第19話 雪道の元王太子
その年の初雪は、予想より早く山道を覆った。
エミリアが店へ戻ってから三週間ほど経った頃、ノルデンの町は一夜にして厚い雪雲に覆われ、激しい吹雪に見舞われた。朝になると、広場も建物の屋根も白い雪に埋もれ、刺すような冷気が辺りを支配していた。
この悪天候は、ノルデンの賠償事業にとって致命的な事態を引き起こしていた。
「駄目だ、所長! 主要な峠道が雪崩で完全に塞がっちまった!」
集荷場に駆け込んできた工房長のローディンが、髭に付いた雪を払いながら怒鳴った。
今日は、冬前に立ち上げた冬用防寒具と保存食の大口契約の、第一陣の出荷日だった。荷車には被害者への返済原資となる品物が満載されている。しかし、予定していた輸送ルートが雪で通行不能となり、商隊は門の前で立ち往生していた。
「雪崩の撤去には何日かかりますか」
「最低でも三日はかかる。無理に進めば馬も人も死ぬぞ!」
「……三日も遅れれば契約違反となり、多額の遅延違約金が発生します。この出荷で得るはずだった利益が消えれば、被害者たちの冬越しの資金がショートする」
クラウディアの表情が険しくなる。
道路管理班のダリウスも青ざめた顔で「馬の体力を考えても、この積雪で別の山道を開拓するのは無謀だ」と首を振っている。
誰もが絶望的な空気に包まれた中、丸太の雪下ろし作業をしていた灰色の作業着姿の男が進み出てきた。
ユリウスだった。
「待ってくれ。……迂回路なら、ある」
「ユリウス元殿下。いい加減な発言は許されませんよ」
クラウディアが冷たく牽制するが、ユリウスは足元に木の枝で簡素な地図を描き始めた。
「いい加減なものか。王太子教育において、北東国境の軍事防衛に関する地理は徹底的に頭に叩き込まれている。主要な峠道が塞がった場合、軍の補給部隊が使う旧街道がこの西側の尾根沿いに残っているはずだ。道幅は狭いが、現在の荷車の規格なら通れる」
ユリウスの目は真剣だった。かつて彼が王宮の温かい部屋で、分厚い戦術書から学んだ特権階級の知識。それが今、泥にまみれた辺境の地で、他人の事業を救うための実用的な手段として提示されていた。
「ダリウス。あの旧街道の傾斜なら、今の馬の装備でも越えられるな?」
「……確かに、あそこなら。だが、途中の分岐路は複雑だ。案内できる者がいなければ遭難するぞ」
「私が先導する」
ユリウスはクラウディアを真っ直ぐに見据えた。
「私に馬を一頭貸してくれ。必ず商隊を目的地まで通してみせる」
クラウディアは手元の図面とユリウスの目を交互に見比べ、数秒の沈黙の後、静かに告げた。
「……許可します。これはあなたの正式な労働として命じます」
「ありがとう」
「感謝には及びません」
ユリウスは言いかけた言葉を止め、クラウディアを見た。
「まず地元の案内人と偵察を。道路班が安全を確認するまで、荷車は出しません。契約の納期延長は私が交渉します。あなたには通せる道を、正確に報告してもらいます」
意図がどうであれ、結果に全責任を負う。それが王族から一人の労働者に引きずり下ろされた彼に課せられたルールだった。ユリウスは顔を引き締め、「分かっている」とだけ答え、ダリウスが用意した馬に跨った。
雪が弱まってから、偵察班が旧街道へ入った。
ユリウスは案内人と並び、地図の分岐を確かめる。右の谷沿いを指すと、案内人が首を振った。
「近いが、吹き溜まりになる。そっちに荷車を入れるな」
「地図では、道幅があるはずだ」
「雪のない季節ならな」
それでも一度自分の目で見たいと頼み、彼は徒歩で確認に向かった。案内人の言うとおりだった。地図の線が、雪の壁の前で役に立たなくなる。
戻った時には、予定より時間が過ぎていた。
「左だ。私の案は取り下げる」
ユリウスは道路班へ告げた。自分の知識に固執した時間は戻らない。
案内人の確認を経て、商隊は左の道を進んだ。ダリウスが荷を軽く分け、住民の道路班が前方の雪を除く。クラウディアの交渉した猶予もあり、納品は受け入れられた。
ただし、往復の時間と必要な費用は当初の見込みを上回った。
その日の夜。
ノルデンの所長室には、ストーブの火が赤々と燃えていた。
無事に帰還し、泥と雪にまみれたユリウスがデスクの前に立っていた。その手には、アルヴィンの監査署名が入った本日の労働評価明細が握られている。
「……確認したな、ユリウス」
アルヴィンが、手元の監査台帳の該当欄を示した。
「商隊を通し、利益を守ったこと自体は評価する。労務評価は、確認した実働に応じて積み立てる。……だが」
「分かっています」
ユリウスは震える声で、アルヴィンの言葉を遮った。
「分岐での私の判断ミスにより生じた、数時間の遅延。それに伴う馬の追加飼料代と、道路班の賃金。事業の経費が増えて、利益配当は見込みより少なくなった。私個人の成果加算も、判断の遅れを踏まえて認められなかった」
かつての彼なら、「私は最善を尽くしたのだから意図を汲んでくれ」と言い訳をしたかもしれない。しかし、数字は冷酷だった。
特権階級の高度な教育は、確かに他人の利益(出荷の成立)を生み出した。しかし、それに伴う失敗のツケは、王室や国庫が肩代わりしてくれるわけではなく、今回の配当が減り、返し終える日が遠のく。事業の損失を新たな借金として一人に背負わせるわけではない。それが賠償履行の現実だった。
ユリウスは何も言い訳せず、ただ深く一礼して所長室を出ていった。
クラウディアは彼の背中を見送った後、手元の書類を整理し直した。
「経費と評価の根拠は、本人にも説明できましたね」
アルヴィンの問いに、彼女は首を振った。
「当然の清算です。これで次回の通常送金へ回すための『認証済み配当』の原資は確保できました。……被害者たちを待たせるわけにはいきませんから」
その時、所長室の扉がノックされ、マルタが顔を出した。
「所長。店へ戻っていたエミリア様が、受領記録を携えて再訪されました」
「エミリアが? 冬の前に来てくださったのですね。相談窓口の状況は」
「はい。面会に同行する人を募り、記録を集める体制が整ったと、ご本人から報告がありました」
マルタの言葉に、クラウディアは小さく安堵の息を吐いた。
一人で相手の圧力を受けずに済む人が、少しずつ増えている。
「ただ……エミリア様が、所長に一つ強い要望をお持ちです」
「要望?」
「はい。彼女は明日の朝一番で、『ユリウス元殿下との正式な面会』を要求しています」
アルヴィンが片眉を上げた。
被害者が、自分を地獄に突き落とした元王太子に直接会う。それが和やかなものになるはずがない。
外では再び雪が降り始めていた。冷たい風が窓を叩く中、クラウディアは静かに頷き、その面会要求を受理した。




