第12話 命令に従っただけでは返せない
「パスカル・エルデン。彼が現在、中央賠償管理局長であるベルナール侯爵の筆頭秘書官を務めているとなれば、すべての辻褄が合います」
セシリアが青ざめた顔で事務室へ戻った後、クラウディアは手元の資料を見つめながら静かに言った。
一年前に内部様式を渡した男が、今は中央局長の秘書官をしている。クラウディアはその事実を、未確認の推測とは分けて書き留めた。
「書庫の貸出記録を調べよう。今の送金票に関わったかどうかも、まだ確かめる必要がある」
アルヴィンが照会先を記す。
「お願いします。七日目の受領確認までに、こちらの原票も揃えておきます」
その時、所長室の扉が乱暴にノックされ、苛立ちを隠せない様子の男が入ってきた。
購買原価の計算と資材調達補助に割り当てられている、トリスタン・ヘラーだった。
「所長。少し話をさせてもらいたい」
「何ですか、トリスタン。就業時間中ですよ」
クラウディアが顔を上げると、トリスタンは不満げにデスクの前に歩み寄り、両手をついた。
「私の総負担、百九十金貨についてだ。いくらなんでも重すぎる。私は購買班として、原価の無駄を省き、すでに数金貨分の経費削減に貢献している。それなのに、未熟練の労働者と大差ない評価額で、いつ終わるとも知れない返済を続けさせられている!」
「あなたの総労務評価額は、王国の熟練事務官の市場単価に則って適正に算定されています。不当に低く見積もってはいません」
「額の算定の話ではない! 根本的な責任の割合の話をしているんだ!」
トリスタンは声を荒げた。
「一年前のあの日、私は王太子であったユリウス殿下から『この資料をまとめ、読み上げろ』と命令されただけだ。殿下の命令は絶対であり、私に拒否権などなかった! 実質的な決定権を持たなかった私が、なぜこれほど莫大な民事賠償を背負わなければならない。もっと減免されるべきだ!」
特権階級に特有の、見事なまでの責任転嫁だった。
『命令に従っただけ』。それは、組織の中で歯車として立ち回る者が最も好んで使う、無敵の言い訳だ。
クラウディアは引き出しを開け、保管してあった一年前の公式文書の写しと、被害者たちの契約記録を取り出した。
「トリスタン。あなたが命令に従ったことは事実でしょう」
「ならば――」
「しかし、これを見てください」
クラウディアがデスクに並べたのは、あの日、クラウディアが進めていた直接支払試行事業を即座に停止させた『凍結通達書』だった。
「この通達書には、実務責任者としてあなたの『自筆署名』がはっきりと残されています」
トリスタンの顔が引きつった。
「ユリウス元殿下が命じたとしても、最終的に書類を取りまとめ、その内容に問題がないと保証し、ペンを執って自らの名を記したのはあなた自身です。あなたがこの署名をする前に、少しでも資料を検証していれば、エリーズたちの商会との契約が理不尽に打ち切られることはなかった」
「そ、それは……殿下が急げと仰ったから……!」
「誰が急かそうと関係ありません。あなたのその『自筆署名』があったからこそ、行政命令として効力を持ち、エリーズをはじめとする業者の事業は停止し、損失が確定した。あなたが行った事務手続きと、彼らが被った損害の間には、判決で認定された因果関係が存在します」
傍らで聞いていたアルヴィンも、静かに同意の頷きを見せる。監察官の目から見ても、彼は資料の未検証を知りながら、確認済みの欄へ署名していた。その認定は、確定判決にも記されている。
「命令だったから。皆がそう言っていたから。……そんな言い訳で、奪われた人々の損失が消えてなくなるわけではないのです。あなたが実務者としてペンを執った事実は、一生消えません」
「……っ!」
「あなたの文書作成能力と数字の計算能力は、間違いなく有能です。ですから、引き続き購買原価の改善に使わせてもらいます。私財で払った分を除く、残り百三十金貨を返し切るには、その有能さを被害者への返済のためだけに使い続けなさい。話は以上です。仕事に戻ってください」
トリスタンは自分の署名を見つめていた。やがて書類から手を離し、所長室を出ていった。
トリスタンの直談判を退け、市場の成功による配当を確定させてから、翌日の午後。
ノルデンの所長室に、地方銀行を通じた緊急の通信鳥が舞い降りた。
差出人は、被害者同士の連絡役を引き受けているエミリア・ハルトからだった。
筒から書状を取り出したクラウディアは、その文面に目を走らせるなり、すっと目を細めた。
「所長。エミリアからか? 受領証が届いたのか」
アルヴィンが歩み寄り、問いかける。クラウディアは首を横に振った。
「いえ、着金の問題ではありません。……エミリアからの報告によれば、ここ数日の間に、同じ事件の被害に遭った複数の人々の元へ、ある不審な男が現れ始めているそうです」
「不審な男?」
「はい。男は被害者たちの玄関先に立ち、こう持ちかけているそうです。『あなたの持つ賠償債権を、今すぐ現金で八割の価格で買い取らせてほしい』と」
アルヴィンの灰色の瞳が、危険な光を帯びた。
債権の買い取り。それは、手元に早く現金が欲しいという被害者の心理と窮状につけ込み、正当な賠償金を二割もかすめ取ろうとする卑劣な手段だ。
「……ただの悪徳業者とは思えんな。中央の連中が、市場の風評被害に続き、今度は被害者たちへ直接圧力をかけ始めたということか」
「おそらく」
ノルデンの外で、見えない敵の魔の手が着実に動き始めている。
被害者たちを守るため、クラウディアは次の一手を打つ必要に迫られていた。




