の中央に置かれた来客用の椅子には、豪奢なドレスではなく、長旅に耐える実用的な外套を着た一人の女性が、背筋を伸ばして座っていた。
「……ハルト商会、代表」
ユリウスの掠れた声に、エミリア・ハルトは立ち上がりもしなかった。
ただ、射抜くような冷たい視線で、かつての王太子を見据えた。
一年前の建国祝賀会。クラウディアの無実を証明する原本を持った使者を実力で排除させ、ハルト商会をはじめとする多くの業者を連鎖的な破産危機に追い込んだ張本人。それが、ユリウスだ。
ユリウスは無意識のうちに一歩後ずさりそうになるのを堪え、両手を固く握りしめた。
ここ数週間の過酷な労働。木材を運び、煙に巻かれ、雪道で己の無知による判断ミスを突きつけられた日々。特権というメッキを剥がされた彼は、自分がどれほど他人の人生を軽く扱い、取り返しのつかない罪を犯したのかを、身を以て思い知らされていた。
「……すまなかった」
重い沈黙の後、ユリウスは深く、深く頭を下げた。
王族としての矜持も何もない、一人の罪人としての謝罪だった。
「私の軽率な判断と傲慢さが、君の商会を、そして多くの人々を理不尽な危機に陥れた。取り返しがつかないことは分かっている。今はただ、一日も早く君たちへの賠償を終えるために、ここで働いている」
エミリアは膝の上で手を組み直した。
「頭を上げてください、ユリウス元殿下」
エミリアの声は、冬の風のように冷ややかだった。
「あなたがここでどれほど過酷な労働に耐え、泥にまみれて汗を流そうと、そしてどれほど深く反省しようと……一年前のあの日、私たちが味わった絶望や、借金取りに土下座をして回った屈辱が消えてなくなるわけではありません」
ユリウスが、弾かれたように顔を上げた。
エミリアの瞳には、同情も、謝罪を受け入れる温かさもなかった。
「先日、私の口座に二十四金貨が届き、店は救われました。その金には、あなたがここで生み出した労働評価額が含まれていると聞いています」
「……ああ。少しでも、君の足しになればと」
「勘違いしないでいただきたい」
エミリアは、ユリウスの言葉を鋭く切り捨てた。
「私が受け取った金は、あなたが私たちから不当に奪ったものを、法に基づいて返させているだけのものです。当然の権利を取り戻しただけであり、決して『あなたを許すための対価』ではありません」
ユリウスの顔面から、さっと血の気が引いた。
「私は、あなたを許すかどうかを考えるために店を守ってきたのではありません。職人に給金を払い、明日の注文を受けたい。その暮らしに、私の気持ちまで差し出せと言わないでください」
ユリウスの喉が震え、「許してほしい」という言葉が形になる前に飲み込まれた。
彼はクラウディアの方へ視線を向けた。だが、所長であるクラウディアは手元の台帳にペンを走らせているだけで、彼を庇うことも、エミリアをなだめることも一切しなかった。
エミリアは、返事を変えるつもりがなかった。クラウディアも、その決断に口を挟まなかった。
「……分かった。君の言う通りだ。私はただ、返すべきものを返すために働く」
ユリウスはもう一度だけ深く頭を下げ、足を引きずるようにして所長室を出ていった。
扉が閉まり、足音が遠ざかると、エミリアは小さく息を吐き出して肩の力を抜いた。
クラウディアが、温かいお茶の入ったカップをそっと差し出した。
「よく言いましたね、エミリア」
「……ええ。憎しみだけで生きるつもりはありませんが、彼らの美談に付き合ってあげる義理もありませんから」
エミリアは温かいお茶で喉を潤すと、持参していた分厚い革鞄を開き、大量の書類の束を取り出した。
各書類には、それぞれ異なる血判や実印がいくつも押されている。
「所長。そして監察官殿。これは、旧断罪劇の被害者全十二名から集めた、被害者連絡会への『正式な委任記録』です」
エミリアはそれをデスクの中央に力強く置いた。
「私の店へ来た代理人の条件を皆に知らせると、ほかにも融資を盾にされた人がいました。共通の申し立てをまとめられます。ただし債権を処分する判断は、各人に残します」
アルヴィンが目を見張り、その束を手に取って監査の目を光らせた。
個人の債権者であれば、中央の金融組合や官僚組織から各個撃破される危険がある。だが、記録提出と共通の交渉窓口をまとめたこの連絡会であれば、中央の圧力に対しても正面から法的に立ち向かうことができる。
「必要な委任事項が明記されている。個別に圧力を受けた時も、記録と相談を一か所へ集められる」
アルヴィンが確信に満ちた声で言った。
クラウディアも頷き、自分の手元にあるノルデン側の送金台帳を開いた。
「盾は完成しました。次は、裁判所へ追送する記録を確かめましょう」
最初の三金貨を見つけた直後から、解除請求と経路変更の申し立ては続けていた。中央は後続分をすべて『照会中』にし、資料の追加を求めて回答を引き延ばしている。暫定の直送許可についても、裁判所から求められた銀行照会がまだ揃わなかった。
新たに認証した配当は、送金期日まで地方銀行で保全する。すでに中央へ渡った分は、七日ごとに未着を確認して催告する。今はその記録を、一つの申立書へまとめ直すところだった。
エミリアが持ち帰った最新の実着金記録と、ノルデン側の送金台帳。
アルヴィンが二つの帳簿を突き合わせ、高速で計算を行っていく。ペン先が紙を叩く音が、静かな室内に響き続けた。
やがて、アルヴィンの手が止まった。
「……出たぞ」
アルヴィンは計算をもう一度確かめ、眉を寄せた。
「最初の三金貨に、全額止められた後続分を加えると……未着は百金貨を超えた。催告への返答でも、支払日は示されていない」
百金貨。
それはもはや『事務上の手違い』や『少額の手数料』などという言い訳が一切通用しない、巨額の被害額だった。
「被害者側の記録を、銀行の回答を待たずに追送しましょう。このまま待てない理由も添えます」
クラウディアは静かに立ち上がり、証拠の束を金属の保管箱に収めた。
冬まで、残り時間は少ない。
被害者たちの結束と、百金貨を超える未着と、催告を受けても支払わなかった記録。反撃のためのすべての武器が、今、ノルデンの執務室に出揃った。




