第17話 二十四金貨で店は救われた
陽が沈みかけ、ノルデン賠償執行区が薄暗い影に覆われ始めた頃。
ハルト商会の小さな荷馬車が、土埃を巻き上げながら正門をくぐった。
御者台から飛び降りるようにして姿を現したのは、フード付きの外套を深く被った若い女性だった。元子爵令嬢であり、ハルト商会を率いるエミリア・ハルト。十二名いる被害者連絡会の代表を務める彼女が、護衛もつけずに単身で辺境の地までやってきたのだ。
「エミリア。なぜあなたが直接ここへ?」
急報を受けて駆けつけたクラウディアが問いかけると、エミリアはひどく疲労した顔を見せながらも、毅然とした態度で背筋を伸ばした。
「通信鳥や手紙では、もう安全を担保できないと判断したからです。……所長室へお願いします。重要な書類を直接、あなたたちにお渡ししたかった」
クラウディアは深く頷き、彼女を所長室へと案内した。
アルヴィンが厳重に扉を施錠し、窓の鎧戸を閉じる。廊下の足音が遠ざかるのを待って、エミリアは外套を脱ぎ、ドレスの裏地に縫い付けられていた油紙の包みをナイフで慎重に切り開いた。
中から出てきたのは、分厚い羊皮紙の束だった。
「これは、私を含めた被害者十二名の『通常送金による指示額』と『実際の着金額』、そしてその『着金日』を記録した、被害者側の直筆署名入り受領台帳の原本です。先日、ノルデンからの第一回通常送金において、三金貨が抜き取られたことはすでに報告しましたね」
「ええ。中央局はそれを『管理予備金』という不当な名目で処理しています」
「その後に期日を迎えた小口の送金は、一件も届いていません。中央へ問い合わせると、どれも『照会中』だと。この台帳には、最後の入金日と、それから入金がないことを記録してあります」
エミリアがデスクに広げた書類を、アルヴィンが素早く手元に引き寄せ、監察官の鋭い目で精査を始めた。
署名のある原本だった。クラウディアは受領した冊数と時刻を控え、エミリアにも確認してもらった。
「これほどの証拠を持ち歩くのは危険でしたね。道中、怪しい輩に目をつけられませんでしたか?」
「ええ。商会の荷馬車を使い、道中はいつもの商用便の列に混ぜてもらいました。原本の写しは、店にも残してあります」
エミリアはクラウディアが差し出した温かいお茶を両手で包み込み、ゆっくりと一口飲んだ。冷え切っていた彼女の身体に、ようやく少しだけ生気が戻る。
彼女はカップを置き、クラウディアを真っ直ぐに見つめた。
「クラウディア様。私はこの記録を提出する前に、どうしてもあなたに直接お会いして、お伝えしなければならないことがあったのです」
「私に、ですか?」
「はい」
エミリアは一度深く息を吸い込み、言葉を紡いだ。
「判決が出た時、ユリウス元殿下たちの私財が差し押さえられ、民事判決によって私たちにその一部が按分されました。私に支払われたのは、七十一金貨。……ですが、その金は私の手元には一銅貨も残りませんでした」
「……」
「一年前、あなたの直接支払事業が不当に凍結されたあの日。ハルト商会は連鎖的な取引停止に陥り、莫大な違約金を請求されました。私は店と職人を守るために、王都の金融組合から高利の緊急融資を受けるしかなかった。判決で得た七十一金貨は、その借入と違約金の返済で、文字通り右から左へと消えてしまったのです」
「もう駄目だと思いました」
エミリアの声がわずかに震えた。
「職人たちへの賃金十八金貨と、店舗の家賃六金貨。その支払期限の日の夕刻、私は金庫の底を見て、店を畳み、職人たちを解雇する覚悟を決めました。……あの時、地方銀行の使いが駆け込んできたのです。ノルデン賠償執行区からの『緊急直接支払』による着金、二十四金貨の知らせを持って」
エミリアの瞳から、大粒の涙が溢れ落ちた。
「あの二十四金貨が、その日のうちに職人たちに給金を行き渡らせ、家主を納得させ、ハルト商会の看板を下ろさずに済ませてくれました。あなたたちがここで立ち上げた事業の利益が、私の店を救ったのです」
「……それは違います、エミリア」
クラウディアは静かに、だが確かな温かさを持って首を横に振った。
「その金は、私たちが与えたものではありません。あなた方が一年前から不当に奪われていた、当然の権利を取り戻しただけです。あなたが今日まで店を守り抜いたからこそ、その金は間に合ったのです」
「ええ。分かっています」
エミリアは涙を拭い、強く頷いた。
「だからこそ、私はもう二度と、あの中央の連中に私たちの金を掠め取らせはしない。私たちは泣き寝入りしません。経路変更の申し立ても、解除請求も、控えを読みました。まだ命令が変わらないなら、私たちの側からも記録を出します」
「はい。これ以上止められないよう、審理を急がせます。集めるのは、すでに届いていない金の記録です。一日でも早く解除してもらいましょう」
「ならば、被害者側からもこの制度を監視します」
エミリアはデスクに広げられた原本の束を指し示した。
「ノルデンからの送金記録と、私たちの着金記録。双方の記録を合わせて、届かなかった日を確かめましょう。それが、店を救ってくれたこの『二十四金貨』に対する、私なりの答えです」
彼女の決意は揺るぎなかった。
アルヴィンが証拠の束をまとめ、厳重な金属の保管箱に収めて鍵をかけた。
「原本は受領記録とともに保全する。銀行にも照会し、中央の説明とどこが違うかを確かめよう。提出用の写しは、君にも渡す」
「感謝します、監察官殿」
密室での重要な打ち合わせが終わり、エミリアが所長室を後にした。
マルタの案内で、今夜はノルデンのゲスト用宿舎で休むことになったのだ。外はすでに暗くなり、広場のあちこちで篝火が焚かれている。
その明かりの中を、一日の過酷な労働を終えた執行対象者たちが、重い足取りで宿舎へと戻っていくところだった。
エミリアは、宿舎へ戻る作業着姿の男たちを見た。
その中の一人が顔を上げた。ユリウスだった。
「お話しになりますか」
マルタが声を落として尋ねる。
「今日は、休ませてください」
エミリアはそう答え、客用宿舎へ向かった。会うかどうかも、いつ話すかも、今度は自分で決めるつもりだった。
「……だが、厄介な火種はまだ残っているぞ、所長」
アルヴィンが、クラウディアの隣に並び立って低い声を出した。
彼は先ほどエミリアから受け取った、もう一つの報告書を手にしていた。
「エミリアが来た理由は、受領記録だけではないようだ」
アルヴィンは、訪問者の名と金融組合の印が記された紙を示した。
「彼女自身の店へ、債権を売れと迫る男が来たという」
クラウディアはその紙を受け取った。値段の下に、融資枠についての一文が添えられていた。




