第71話 土蔵の十薬(じゅうやく)と風の平樽
天正二年(一五七四年)十月。 南九州の山々が紅葉に染まる頃、飯隈要塞の土蔵の土間には、重苦しい沈黙が漂っていた。
北の日向国境では、塩と唐芋焼酎の流通格差によって伊東家中の有力国衆が動揺し、自壊の亀裂が日々深まりつつある。 だが、その背後に見え隠れする豊後の巨人・大友宗麟の影。数万の大軍が南下してくれば、戦場は日向の深奥――耳川や高城の荒野となるのは明白だった。
「……若君。僕ぁね、もう大麦の粉で肺がカビだらけですよ」 土間の板敷きで、弥三郎が算盤を膝に抱え、山積みの麦俵を睨みつけていた。 「初夏に作ったあのよもぎの麦酒、家久様や現場の連中には大好評でしたよ。でもね、前線へ運ぶために樽詰めして十日も経つと、白く濁って酸敗しちまうじゃないですか! 志布志の船に積んで油津へ運ぼうとした奴なんて、樽の中で妙な菌が湧いて、開けた瞬間にドブと酢を混ぜたような悪臭を撒き散らしましたよ! こんな足の早いもの、どうやって日向の奥地まで運ぶんですかァッ!!」
弥三郎のボヤキは、極めて真っ当な兵站の限界を突いていた。 春に仕込んだよもぎエールは、その場で冷やして飲むには最高の嗜好品だった。だが、煮沸してヨモギを入れたところで、冷蔵設備も無菌室もないこの時代、数週間も置けば雑菌に侵され、単なる濁った汚水へと変わり果ててしまう。
日向奥地への長征、あるいは船団による海上補給――数ヶ月にわたる過酷な環境で、兵士が生水にあたらずに水分とカロリーを補給できる「長持ちする麦酒」でなければ、大友との総力戦を支える兵站物資にはなり得ない。
「……現代のような無菌管理は不可能だ」 崇清は腕を組み、土蔵の薄暗がりの中で思考を巡らせていた。 雑菌を完全に排除できないなら、どうするか。
(……そうだ。確かベルギーのランビックとかいう伝統ビールは、無菌どころか、あえて空気中の野生酵母や乳酸菌を取り込ませて発酵させていたはずだ。液体を強い酸性に傾けることで、他の病原菌を寄せ付けなくする……)
前世のうろ覚えの知識。 だが、崇清はビール職人でも微生物学者でもない。 「酸っぱくなれば腐りにくい」という理屈はおぼろげに知っていても、どんな菌がどれくらいの期間でどう働くのか、具体的な温度やpHの管理など知る由もなかった。
さらに、ランビックには「数年寝かせて香りを飛ばした古いホップ」を使うという記憶があった。 ホップの苦味や香りが強すぎると乳酸菌の働きを邪魔するから、防腐の成分だけを残した古い草を使うのだとかいう、これまた曖昧な知識――。
「……香りを飛ばした、薬草の枯れ草……」 崇清の視線が、土蔵の深い軒下へと向いた。
そこには、飯隈の薬草係の古武士たちが夏場に刈り取り、軒下に吊るしたまま埃をかぶって忘れ去られていた草の束があった。
「……甚兵衛、あれは何だ」 「ぬ? あれか? あれは十薬じゃよ」 甚兵衛が白髪混じりの髭を掻きながら答えた。 「ドクダミの草よ。生の時は魚が腐ったような凄まじい生臭さを放つが、陰干しにして数年寝かせると、臭気も抜け、万病に効く煎じ薬になる。……三年前の夏に吊るしたきり、誰も飲まんで干からびておるがな」
崇清の目が動いた。 「十薬……ドクダミの枯草か」
生のドクダミ特有の強烈な悪臭は、乾燥と経年によって完全に消え失せ、残っているのは素朴な干し草の匂いだけだった。 (これだ。ドクダミなら昔から薬草として使われている。これを煮込んで麦汁に入れ、自然の風に晒せば、ホップの代わりに雑菌を抑えつつ、野生の乳酸菌を取り込めるんじゃないか……?)
素人の浅知恵だった。 乾燥させたドクダミに、醸造用のホップほどの抗菌持続力があるかどうかも検証していない。 だが、手詰まりの現場において、崇清はその「うろ覚えの仮説」に飛びつくしかなかった。
「弥三郎! 猪之助!」 崇清が振り返り、下知を飛ばした。 「土蔵の軒下の古十薬を集めろ。それから、浅くて広い平樽を中庭に並べるんだ!」
*
その夜。飯隈ラボの中庭には、異様な光景が広がっていた。
崇清は一握りの慎重さを残し、三つの浅い平樽を用意させていた。 麦芽を糖化させて煮沸した琥珀色の麦汁を、 【甲】十薬を入れない麦汁 【乙】十薬を少量入れた麦汁 【丙】十薬を大量に煮出した麦汁 の三つに分け、深さ数寸の平樽に薄く広げたのだ。
「若君、これ……なんでこんな平べったい樽に広げて、蓋も閉めねえんですかい?」 猪之助が首を傾げる。 「埃や夜露が入っちまいやすぜ?」
「冷やすんだ。そして、夜風を吸わせる」 崇清は中庭に立ち、高隈山系から吹き下ろす冷たい秋の夜風を吸い込んだ。
「麦汁を一晩で急冷させると同時に、この飯隈の山林を吹き抜ける風に乗った『野生の酵母』を麦汁に取り込ませる。何が入るかは分からん。だが、自然の菌の力で、液体そのものを強くするんだ」
何が飛び込んでくるか分からない、文字通りの神頼みだった。 冷気の中、平樽の湯気がゆっくりと消え、秋の夜風が水面に微かなさざ波を立てていく。
翌朝、夜露と風を吸い込んだ麦汁は、それぞれクスノキの小樽へと移され、土蔵の暗がりへと運び込まれた。 「ここから一月置く。……どう化けるか見てみるぞ」
*
十一月下旬。飯隈要塞の土蔵。 木枯らしが吹き荒れる中、崇清、家久、甚兵衛、そして胃を押さえた弥三郎が、土間に並んだ三つの小樽を取り囲んでいた。
「……若君、本当に開けるんですか?」 弥三郎が恐る恐る後退る。 「野ざらしにした麦汁をひと月放置したんですよ? 中でウジが湧いて、緑色のカビだらけになってるに決まってますよ……!」
崇清は小刀を取り、まず【甲(十薬なし)】の樽の木栓を抜いた。
「…………うげっ」 崇清は思わず顔を背けた。 立ち上ったのは、鼻の奥を突き刺すような饐えた腐敗臭。表面には白いカビが膜を張り、液体はドロリと濁り腐っていた。失敗である。
「ほら見ろ! 腐ってるじゃないですか!」 弥三郎が絶叫する。
崇清は眉根を寄せ、次に【乙(十薬少量)】と【丙(十薬大量)】の樽の栓を抜いた。
トクトクトク……。
注ぎ口から素焼きの椀へと落ちたのは――濁りのある、暗い琥珀色の液体だった。 悪臭はない。だが、漂ってきたのは、爽快なビールの香りなどでは断じてなかった。 ツンと鼻腔を刺す、未熟な林檎と酢が混ざり合ったような、強烈に尖った「酸っぱい匂い」だった。
「……む?」 家久が怪訝そうに眉をひそめた。 「腐っては……おらぬようじゃな。だが、ひどく酸っぱいぞ。酢でも造ったのか、又八」
崇清は椀を見つめ、指先を浸して舐めた。
(……すっぱッ! でも、腐敗臭はない。乳酸発酵は起きてる……のか?)
十薬を大量に入れた【丙】も、少量だった【乙】も、酸っぱさに大差はなかった。 つまり――。 (……十薬そのものが雑菌を殺したわけじゃないな。平樽で急冷したことと、たまたま乳酸菌が先に優占して酸性になったから、腐敗菌の繁殖が抑えられただけだ。ドクダミは……単に枯れ草の渋みと香りを添えただけにすぎない)
崇清の「十薬=万能防腐ホップ」という仮説は、あっけなく崩れ去っていた。 残ったのは、ただ偶然の風によって酸っぱくなった、得体の知れない麦の酒である。
「飲んでみてください、兄上」 崇清が椀を差し出すと、家久は躊躇うことなく口をつけ、一気に煽った。
ゴクリ――。
「…………ッッ!!」 瞬間、猛将の顔面が梅干しのようにギュッと中央へ引き絞られた。
「す……酸っぺぇぇぇッ!!」
家久が絶叫し、椀を取り落としかけた。 「酸っぱい! 舌の根元がひきつるほど酸っぱいぞ! 崇清、貴様、儂に酢を飲ませたな!?」
「ですが兄上、吐き出しはしなかったでしょう」 崇清が苦笑する。
「う……」 家久は荒い息を吐き、口の中をぺろりと舐めた。 「確かに……酸っぱいが、腐った味ではない。喉を通ったあと、口の中の脂っこさが消えて、胸のつかえがスッとするような……奇妙な味じゃな」
「若君、酸っぱいのと腐らないのは別物ですよ!」 弥三郎が横から猛烈に噛みついてきた。 「こんな酸っぱい麦酒、兵たちに出してみなさい! 『飯隈の若君は腐った酒を飲ませて俺たちを殺す気か』って暴動が起きますよ! それに、本当にこれが数ヶ月も日持ちするっていう証拠があるんですか!?」
「……ない」 崇清はあっさりと認めた。
「へ?」 弥三郎が拍子抜けしたように声を漏らす。
「証拠なんかないさ。pHを測る道具もないし、どんな菌が入っているかも分からない。樽ごとに味も違えば、次の仕込みで同じものができる保証もない。……今の段階では、ただの『酸っぱくなって腐らなかった麦汁』にすぎないよ」
崇清は椀の底に残る琥珀色の液体を見つめた。 前世の知識など、所詮はこの程度だ。 ベルギーの醸造所が何百年もかけて蔵に住み着かせた菌の生態系を、思いつきの平樽と十薬の枯れ草で一朝一夕に再現できるはずがなかった。
「……だが」
崇清は竈門の横にあった大鍋を引き寄せた。
中に入っているのは、今朝グラグラと沸騰させて冷ましておいた「煮沸水(湯冷まし)」である。
崇清は素焼きの椀にその煮沸水を汲み、そこへ樽から掬い上げた酸っぱい麦酒を、三対一の割合で注ぎ入れた。
仕上げに、高須の白塩をほんの指先ひとつまみ落とす。
トクトクと混ざり合う、淡い琥珀色の水。
崇清は自らそれを喉へ流し込んだ。
ゴクリ、ゴクリ……。
(……いける)
生水特有の泥臭さも、沸かし直した湯冷ましの気の抜けた不味さもない。
尖りすぎていた乳酸の酸味が水で柔らかくほどけ、十薬の素朴な渋みと麦のコクが、渇いた喉に染み渡るように滑らかに胃の腑へと落ちていく。
「弥三郎。これをそのまま酒として兵に配るんじゃない」
崇清は椀を下ろし、薄板の図面を叩いた。
「日向奥地への長征において、兵が赤痢や下痢で倒れる最大の原因は、川や泥の『生水』をそのまま飲むことだ。病を防ぐための第一の鉄則は、陣中で汲んだ水を必ず大鍋でグラグラと煮沸することにある」
「え? 煮沸するなら、最初からただの白湯を飲ませればいいじゃないですか」
弥三郎が首を傾げた。
「ただの湯冷ましが、戦場でどれほど役に立たんか知らんのか」
崇清は静かに首を横に振った。
「一度沸かして気の抜けたぬるい湯など、喉が焼けるように渇いた兵は嫌がって飲みたがらん。無理に生水を飲んで腹を壊すのが関の山だ。……それに、一度沸かした湯でも、竹筒に入れて丸一日行軍すれば、外の熱気と雑菌でたちまち饐えて腐っちまう」
弥三郎の目が丸くなった。
「だが――沸かした湯の中に、この強烈に酸っぱい麦汁を少し混ぜておけばどうなる?」
崇清は小樽を指差した。
「酸によって液体の質が保たれ、竹筒の中で水が腐るのを劇的に遅らせることができる。さらに、気の抜けた湯冷ましが、シャープな酸味と塩気を持った美味い水に化けるんだ。……これなら、兵は嫌がらずに煮沸水を水筒へ汲行し、炎天下の泥道を歩いても腹を下さずに喉を潤し続けられる」
崇清は自嘲気味に息を吐いた。
「この酸っぱい麦酒自体に、病を治すような魔法の力はない。……だが、『沸かした水を腐らせず、兵に美味しく飲ませて脱水と水あたりを防ぐ』ための助剤としては、これ以上のものはないはずだ」
「……なるほどな」
腕組みをして聞いていた島津又七郎家久が、太い顎髭を撫でながら低く唸った。
「長陣の最中、生水にあたって槍を握れなくなる兵は山ほど見てきた。『湯を沸かして飲め』といくら軍令を出しても、ぬるくて不味い湯など誰も持ち歩かんからな。……だが、この酸っぱい汁を垂らした水なら、喉が鳴る。水筒にこれが入っておれば、川の泥水に手を出そうとする阿呆はおらんようになるわ」
家久は椀を取り、水で割った琥珀色の薄い酸味麦汁を一気に飲み干した。
ぷはぁっ、と息を吐き出す。
「美味い! 酢のように尖っておったのが、水と塩が混ざると驚くほど爽やかになるぞ! 崇清、この酸っぱい樽を、前線の荷駄隊に積めるだけ積ませろ」
「兄上、まだ樽が三つしかありませんよ」
崇清が苦笑する。
「十薬の枯草に頼るのではなく、この土蔵の風と平樽で、どうすれば安定してこの酸味を作れるか……冬の間に樽を増やして仕込みを繰り返します。耳川へ向けて軍勢が動くその日までに、全軍の水筒を満たせる量を揃えてみせますよ」
おかげさまで、本作のブックマークが100件を突破いたしました。
評価やいいね、日頃から追ってくださっている読者の皆様に心より御礼申し上げます。
派手なチート無双ではなく、泥と算盤と兵站ばかりを積み上げる地味な物語ですが、これほど多くの方に腰を据えて読んでいただけていることが執筆の大きな力になっています。
まだまだ序盤・足固めの段階ですが、ここから始まる激動の九州戦国絵巻を泥臭く描き抜いてまいります。
今後とも楠千代丸(崇清)たちの歩みを見守っていただけますと幸いです!
次はも7時の投稿予定です。




