第73話 府内港の巨砲と悪魔の取引
大書院から奈多夫人が去り、大友館には張り詰めた静寂だけが残されていた。 床に散らばった白檀の灰を踏みながら、田原親賢は息を呑んで主君の背中を見つめていた。
大友宗麟は、壁に掲げられた聖画の前で微動だにせず佇んでいた。 その肩の力は抜け、先刻まで狂乱のように妻を罵倒していた熱気は、潮が引くように消え失せている。 ゆっくりと振り返った宗麟の双眸には、狂気とは正反対の、底知れぬ冷徹さが宿っていた。
「……親賢。神父は、何処におる」 その声音には、甘やかな陶酔の響きは微塵も残されていなかった。
「はっ……。イエズス会のカブラル師、ならびに修道士アルメイダ、別室にて控えております」
「通せ」
*
黒塗りの小部屋に招き入れられたのは、黒い法衣を纏った面長の宣教師フランシスコ・カブラルと、府内の病院で治療にあたる医師でもあった修道士ルイス・デ・アルメイダであった。 その後ろには、通訳を務める若い日本人修道士が静かに控えている。
アルメイダが卓の上に、ビロードの布に包まれた白木の箱を置いた。 蓋を開けると、中から現れたのは、磨き抜かれた真鍮の羅針盤と、灰白色の結晶の塊――純度の高い「硝石」だった。
カブラルが視線を通訳へ送ると、通訳の修道士が恭しく頭を下げて口を開いた。 「ゴアのインド総督、ならびにマカオの商館長より、大友殿へ特別な言伝がございます。……大友殿がこの豊後において我らの布教を保護し、異教徒の迷信を掃討して神の国を開かんと誓われること、ローマの教皇聖下も深く喜ばれております」
「美辞麗句はよい」 宗麟は卓の上の硝石を鷲掴みにし、爪先でガリと削った。 「欲しいのは、この火薬の種(硝石)と、堺の手配を待たぬ最新の鉄砲、そして大砲だ。……北の毛利、肥前の龍造寺は隙あらば我が領土を狙っておる。さらに南の薩摩では、島津の若造どもが海を荒らし、日向の喉首を締め上げつつある。大友がこの乱世を統べるには、日ノ本のいかなる大名も持たぬ雷が要る」
カブラルは表情を動かさず、ポルトガル語で短く通訳へ指示を出した。 通訳が羊皮紙の証状を卓の上に差し出す。
「条件はただ一つにございます。……大友殿が名実ともに洗礼を受け、『ドン=フランシスコ』の聖名を名乗られること。そして日向の地に建てられる新たな都において、教会と神の民の特権を保障すること。さすれば――我らが交易船に積む硝石、鉛、最新の火器について、他国に先んじて大友殿へ最優先で回すよう取り計らいましょう」
「……良かろう」 宗麟は躊躇うことなく頷いた。 「余は神に魂を捧げる。その代わり、南蛮の鉄と火薬は、すべて大友の前に平伏させよ」
宗教的理想郷への逃避と、軍事覇権への冷徹な計算。 相反する二つの思惑が、卓上の硝石を挟んで結びついた瞬間だった。
*
正午過ぎ。 鈍色の冬雲が垂れ込める豊後府内港――沖の浜の軍用突堤。
波頭が砕ける波止場には、大友家の馬廻衆や鉄砲頭、府内の商人ら数百人が幾重にも人垣を作り、固唾を飲んで海を見つめていた。 沖合深くには、白帆を畳んだ巨大な南蛮船が黒い威容を浮かべている。 そこから曳航されてきた大型の艀が突堤に横付けされ、極太の麻綱と轆轤がギリギリと軋む音を立てていた。
「う……おおォッ!?」 人垣から、どよめきが上がった。
艀の荷台から吊り上げられ、埠頭の敷板の上へ降ろされたのは、青黒く鈍い光を放つ、長大な青銅の巨塊だった。 全長一丈(約三メートル)。重さは百貫(約三百七十キロ)近くあろうか。 砲身後端の空洞から、あらかじめ火薬と弾丸を詰めた鉄の装填筒(子砲)を差し込み、楔で打ち込んで固定する、南蛮最新の後装式巨砲――「仏狼機砲」。 のちに、その一撃が山をも穿ち城を崩すと恐れられることになる、巨兵「国崩し」であった。
ドスゥゥンッ! 敷板に置かれた瞬間、埠頭の石畳が微かに震えた。
「……な、なんという威容じゃ……!」 太刀を佩いた田北鎮周が駆け寄り、冷たい青銅の砲身を鷲掴みにした。 その指先が、鋳造されたポルトガル王室の紋章をなぞる。
「これほどの巨砲、見たことも聞いたこともないぞ! 島津の小倅がどれほど泥谷で竹を編もうが、石を積もうが、この鉄の雷を一発撃ち込めば、砦ごと木っ端微塵に吹き飛ぶではないか!!」
取り囲む武頭や足軽たちも、その圧倒的な質量に気圧され、歓声を上げ始めた。 「勝てる! この大砲があれば、薩摩の野武士など恐るるに足らん!」 「日向の城など、すべて一撃で平らになるぞ!!」
突堤の高台に立った大友宗麟が、真鍮の十字架を高く掲げた。
「見よ! デウスが我が大友に授けたもうた、天の裁きの筒を!」 宗麟の声が、冬の海風を切り裂いて響き渡る。 「この巨砲を先頭に立て、軍勢を日向へ南下させる! 偽りの神仏を焼き払い、島津の夷狄を掃討し、我がムシカの園を開くのだ!!」
「「「うおおおおおおッッ!!」」」
埠頭を埋め尽くした数百の武士たちの咆哮が、冬の海へ轟き渡った。
その熱狂の輪から半歩身を引き、田原親賢は一人、手元の帳面を強く握りしめていた。 視線は、歓喜に沸く武将たちではなく、砲身の後ろに積み上げられた子砲の列へ向けられている。
(……火薬を一発爆発させるごとに、どれほどの硝石が吹き飛ぶのだ? 三発五発の連射など到底できまい)
親賢の額に、冷たい汗が滲んだ。
(ましてや、この百貫近い青銅の塊を、日向の険しい山道や泥濘の川を越えて、どうやって前線まで運ぶというのだ?)
牛が何頭要るのか。 人夫が何百人縛り付けられるのか。 運ぶだけで全軍の足が止まり、街道の兵糧を食い尽くすのではないか――。
海風が吹き抜ける波止場で、親賢はただ一人、白くなるほど指先を軋ませ、自らの帳面を握りしめ続けていた。
今回は、大友宗麟がキリスト教への傾倒を深め、南蛮の火器を手に日向へ向かおうとする場面を描きました。
そして今回、本作のブックマークが100件を超えました。
連載開始から約一か月。ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
まだまだ物語は続きます。これからも崇清たちの「組織と兵站」の行き着く先を見届けていただければ幸いです。
今回の主役は、ある意味で「国崩し」そのものより、その後ろに積まれた子砲と火薬かもしれません……
大砲は、手に入れれば勝てる兵器ではなく、撃つためにも運ぶためにも大量の兵站を必要とします。
さて、この「天の雷」は、日向でどこまで力を発揮するのでしょうか。
100ブクマ記念に本日はもう一本閑話を入れます。21時に投稿予定です。




