第78話:『国崩しの轟音と泥の嘴(くちばし)』
ドォォォォンッ!!
初冬の張り詰めた空気を真っ二つに引き裂くような、大地を揺るがす異様な重低音が小丸川の河原に轟き渡った。
対岸、北岸の丘に据えられた大友軍の砲台から、天を覆い尽くすほどの黒煙と火花が噴き上がる。
直後――。
大気を引き裂く甲高い唸り音とともに、巨大な黒い影が高城の正面切所へと飛来した。
ズザザァァァンッ!!
轟音とともに、外郭に積まれていた竹蛇篭の防壁が一撃で粉砕された。割れた孟宗竹の鋭い破片と赤土が噴水のように舞い散り、数名の足軽が竹片を腕や肩に受けて血を滲ませながら転がる。耳を塞いで伏せていた島津の兵や日向の地侍たちが、顔を蒼白にして跳ね起きた。
「な、なんじゃ今の音はぁっ!?」
「南蛮の雷じゃ! 悪魔の業火が落ちてきよったぞ!」
「神罰じゃ! 大友の連れてきた南蛮の神が、怒り狂うて雷を落としたんじゃあッ!」
前線を取り巻く数千の兵の間に、目に見える速度で恐慌の波が広がりかけていた。
人間は、理解できない圧倒的な破壊力を前にしたとき、戦う前に心が折れる。大友宗麟がこの巨砲に「国崩し」と名付けた真の狙い――それは城壁の物理的破壊以上に、敵の戦意を根底から打ち砕く心理兵器としての猛威だった。
「うろたえるなッ!!」
鋭い怒号が、煙の立ち込める高城前進陣地に響いた。
駆け込んできたのは、粗削りの水晶レンズを収めた自作の遠眼鏡を首から提げた崇清である。
その背後には、大槌を担いだ甚兵衛、十文字槍を握る中村助三郎、巨躯を誇る北村五郎兵衛ら、蒲生の専業武士たちが一糸乱れぬ隊列で控えていた。
「若君! 南蛮の雷が……!」
すがりついてくる地侍の肩を、崇清は力強く掴んで押し戻した。
「目を開けてよく見ろ! 雷でも天罰でもない! ただの鉄の筒から火薬で鉄球を飛ばしただけだ!」
崇清は吹き飛んだ土塁の跡を指差した。
「見ろ! 穴が開いただけで火は燃え広がっていない! 弾は炸裂しないただの鉄の塊だ! 破片でかすり傷を負った者はいるが、死者は一人も出ておらん! 土塁の陰に伏せていれば、決して殺られはせん!」
崇清の冷徹で論理的な怒声に、我を失いかけていた兵たちがハッと我に返る。
吹き飛んだ竹籠の残骸を見つめると、確かに激しい煙と土煙こそ上がっているが、周囲で即死した者は一人もいなかった。
「猪之助! 工兵を出せ! 替えの竹蛇篭を三つ叩き込め!」
「応ッ!」
崇清の号令一下、待機していた工兵班が飛び出し、予備の竹蛇篭をテコで滑り落とす。石と赤土を詰めた頑丈なブロックが瞬く間に隙間を埋め、吹き飛んだはずの防壁は、わずか数十呼吸の間に元の形を取り戻した。
対岸の丘で目を凝らしていた大友の前衛物見たちから、動揺のどよめきが漏れる。
「な、何だあいつらは!? 国崩しを食らって、なぜ平然と壁を塞いでおるのだ!?」
「やはりな」
崇清は遠眼鏡を下ろし、薄く息を吐いた。
「若君、敵の大砲はすぐに次を撃ってきますかい!?」
陣地の片隅で算盤を抱えた弥三郎が、叫ぶように問う。
「撃てんよ。あれは子母砲――後装式の南蛮砲だ」
崇清は静かに首を振った。
「装填済みの子砲の予備はあるはずだが、隙間から激しくガスが漏れている。砲身が猛烈な熱を帯びて膨張している証拠だ。砲身を冷まして清掃せぬまま連射すれば、中で火薬が暴発して自分たちが吹き飛ぶ。冷却と安全確認を終えるまで、最低でも半時は動けん」
崇清の前世の知識と、遠眼鏡越しに見えた現実が完全に一致していた。
大友の砲手たちは、初弾を撃ち終えた安堵と興奮で、白煙を上げる砲身の周りに群がり、柄付きの濡れ雑巾で砲腔を洗うのに手一杯だった。護衛の鉄砲隊も、轟音の余韻に酔いしれて警戒を緩めている。
「次弾までの空白……今、あの大砲はただの重い鉄屑だ」
崇清の瞳に、野戦の血が冷たく灯った。
「甚兵衛! 助三郎! 準備していた綱と輓馬を前へ! 敵が次の筒を冷やし終える前に、あの鉄の筒を引っこ抜くぞ!」
「おうッ! 手筈通りだな若君!」
甚兵衛が獰猛な笑みを浮かべ、孟宗竹で補強された樫の大槌を構えた。
「北村五郎兵衛は特注の厚竹束を押し立てて鉛玉を弾け! 中村助三郎は槍衾で砲兵の護衛を蹴散らせ! 谷河弥平次は太綱を砲身に巻き付け、浅瀬の輓馬に合図を送れ! あんな危険な玩具、大友の手元に置いておく必要はない!」
「チェストォォォッ!!」
蒲生専業武士五十名の咆哮が、小丸川の河原に炸裂した。
ゴロゴロと重い車輪の音を立て、泥濘の浅瀬を突き進んだのは、飯隈の工房で極太の孟宗竹を幾重にも張り合わせて作られた車輪付き孟宗竹防弾盾だった。
怪力を誇る北村五郎兵衛が先頭に立ち、丸太のような腕で竹盾を押し進める。
対岸の大友陣営が、泡を食って叫んだ。
「て、敵が突っ込んでくるぞ! 鉄砲を撃ちかけろ! 国崩しを守れッ!」
バババババンッ!
大友の護衛鉄砲隊が慌てて火縄銃を斉射した。
だが、鉛の弾丸は、油抜きを施され強靭な弾力を持つ孟宗竹の曲面に当たると、甲高い音を立てて弾かれ、あるいは繊維の奥に食い込んで止まるだけで貫通しない。
「効かぬわッ! 蒲生の竹を舐めるなァッ!」
五郎兵衛が竹盾ごと敵の柵へ体当たりを喰らわせ、バリバリと逆茂木を粉砕した。
「そこを退けいッ!」
竹盾の陰から電光石火の勢いで飛び出したのは、中村助三郎貞清の率いる槍隊だった。加久藤で命を落とした叔父・兼貞の無念を宿した助三郎の十文字槍が、ポルトガル人の砲手と大友の護衛兵を次々と薙ぎ倒していく。白兵戦の訓練など受けていない南蛮人砲手たちは、血煙を上げて悲鳴を上げ、我先にと丘の裏へ逃げ散った。
「弥平次、綱をかけろッ!」
「あいよッ!」
身軽な谷河弥平次が泥の中に飛び込み、熱を帯びた国崩しの砲身へ、丘の下から浅瀬まで長く渡した極太の麻綱を幾重にも巻きつけて結び目を締めた。
「甚兵衛様、掛かりましたぜ!」
「よしッ! 車輪の輪留めをへし折れェッ!」
甚兵衛が振り下ろした大槌の一撃が、砲台の樫の車輪留めを木っ端微塵に粉砕した。
川の浅瀬に控えていた数頭の頑丈な輓馬と屈強な蒲生武士たちが、丘の上から伸びる綱を一斉に引き絞る。
ズズズッ……ボフッ!
大友軍が数百人の人足を潰して山道から運び込んだ百貫の巨砲は、斜面を滑り落ち、あっけなく泥の中から引っこ抜かれて小丸川の浅瀬へと引き摺り下ろされた。
「ぶ、ぶん取ったぞォォッ!!」
河原に、蒲生武士たちの勝ち鬨が轟き渡った。
*
高城の本丸。
櫓の上からその一部始終を呆然と見下ろしていた城将・山田有信は、顎が外れんばかりに口を開けて硬直していた。
「おい、有栄」
「は、父上」
「あの大友の無敵の巨砲が、川を渡ってこっちへ運ばれてくるように見えるのだが……気の迷いか?」
「いえ、父上。紛れもなく、崇清様の蒲生武士どもが、大友の宝物を泥の中から泥棒して引き揚げてきております」
一方、小丸川南岸の高城前進陣地。
浅瀬を引かれ、泥まみれになって運び込まれてきた巨大な青銅砲を見下ろしながら、弥三郎は手元の算盤を放り出し、頭を抱えて絶叫していた。
「胃が……! 胃が雑巾みたいに絞られるぅぅッ! 若君、敵の天下の宝物を力づくで分捕ってきちゃってどうするんですか! 向こうの大将、憤死しますよォッ!!」
「いい土産ができたじゃないか」
崇清は煤に汚れた砲身をポンと叩き、満足そうに頷いた。
「高須の造船所へ送って、職人たちに構造を写させよう。さて」
崇清の視線が、小丸川の対岸――大友本陣へと向けられた。
対岸からは、自慢の大砲を目の前で強奪された田北鎮周の、怒髪天を衝く絶叫が響き渡っていた。
「おのれ泥の野武士どもめがぁぁッ! 全軍突撃! 川を渡れ! 一人残らず叩き斬って国崩しを奪い返せッ!」
「待て鎮周! 親賢殿の下知を待て! 渡河は罠だ!」
制止しようとする大友の将たちの声など、もはや激昂した鎮周の耳には届かない。
飢え、焦り、そして耐え難い恥辱。
理性のタガが完全に吹き飛んだ田北隊が、軍令を無視して小丸川の浅瀬へ雪崩を打って突撃を開始した。
先鋒が動けば、飢えた全軍が「敵の兵糧を奪え」と雪崩を打って追従する。
崇清は静かに北の空を見据えた。
この浅瀬で大友の暴走突撃を受け止めて押し返し、敵が総崩れとなって北へ敗走したその先――小丸川の北、耳川の谷間には、島津家久の精鋭が完璧な包囲陣を敷いて待ち構えている。
「掛かったな」
崇清の呟きとともに、大友四万を呑み込む耳川の地獄の幕が、ついに切って落とされた。
今回は、大友軍が誇る切り札「国崩し」が、まさかの鹵獲となりました。
一発目は確かに高城の防壁を吹き飛ばした。
轟音も、破壊力も、島津方に与えた恐怖も本物です。
しかし、その「恐怖」が消えるまでの僅かな時間を崇清は見逃さなかった。
そして――撃った直後の巨砲を、丸ごと奪ってしまったわけです。
大友軍からすれば、これは単なる兵器の損失ではありません。
「国崩し」は、大友宗麟が南蛮の技術を取り入れ、戦場を変える切り札として用意したもの。
それを敵陣の目の前で撃ち、そして敵に奪われた。
しかも、壊されたのではなく。
泥まみれになった巨砲を、蒲生の武士たちが堂々と引きずって持って帰った。
――これは、あまりにも屈辱的です。
ここで大友軍にとって厄介なのは、「砲を失った」という事実そのものよりも、
「高城を落とせないまま、敵に笑われている」
という焦りが生まれてしまうこと。
本来なら、ここで一度立ち止まって陣形を整えるべきでした。
しかし、戦場では理屈だけで人は動きません。
怒り、焦り、面子、そして「このままでは終われない」という感情が、兵を前へ押し出します。
高城を落とせ。
島津を追え。
そして、失った国崩しの恥を雪げ。
そんな空気が大友軍全体を包み込んでいく。
その先に待っているのが――耳川です。
島津家久は、ただ待っているわけではありません。
大友軍が冷静さを失い、自ら決戦を求めて前へ出てくる瞬間を、じっと待っています。
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