第72話 豊後の十字架(クルス)と破綻の家庭
天正二年(一五七四年)十一月。 南九州の山々を白く覆い始めた冬枯れの気配は、豊後府内――大友館の広大な屋敷町にも、重苦しく冷たい影を落としていた。
庭園の池には薄氷が張り、竹林を揺らす北風が、板敷きの廊下に張り巡らされた南蛮絨毯の端を吹き上げている。 だが、館の奥深く、甘ったるい白檀の香煙が立ち込める大書院の中は、凍てつく冬気とは裏腹に、押し殺された怒号と殺気で灼けつくばかりだった。
「……殿! 我が声が届いておりますか! 日向からの注進にございます!」
畳に両手を突き、額を擦りつけるようにして叫んでいるのは、大友家の筆頭家老・田原親賢である。 その前に投げ出されていたのは、都於郡城の伊東義祐から届いた、墨と涙で紙面を汚した無数の哀訴状――そして、日向南部に潜伏させた大友家の透破たちが持ち帰った、不気味極まりない調査目録の束だった。
親賢の隣で、筋骨隆々の偉躯を黒漆の当世具足に包んだ猛将・田北鎮周が、太刀の鞘を板敷きにドンと叩きつけた。 「伊東の家中は、もはや戦う前に自壊の極みにございます! 木崎原で敗れて以来、兵糧米の苛烈な徴発に耐えかねた野尻城の福永丹波守や紙屋の米良一族が、都於郡への門を閉ざし申した! ……すべては、南から伸びてきた島津の『見えざる網』にございます!」
鎮周の太い指が、目録の数字を指弾する。 「島津の小倅よ! 蒲生島津崇清とかいう十六、七の若造が、大隅の高須と志布志を押さえ、雪のように清らかな白塩と、泥の芋から造ったという強い酒を日向の沿岸へ津波の如く流し込んでおる! 日向の百姓や地侍どもは、伊東へ納めるべき米を隠し、夜陰に乗じて島津の船へ運び込んでおるのだ! ……城を攻め落とされたわけでもないのに、日向の蔵から米が一粒残らず消え失せておるのだぞ!!」
「左様!」 親賢が悲鳴のような声を重ねた。 「のみならず、日向灘を行き交う島津の船団は、竹の硬い骨帆を張り、逆風を突いて矢のように走るとか。あれを放置すれば、日向ばかりか、我が大友が堺や博多と結んでいる太平洋沿岸の通商覇権そのものが、南から根こそぎ食い破られまする! ……殿! 直ちに豊後・豊前・筑後の軍勢を動員し、日向へ南下して島津の芽を摘まねば手遅れになりますぞ!」
大友家を支える実務の頭脳と、前線の剛腕。 普段は家中派閥の主導権を巡って反目し合う二人が、揃って青ざめ、切迫した出兵を直訴していた。 北に毛利、西に肥前の龍造寺という強敵を抱え、北九州の防衛線に釘付けになっている大友にとって、背後の日向から突如として立ち現れた「得体の知れない海洋経済圏」は、まさに喉元へ突きつけられた冷たい刃だったのだ。
だが――。
上座に置かれた豪奢な唐木椅子に深く腰掛けた男は、二人の必死の訴えに、視線すら向けようとはしなかった。
大友宗麟(義鎮)。 北九州六カ国を従える絶対の覇者。 法衣を思わせる黒絹の小袖を纏ったその手には、ポルトガルの宣教師から贈られた細工も見事な真鍮の十字架が握られていた。 宗麟の濡れたような双眸は、眼前の重臣たちでも、日向の地図でもなく、庭園の薄氷の向こう――虚空の天をただ見つめていた。
「……親賢。鎮周」 宗麟の唇から漏れた声は、夢見るように低く、甘やかだった。
「塩がどうした。酒がどうした。……島津の野武士どもが、浜辺で泥の草を売りさばいて小銭を数えておるだけのことに、何をそう血相を変えておるのだ」
「と、殿……っ!?」 親賢が言葉を失う。
「伊東が泣きついてきたのは、デウスの思し召しよ」 宗麟は十字架を愛おしそうに指腹で撫でた。 その脳裏には、三十年近く前の古い記憶――天文十四年(一五四五年)、感受性豊かな十六歳のあの日が、鮮烈な光を伴って蘇っていた。
豊後府内の沖の浜に現れたポルトガル商船。 父・義鑑の側近たちが「異国人を皆殺しにし、積荷の財宝を奪おう」と迫った時、少年であった宗麟は刀を抜いて割って入り、商人を保護した。 あの時、南蛮商人たちが涙を流して宗麟の手を握り、見せてくれたもの――。 磨き抜かれた真鍮の羅針盤、細密な世界地図、そして天の理を説く宣教師たちの、穏やかで気高い眼差し。 野蛮な殺し合いと泥臭い領地の奪い合いに明け暮れる戦国の世で、それは宗麟の魂に落ちた、唯一の「天上の光」だった。
『我が主よ、遠き海を越えて訪れた人々を救いしその善行、デウスは決して忘れ給わぬでしょう』
あの日の神父の予言が、いま耳元で甘く木霊していた。
「見よ。日向の国は、山深く水清く、穢れなき土地」 宗麟の瞳に、恍惚とした光が揺らぐ。 「古き社や仏閣をすべて焼き払い、偶像を崇める土着の迷信を掃討したあかつきには、あそこへデウスを讃える民のみが集う、地上の至福千年王国を開くのだ。……神父様も仰っておられた。我が手で築くその清浄なる神の園の名は――『ムシカ(無鹿)』とな」
「な……」 田北鎮周の顎が外れそうに落ちた。 日向の兵站が崩壊し、島津の経済圏に呑まれかけているという現実の危機に対し、主君の口から返ってきたのは、あまりにも浮世離れした「宗教的理想郷」の幻影だった。
「殿! そのような絵空事は後です! いま日向を力で抑えねば、島津は――」 「鎮周ッ!!」 宗麟の眉が吊り上がり、双眸に冷酷な炎が爆発した。 「絵空事ではない! 我が魂の救済であり、我が大友家が真の王として天に選ばれるための聖戦である! 島津の如き異教の土民など、神の威光を前にすれば霧のごとく消え去るわ!」
親賢は冷や汗を全身から噴き出し、鎮周の袖を引いて制した。 (……駄目だ。話がまるで噛み合わぬ……ッ!)
かつては知勇を兼ね備えた名君であった主君が、領国の統治や兵站の計算など疾うに投げ捨て、自らの内なる宗教郷へと閉じこもろうとしている。 家臣の諫言など、この男の耳には「神への不信心」としてしか届かないのだ。
だが――。 その異様な静寂を切り裂くように、大書院の重い唐戸が、激しい音を立てて外から蹴破られた。
バァァァンッッ!!!
「――黙って聞いておれば、どこまで狂態を晒す気かッ、義鎮殿!!」
寒風とともに踏み込んできたのは、豪奢な白絹の打掛を羽織り、髪を乱した一人の高貴な女性だった。 大友家の正室にして、豊後・宇佐神宮別宮の奈多八幡宮の大宮司の娘――「奈多夫人」。
その背後には、佩刀した神官や社家武士たちが、殺気配備で控えている。
「ま、奥方様……!」 親賢が仰天して飛び退く。
奈多夫人は親賢や鎮周を一瞥すら愚弄するように見下ろし、大股で宗麟の椅子へと詰め寄った。 その血走った瞳が捉えたのは、宗麟の胸元で揺れる真鍮の十字架だった。
「デウス? 至福千年王国? 笑わせるでないわッ!」 奈多夫人の甲高い罵声が、大書院の梁を揺らした。 「南蛮の白豚どもに魂を売り渡して、何を浮かれておる! この豊後を代々守り給うたのは奈多八幡の神仏であり、大友の先祖代々の血脈ではないか! その神仏の社を焼き払い、異国の神に額づくなど……気違い沙汰にも程があるわ!!」
「……下がれ、女子」 宗麟の声が、地を這うような冷気に沈んだ。十字架を握る指先が白く軋む。
「下がりませぬ!」 夫人は袖から一通の書状を叩きつけた。 「日向の土豪どもが島津に靡いておるのは、貴様が南蛮にかまけて神仏を蔑ろにし、領内の寺社領を削って白豚どもに貢いでおるからじゃ! 島津は八幡の神を敬い、霧島の山伏を手厚く抱え込んでおると聞くぞ! 先祖の加護を捨てた大名に、誰が従うものかッ!」
夫人の言葉は、大友家中を真っ二つに引き裂いている「宗教的内戦」の痛烈な急所だった。 伝統ある社家勢力や旧臣たちは奈多夫人を神輿に担ぎ、キリスト教への傾斜を蛇蝎の如く嫌悪していた。 本来であれば、この正室の存在こそが、宗麟の狂信に歯止めをかける唯一の「家庭内ブレーキ」であるはずだった。
史実であれば、この夫婦の亀裂が決定的となり、離婚と受洗に至るのは四年後の天正六年(一五七八年)である。 だが――いま、南九州から急速に迫り来る島津の物流の影が、その時間の猶予を無残に食い破っていた。
「……我が魂を穢すか、奈多」 宗麟がゆっくりと立ち上がった。 その目は、もはや長年連れ添った妻を見る目ではなかった。地獄の泥沼から、天の光を遮ろうとする悪魔を見据える冷酷な狂気――。
「神仏など、所詮は現世の利権にしがみつく土着の偶像にすぎぬ。……余は、貴様らのような偽りの神を祀る者どもと、血を分かつことを恥とする」
「な……何を申すか……!?」
「縁を切る」 宗麟の冷徹な一言が、大書院の空気を完全に凍結させた。
「日向へ赴く前に、余はデウスの洗礼を受け、ドン=フランシスコとなる。……偶像を崇める貴様とは、今日限りで絶縁いたす。我がムシカの地に、神に背く女の入る隙間はない」
「義鎮ッ……貴様ァッ!!」 奈多夫人の顔が、屈辱と激怒で朱に染まった。 「後悔するぞ! 神仏の罰を受け、大友の家が日向の露と消える時、己の狂気を泣いて悔やむがよいッ!!」
夫人は床に唾を吐き捨て、打掛を激しく翻して嵐のように去っていった。
残された大書院。 親賢と鎮周は、冷や汗を流したまま身動き一つできなかった。 主君を現世に繋ぎ止めていた最後の枷が、いま、音を立てて砕け散ったのだ。
だが――親賢は、平伏したまま膝の上で拳を握り直した。 主君が神の国へ逃避しようと、妻と絶縁しようと、現実の島津の脅威が消えるわけではない。 この狂える主君を動かし、日向へ向けて大軍を動員させるための「唯一の取引」を、親賢は用意していた。
「……殿」 親賢は静かに顔を上げた。 その声には、冷徹な官僚としての覚悟が宿っていた。
「神の国を開くための『天の雷』……府内港へ陸揚げさせる手筈、すべて整いましてございます」
「……天の雷とな?」 宗麟が初めて、眼前の親賢へ視線を落とした。
「はっ。神父様と南蛮商人に掛け合い、南蛮渡来の決戦兵器……『仏狼機砲』を、堺の手配を待たず、通常より前倒しで府内港へ運び込ませ申した! ……島津の頑迷なる竹砦を一撃で粉砕する、神の鉄鎚にございます!」
宗麟の口元に、子供のような無邪気で残酷な笑みが浮かんだ。
「……見に行くぞ、親賢。神が我が手に授けたもうた、裁きの筒を」
家庭の破綻と信仰の暴走。 そして、巨人を戦争へと駆り立てる悪魔の兵器。 北九州の覇者・大友宗麟は、運命の耳川へ向けて、後戻りのできない奈落の一歩を踏み出そうとしていた。
今回は大友宗麟と奈多夫人の対立を描きました。
宗麟のキリスト教への傾倒と奈多夫人との対立、そして後の受洗・離縁については史実を下敷きにしています。ただし、本作では島津の南九州進出が従来より早く、さらに塩・酒・船・交易による経済圏が日向へ浸透しているため、その危機感が宗麟の決断を早める形に再構成しています。
また、今回登場したフランキ砲も、決して「撃てば城が吹き飛ぶ魔法の兵器」ではありません。砲そのものより、火薬・弾薬・輸送・運用まで含めた兵站が重要なのは、これまで崇清が積み上げてきたものと同じです。
さて、大友宗麟が手にした「天の雷」が、南九州で何を引き起こすのか。
次回もお付き合いいただければ幸いです。
次回は19時投稿です。




