第14話 三か月だけの婚約内定
凍てつくような朝の空気が支配するノルデンの集荷場で、セシリアは書類の束を抱えたまま、作業者の群れの中にいる一人の男を目で追っていた。
灰色の作業着を泥で汚し、額に汗を浮かべながら荷車の積み込みを手伝っているユリウスだ。
(……王都でのことを、少しは覚えていてくださるはずよ)
セシリアの心の中に、甘く身勝手な期待が膨らんでいた。
一年前の建国祝賀会。彼にすがりついて涙を流したあの日、ユリウスは姉を切り捨て、公衆の面前で自分を『次の婚約者』として選んでくれた。その後の三か月間、彼からの愛の囁きと、王太子妃となる自分に向けられた王都の羨望の眼差しは、セシリアにとって人生で最も輝かしい時間だった。
その内定は偽証の発覚とともに無惨に失効し、彼も王太子の座を追われたが、同じ町で暮らしているうちに、セシリアは彼の中にまだ自分への特別な感情が残っているのだと思い込もうとしていた。
監督の目が逸れた隙を突き、セシリアはユリウスのそばへ駆け寄った。
「ユリウス様……少し、よろしいですか。少しだけ、お話を……」
上目遣いで、かつて彼が愛してくれた『可憐な妹』の表情を作って囁きかける。
だが、丸太を固定する縄を縛っていたユリウスが振り返った時の目は、冬の湖のように冷たく、ひどく事務的だった。
「何の用だ。作業の邪魔になる」
「え……? で、ですが、私たちはかつて――」
「かつての話など、ここには存在しない」
ユリウスは感情の乗らない声でぴしゃりと言い放った。
「私が君の偽証を調べずに信じ、婚約を決めた。その判断の責任は私にある。だが、今も婚約が続いているわけではない」
冷ややかな宣告。一年前、権力というメッキに覆われていたからこそ輝いて見えた熱情は、泥にまみれた現実の前では一欠片も残っていなかった。
彼はもう、セシリアを甘やかす王太子ではない。莫大な借金を背負わされた、ただの労働者だった。
「私は一日でも早く残債を減らすために働かなければならない。君もそうしろ。無駄話をしている暇があるなら、自分の持ち場へ戻れ」
ユリウスはそれ以上セシリアを一瞥することもなく、再び丸太に向き直った。
セシリアは伸ばしかけた手を下ろした。ユリウスはもう、彼女を見ていなかった。
「そこまでです」
凛とした声が響き、クラウディアが二人の間に歩み寄ってきた。彼女の傍らにはアルヴィンが控えている。
「セシリア。あなたは今、事務照合の持ち場を離れていますね」
「お姉……所長、これは……」
「言い訳は不要です。あなたたち二人が過去にどのような関係であったにせよ、その個人的な感情やしがらみを、この賠償事業の現場に持ち込むことは一切許可しません」
クラウディアは手元の配置表にペンを走らせながら、顔を上げた。
「本日をもって、ユリウス元殿下とセシリア・ヴェルンの作業区画を分けます。ユリウス元殿下は引き続き外の物流拠点での荷役と検品へ。セシリアはマルタのいる事務室で照合作業へ戻りなさい。荷役中の私語は危険です。受け渡しの担当は別に置きます」
セシリアが涙目で何かを訴えようとしたが、アルヴィンの冷ややかな一瞥を受けて口を噤み、逃げるように事務棟へと走り去っていった。ユリウスもまた、一礼だけして作業に戻る。
クラウディアは静かに背を向け、所長室への帰路についた。
所長室へ戻ると、マルタが二つの封を机に置いた。
「六十三金貨の照合日です。中央の処理報告と、被害者側の受領証が揃いました」
クラウディアはまず受領証を開いた。次に、中央からの報告を隣へ置く。
日付を指で追い、もう一度、金額を足し直した。
「マルタ。こちらの合計を、別に計算してもらえますか」
彼女の声に、アルヴィンが顔を上げた。




