第16話 冬まで六十日
ノルデンの朝の空気は、日を追うごとに鋭い冷気を帯びるようになっていた。
窓から見える北東の山々の頂はすでに薄っすらと白く染まり、吐く息は白い霧となって空気に溶けていく。
所長室のストーブに火が入れられた室内で、クラウディアは分厚いファイルと睨み合っていた。それは、エミリア・ハルトが取りまとめている『被害者連絡会』から送られてきた、十二名の被害者たちの詳細な負債および契約状況の報告書だった。
「……やはり、時間がありませんね」
クラウディアが静かに呟くと、対面のデスクで監査資料に目を通していたアルヴィンが顔を上げた。
「被害者たちの資金繰りのことか」
「はい。一年前の契約凍結の煽りを受け、彼らの多くが事業を維持するために高利の緊急借入を行ったり、無理な保証契約を結んだりしています。そしてその多くが、物流が雪に閉ざされる本格的な冬の前に、返済や更新の期限を迎えます」
クラウディアは報告書の項目を指先でなぞった。
「例えばネラの工房は、冬用の素材を仕入れるための前払金が必要です。オットーの商会は、親族の治療費と借入の返済が重なっています。……冬まで、およそ六十日。経路変更を申し立てていますが、通常送金がこのまま滞れば、彼らの越冬と事業存続には到底間に合いません」
「中央を追い詰める前に、被害者側が干上がるということか。厄介だな」
アルヴィンが眉間に皺を寄せた。
解除請求への回答は、まだない。裁判所へ提出する資料を揃える間にも、借入の返済日は近づいていた。
「送れる経路を確保することと、返す原資を作ること。両方を進めます」
クラウディアは迷いのない声で言い切った。
「彼らに回す配当の総額そのものを、圧倒的に引き上げます。冬が来る前に、このノルデンで大規模な事業拡張を行います」
その日の午後、所長室に会計主任のマルタと、工房長であり一般住民の代表でもあるローディンが呼ばれた。
ローディンは五十代の筋骨隆々とした男で、着任当初は「王都から罪人が送られてくる」と誰よりも反発していた人物だ。
「事業の拡張、ですか。所長」
ローディンが顎髭を撫でながら、クラウディアの提示した計画書を覗き込んだ。
「はい。冬の需要を見越し、周辺都市に向けた大口の契約を三つ同時に立ち上げます。一つ目は、干し肉や燻製を中心とした保存食の大量生産。二つ目は、近隣の村々と連携した冬用防寒具の織物生産。そして三つ目は、雪害対策用の修繕部材と建材の加工です」
「おいおい、三つ同時とは大きく出たな。確かに冬前の今はどこもそれを欲しがっているが、今のノルデンの人員で回し切れるのか? 俺たち一般住民も、今の市場向けの生産だけで手一杯だぞ」
「一般住民の方々には、これまで通りのペースで熟練作業をお願いします。不足分は近隣の工房へ発注し、臨時雇用を募ります。執行対象者は検品や工程整理へ配分し直します。勤務時間を延ばす計画ではありません」
クラウディアの言葉に、ローディンは少しだけ目を丸くし、やがて短く笑った。
「なるほど。人を増やして、今いる連中の持ち場も組み直すわけだな」
着任当初、ローディンたち一般住民は、特権階級の罪人たちが来ることで町が混乱すると警戒していた。だが、クラウディアの運営は違った。彼らに特権を許さず、適正な市場単価で労働させ、そこから生み出された事業利益の三十五パーセントを賠償配当へ回し、残りの六十五パーセントを再投資、修繕安全、運転資金・公共基盤へ配分したのだ。
結果として、罪人たちが働けば働くほど、ノルデンの町自体に資金が落ち、広場は整備され、一般住民の生活も豊かになっていった。
「俺はあいつら個人のことは信用しちゃいねえが、所長が作ったこの『制度』の恩恵は確かに受け取っている。……いいだろう。工房の連中には俺から発破をかけておく。新しい案件の工程管理は任せてくれ」
「頼りにしています、ローディン」
工房長が力強く請け負い、マルタも資金繰りの調整に走る。
ノルデンの辺境再建と、被害者への賠償速度。その両方を支える計画を、ローディンは工房へ持ち帰った。
翌日から、ノルデンの現場は冬前の特需に向けてすさまじい熱気に包まれた。
保存食の加工場では、塩と煙の匂いが立ち込める中、一般住民の指導のもとで罪人たちが手を動かしている。ユリウスもまた、重い塩袋を運び、燻製小屋の温度管理という過酷な労働に回されていた。煙で目を赤くし、煤で顔を真っ黒にしながらも、彼は黙々と薪をくべ続けていた。
ダリウスは増産された品を近隣へ運ぶため、馬の限界を見極めながら積載量と休息を考えた輸送日程を組み上げ、トリスタンは三つの巨大案件の原価計算と発注書に埋もれながら、ペンを握り続けている。
彼らが有能であればあるほど、生産ラインは加速し、巨大な価値が生み出されていく。
「……よし。保存食案件の第一ロット、および建材加工の初期納品分、確かに数字の整合性を確認した」
執務室で、アルヴィンが分厚い台帳に監査署名を行った。
彼はクラウディアの方を向き、その計算結果を告げた。
「執行対象者たちの総労務評価額から生活維持控除を引いた純労務充当額。そして、事業の配分可能純益から弾き出した三十五パーセントの事業利益配当。……すべて適正だ。彼らがこの数日で生み出した利益は、確実に前回の市場を上回るペースで積み上がっている」
「彼らの労働が価値を生めば生むほど、被害者へ返すための原資が手に入ります。冬まで六十日。それまでに、係争中の案件を除いた確定額だけでも、なんとか彼らの越冬に必要な金額まで引き上げなければ」
クラウディアの言葉には、強い決意が込められていた。
彼女は自分自身を休ませることなく、新しい案件の契約書と向き合い続けている。アルヴィンはそんな彼女の横顔を、静かな、だが確かな熱を帯びた視線で見つめていた。
クラウディアが一度伸びをし、すぐ次の書類へ手を伸ばす。アルヴィンは声をかけかけてやめ、冷めた茶の代わりを注いだ。
「……アルヴィン? どうかしましたか?」
「いや。このペースでいけば、次の送金時にはまとまった額になるという確認だ」
アルヴィンが小さく首を振って書類に目を落とした、まさにその時だった。
所長室の扉が激しく叩かれ、門の警備を担当している職員が息を切らせて飛び込んできた。
「所長! 至急のご報告があります!」
「どうしました。落ち着いて報告しなさい」
「はい。街道の見回りが、ハルト商会の荷馬車を見かけました。エミリア殿がご自分で御して、こちらへ向かっています」
「到着の連絡はありませんでしたが……」
「まもなく正門へ着きます。書類を届けに来たと、見回りの者に伝えたそうです」
「エミリアが……ここへ?」
クラウディアとアルヴィンは顔を見合わせた。
被害者が、わざわざ加害者たちのいる忌まわしい執行区へ、直接足を運んでくる。手紙や通信鳥で済む用事ではないということだ。
冬を前にして、彼女の身に、あるいは連絡会に何が起きたのか。
クラウディアはすぐにペンを置き、立ち上がった。




