第75話 楠の行者と黒衣の証状
今朝7時に投稿予約していたと思っていた74話 日向の落日と都於郡城の孤影の予約投稿時間を間違えて19時にしてました。8時半過ぎに気づいてその時点で投稿しました。すみません。
なので7時に来て頂いてまた19時過ぎに来て頂いた方はもしかしたら74話を飛ばしてここに来てるかもしれません。
※追記これを今日19時に予約したつもりが9時前に投稿されてました…もうめちゃくちゃだよ……今日は疲れてるのかもです…
この投稿を今日の19時分ということで次の投稿は明日7時です。
天正四年(一五七六年)二月。 平野部に広がる飯隈の兵站総会所の夜は、まだ骨の芯まで凍みる寒さに閉ざされていた。
都於郡城が自壊し、伊東義祐が豊後へ亡命してから二ヶ月余り。 日向南部に残された地侍や百姓たちを飢えさせぬよう、高須から早船で運び込ませた干し芋と塩漬け豚肉の炊き出し配給は、弥三郎の凄まじい算盤の甲斐もあって、ようやく現場の手で自走し始めていた。 机の上に置かれた素焼きの油皿が、パチパチと小さな爆ぜ音を立てて細い炎を揺らしている。 崇清は手元の筆を置き、凝り固まった首を小さく鳴らした。
「若君、戻りましたぞ」
静寂を破り、板戸を擦るような低い声が暗がりから落ちてきた。 頭巾を脱ぎ捨てて姿を現したのは、楠行者衆の頭領・道純である。足元は長旅の泥にまみれ、頬は寒風に削られて痩せていたが、その双眸だけは冷ややかに研ぎ澄まされていた。
「道純か。無事だったか」 「はっ。霧島から阿蘇の山伏筋、さらに豊後の山伝いに走り、府内の奥まで潜ってまいりましてござる」
道純は懐から、幾重にも油紙で包まれた平たい革袋を取り出し、机の上へ慎重に置いた。 「若君の仰せの通り、宗麟が南蛮の坊主どもに何を約束し、何を買い漁っておるか、その裏帳簿を引っこ抜いてまいりました」
崇清は身を乗り出し、革袋の紐を解いた。 中から現れたのは、商人たちの仮名交じりの帳面数冊と、変体漢文で記された証文の写し――そして、見慣れぬ横文字が走り書きされた紙片の束だった。
「よく手に入れたな」 「府内湊の南蛮寺に出入りする通訳の修道士を一人、銭と脅しで抱き込みましてな。それに、奈多八幡の社家筋が、実にいい働きをしてくれましたわい」
道純の口元に、冷笑が刻まれる。 「宗麟が八幡の神域を削って南蛮寺に土地を与えようとしておる上、奥方様を追われた恨みも重なり、奈多の者どもは宗麟に激しい怨嗟を抱いております。島津の行者と知ってなお、裏帳簿の抜き出しに喜んで手を貸してくれました」
崇清は油皿の炎のそばへ紙片を寄せ、素早く数字を拾い上げていった。 そこにあったのは、歴史の知識として知っていた「耳川への道」を、冷徹な物証として裏付ける確定事実の山だった。 だが、未来を知っているからといって「宗麟は狂信者だから破滅する」と叫んだところで、誰が納得するというのか。 必要なのは予言ではない。 立花道雪や高橋紹運といった大友の骨太な忠臣たち、そして島津本家の首脳陣を納得させるための動かぬ証拠――すなわち立証作業だった。
紙片に記された数字を、崇清は指先でなぞる。 「硝石の仕入れ値が、堺の相場の三倍に跳ね上がっている」 「はっ。南蛮商人はゴアからの船便が滞っておると渋り、宗麟は言い値をそのまま呑んで銀を吐き出しております」 「それだけじゃない。この一札を見ろ」
崇清は、通訳が翻訳した証文の写しを指先で弾いた。 「日向の地に新城を築きし折は、港湾の関税を免除し、教会直轄の地として領主の立ち入りを禁ず、か。治外法権の自治特区だ。宗麟は自分では硝石と大砲を手に入れるための安い代償のつもりだろうが、相手の手口は全く違う」
崇清の脳裏に、かつて学んだ近世世界史の構造が鮮明に浮かび上がっていた。 ゴアで何が起きたか。マラッカで何を奪われたか。マカオはどうやって居留地化されたか。 西欧勢力は、いきなり軍隊を大挙して送り込んでくるわけではない。 まず布教を許させ、次に武器と火薬の供給を独占して軍事的に依存させ、最後には港湾要塞と治外法権を分捕って内側から国を従属させるのだ。
「肥前でも、大村純忠が長崎を教会に差し出し始めていると聞く」
崇清は低く呟いた。 「宗麟公は己が南蛮を利用しているつもりで、その実、大友の国土の首輪を相手に手渡している。これは宗教の戦いじゃない。国家の主権を切り売りする、明白な自滅劇だ」 「若君。では、この証文を大友の家臣どもへ?」
道純が目を細める。
「ああ。立花道雪と高橋紹運に届ける」
崇清は即座に頷いた。 「あの二人は大友家への忠義の塊だ。だが、その忠義は宗麟個人への盲従か、それとも大友家の存続か。この証文を突きつければ、二人は嫌でも理解するはずだ。宗麟公に従い続ければ、大友は南蛮の属国として擦り切れて果てるという現実をな」 「島津に寝返れと申すので?」 「まさか。そんな要求を呑むほど安い武将たちじゃない」
崇清は首を振った。 「大友家を滅ぼす気はない。ことの後は宗麟公には退いていただき、嫡男の義統殿による大友の家名を保証する。近衛家を通じて朝廷からも家格を安堵させる手筈を整える。そう伝えるんだ。彼らに必要なのは、裏切りではなく大友家を救うための政変という大義名分だ」 「相変わらず、恐ろしい絵図をお描きになる」
道純は深々と頭を下げ、気配を消して闇の中へと消えていった。
*
深夜。 道純が去り、再び静まり返った執務室で、崇清はひとり油皿の炎を見つめていた。 張り詰めていた神経が緩むと、長時間の机仕事特有の鈍い頭痛と、胃の奥を掴まれるような重い疲労が押し寄せてくる。
「ふぅ。頭が痛いな」
息抜きの気晴らしを求め、崇清は机の隅に積んであった桐箱に手を伸ばした。 先日、獅子目の若一王子神社の神主から譲り受けた『飯隈文書』である。
紐を解き、黄ばんだ紙肌の巻物を、膝の上で両手を使って静かに繰り広げていく。 虫食いの跡が点々と走る古文書には、古い変体仮名と漢文で、神代の神々の系譜が几帳面に書き留められていた。 飯隈の郷の古い伝承とは、どんな話なのか。 歴史好きの習性で、薄暗い灯火に文字を透かしながら読み進めていた崇清の視線が、ある一柱の神名の上でピタリと止まった。
『正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊』
崇清は眉をひそめた。 改めて見ると、凄まじい名前だ。 「吾勝(まさに我が勝った)」に、「勝速日(勝つこと日の昇るがごとし)」。 これでもかというほどに武威と圧倒的な勝利を重ね塗りした、戦勝祈願の塊のような名号である。 なのに、記紀神話の筋書きはおかしい。 高天原から地上を平定するために降臨を命じられた際、このオシホミミは「地上の神々が荒ぶっていて騒がしいから行きたくない」と言って引き返し、息子のニニギを代わりに降ろしたことになっている。 これほど勝ち誇った名を冠された最高神格の武神が、いざ出撃となった瞬間に「下界が物騒だから嫌だ」と怖気づいて引きこもるなど、あまりにも話の筋が通らない。 普通に考えれば、神話の編纂過程で何らかの強烈な政治的改変が加わったとしか思えない不自然さだ。
崇清は首を傾げながら、巻物の続きを読むべく、丁寧に紙面を左手へと繰っていった。 虫食いの隙間に残された古い墨跡が、中央の神話とはまるで異なる、奇妙な記述を浮かび上がらせていた。
そこには――「オシホミミは地上を恐れて逃げ帰ったのではない」と読める、異様な一節が記されていた。
崇清の目が、わずかに見開かれた。
鹿屋市獅子目にある若一王子神社の主祭神オシホミミノミコトは面白い神様なんですよ。
朝はすみませんでした。次は7時更新予定です。




