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第9話 脱税リスクと親会社スキーム

「……よし、乾いたぞ。弥三郎、次の木板を出せ」

深夜の北の丸、日当たりの悪い屋敷の奥部屋で行燈の芯がパチリと爆ぜた。

部屋の中には、濃い墨と削りたての木材の匂いが立ち込めている。

「……若君、僕ぁね、もう右腕の肘から先が完全に棒ですよ。見てくださいよ、墨ですっかり手が真っ黒だ……」

弥三郎が半泣きになりながら硯の上で墨をすり、俺の前に薄く削ったヒノキの板を差し出した。

擦り切れた小袖の袖口をまくり上げた俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の小さな手で筆を握り直した。

大人の指なら三本で支えられる筆が、五歳児の短い指では酷く重く、手首の筋がじんじんと痛む。だが、手を止める猶予は一秒たりともなかった。

板の表面に、文字の読めない五歳児を装いながら、数字と割符、そして簡略化した絵図で事業計画を刻み込んでいく。

* 原料原価: 椿油一升(約百文)+木灰(竈の廃棄物・原価ゼロ)。

* 生産数量: 油一升から切り餅大のサボン(泥石)十個を製造。一個あたりの原価はわずか十文。

* 収支概算: 堺や博多の商人に一個百文で卸せば、十倍の粗利。年間三千個を生産・出荷した場合、売上三百貫文から原材料費三十貫文を差し引き、銭二百七十貫文(米二百七十石相当)の純益が島津の金蔵へ転がり込む。

* 衛生物資としての副次効果: 合戦後の刀傷・擦り傷の洗浄に用いれば、化膿と破傷風を防ぎ、兵の生存率を劇的に引き上げる。

「……若君、本当にこの木板を殿に見せるのですか?」

部屋の隅で、上等な蒲生和紙を手際よく四角く切り揃えていた岩崎が、青ざめた顔で顔を上げた。

その横では、まつとちよが試作品の石鹸四個を丁寧に和紙で包み、細い麻紐で結わえている。

「島津本家の御用商人が、昨日の甚兵衛様のやらかしを役人に注進していれば……殿の私室に入った瞬間、捕縛されて打ち首になってもおかしくありませぬぞ」

「だからこそ、先手を打って事実関係を上書きするんだよ、岩崎」

俺は書き終えた木板の束を重ね、ふぅと息を吹きかけて墨を乾かした。

「御用商人が『蒲生の残党が怪しい霊薬を売っている』と役人に報告する前に、こちらから親父殿の懐へ飛び込む。『あれは霊薬などではなく、椿油と木灰で作る科学的なサボンであり、島津の家を潤す専売事業の試供品です。老臣が先走って市場調査をしてしまいました』と先に頭を下げてしまえば、脱税も謀反の疑いも一撃で帳消しにできる」

「……その難しい理屈は分かりませんがね」

弥三郎が濡れ雑巾で指を拭きながら、死んだ魚のような目で俺を見つめた。

「要するに、怒られる前に自分から『儲け話』を持ってって、親父殿を丸め込むってことですね。……五歳の息子のやることじゃないですよ。僕ぁね、もう肝が冷えすぎて今夜だけで寿命が五年縮まりましたよ」

「弥三郎、文句を言うな。お前のすった墨のおかげで、完璧な板書が仕上がった。……甚兵衛、運ぶのを手伝え」

「おお……! 若君、この老骨、いざとなれば殿の御前で腹を召して若君をお守りいたしますぞ!」

浅黒い顔を引き締めて胸を叩く甚兵衛に、弥三郎が「腹を切る前に足元の木屑を片付けろ!」とツッコミを入れる。

東の空が白み始め、夜明けを告げる鳥の声が静かに響き渡った。

――それから半刻後。

本丸の渡り廊下は、底冷えのする朝の冷気に包まれていた。

母・楠御前が涙ぐみながら見送る中、俺は甚兵衛と弥三郎を廊下の控えに残し、桐の小箱と木板の束を抱えて単身、重い板戸の前へ進み出た。

心臓が、肋骨の裏側でトクトクと小さく早鐘を打っている。

前世で何度も経験した経営陣へのプレゼンとは比べ物にならない。相手は一言の不興で一族の首を刎ねられる、戦国屈指の猛将・島津貴久なのだ。

「……入れ」

低く地響きのような声が奥から響いた。

案内された薄暗い私室の上座には、歴戦の頑丈な体躯を誇る島津家第十五代当主・島津貴久がどっかりと胡坐をかいていた。

深く刻まれた眉間の皺の奥から、射抜くような鋭い眼光が幼い俺の身体を突き刺す。

「……又八か。奥の童が、朝っぱらから父に何の用じゃ」

部屋の空気を圧迫する威圧感。

俺は敷居の手前で深々と両手を畳につき、額を床に擦り付けた。

「父上におかれましてはご機嫌麗しく恐れ入ります。本日は、島津の御家を潤し、南蛮船より莫大な富を吸い上げるための『新たなる商い』の種をお持ちいたしました」

澱みのない五歳児の口上に、貴久の眉がピクリと動いた。

「……商いの種じゃと? 戯れ言を申すな。童が銭の話など」

「戯れ言か否か、まずはこの湯にてお手を洗ってみてくださいませ」

俺は懐から、上等な蒲生和紙で包んだ試作品の石鹸を取り出し、控えていた側近の小姓に手渡した。

不審顔の貴久の前に、湯気の立つ盥が運ばれる。貴久は怪訝そうにその灰褐色の塊を手に取り、言われるがままに両手で擦り合わせた。

瞬間、部屋の中にふわりと油と木灰の独特の香りが立ち上り、貴久の手の中で白くきめ細やかな泡がモコモコと膨れ上がった。

「……ぬ!? これは……南蛮船が持ち込む幻の薬石、『サボン』ではないか!?」

島津貴久の唸り声が、薄暗い私室に低く響き渡った。

盥の湯で泡を洗い流した瞬間、馬の手綱や火縄銃の煤で黒ずんでいた当主の両手が、見違えるほど白く滑らかに洗い上がっている。

油と木灰の清々しい匂いを嗅ぎながら、貴久は濡れた自分の掌をまじまじと見つめ、やがて眼光を鋭く尖らせて俺を見下ろした。

「又八。……これをお前が作ったと申すのか」

敷居の手前で額を床に擦り付けていた俺は、ゆっくりと上体を起こした。

これ以上頭を下げ続けていては、ただの「怯える妾腹の小倅」で終わる。

ここからは、一人の事業提案者として、対等のパートナーたる姿勢を見せねばならない。

俺は背筋を真っ直ぐに伸ばし、五歳児の澄んだ瞳の奥に、前世の現場叩き上げの光を宿して貴久の視線を受け止めた。

「はい、父上。原料はすべて領内で手に入ります。蒲生の山林に自生するヤブツバキの油と、かまどの木灰より煮出した濃い灰汁のみにて、屋敷の裏庭で試作いたしました」

「……何じゃと? 南蛮渡来の至宝が、そのような粗末な泥水から作れるはずが――」

「作れます。理屈は極めて単純でございます」

俺は懐から、弥三郎が徹夜ですった濃墨で書き上げた木板の事業計画書を差し出し、小姓を通じて貴久の膝元へ届けさせた。

「父上、こちらの収支概算の割符をご覧くだされ」

貴久が不審げに木板を取り上げる。そこに刻まれているのは、抽象的な絵図ではなく、冷徹なまでの原価・生産力・販路の数字だ。

「椿油一升(銭百文)と木灰から、この泥石が十個作れます。一個あたりの原価はわずか十文。これを島津本家の直轄専売とし、堺や博多の商人に一個百文で卸せば、十倍の粗利が出ます。年に三千個を生産・出荷すれば、売上三百貫文から原価三十貫文を引いた銭二百七十貫文――米二百七十石に相当する純益が、毎年島津の金蔵へ転がり込む計算にございます」

貴久の眉がピクリと跳ね上がった。

島津本家は今、大隅・日向の戦乱で莫大な軍費を消耗している。毎年確実に二百七十石分の外貨がノーリスクで入るという話に、戦国大名が食いつかないはずがなかった。

さらに俺は、木板の端に刻んだ十文字の印を指差した。

「利権だけではございませぬ。合戦において、刀傷や擦り傷をこの泥石で洗えば、傷口が膿んで命を落とす兵の手勢を半減させることが叶いましょう。銭を稼ぎ、兵を救う。これぞ島津の御家を根底から支える戦略物資にございます」

立て板に水のように数字と利害を叩きつける五歳の童。

貴久は木板の割符を凝視し、やがてゴクリと喉を鳴らした。

「……恐ろしい童じゃ。まこと、五歳の頭から出た知恵とは思えん」

貴久は重い息を吐き、どっかりと上座に腰を落とすと、手招きをして俺を膝元へと呼び寄せた。

俺は立ち上がり、静かな足取りで上座へと歩み出る。

太い腕で抱き上げられ、貴久の膝の上に乗せられた。

五十を前にした大名の分厚い掌が、俺の小さな両手を包み込む。

「……この小さな手で、あの泥をこねたのか。儂の手の平の半分もなかろうに」

その瞳には、五十手前にして得た末っ子の異常な才気に対する、父親としての驚きと、どこか面白がるような情愛が確かに宿っていた。

(――よし、掴んだ。ここで一気に事実の上書きを完了させる)

俺は子供らしい無邪気な顔を作り、懐から手ぬぐいに包んだ金十両を取り出して畳の上に置いた。

「……父上。実は昨日、屋敷の老臣が先走って城下の御用商人に試作品を持ち込み、市場の味見として金十両で売却してしまいました。老骨の無作法ゆえ、その売上金をすべて島津本家へ上納に参った次第にございます」

貴久の目が細められた。

城下の御用商人から本丸へ注進が届く寸前のタイミングで、自ら金貨を差し出し、「脱税」ではなく「専売事業のテスト販売と上納」へと事実関係をすり替えたのだ。

貴久の口元に、フッと薄い笑みが浮かんだ。

この百戦錬磨の梟雄は、五歳の小倅が老臣のフライング営業を庇い、島津の目をかいくぐって先手を打ってきたことまで、瞬時に見抜いたのだ。

「……くっ、くくく。相変わらず、奥の老いぼれどもは粗忽よの。だが、先手を打って儂の前に現れたその胆力、ただの童ではないな」

貴久は金子を一瞥すると、大きな手で俺の頭をポンと撫でた。

「見事じゃ、又八。この泥石、島津本家の専売事業として召し上げよう。製造の手配は本家の役人に差配させる。……して、そなたはこの知恵の対価として、何を望む?」

俺は膝の上で深く頭を下げた。

「滅相もございません。私は母上と奥向きで静かに暮らせれば十分。ただ、この製法の考案料として、売上のごくわずかな端前と、母上の屋敷への扶持米の加増を、合法なるお手当としてお認めいただきたく存じます」

「ふっ……欲のないことよ。よい、認めよう。そなたの母にも、美味い菓子と新しい着物を届けてやる」

貴久は満足げに頷いた。

しかし――その直後、俺の肩を抱く手の力がわずかに強まり、父の瞳の奥に戦国大名の冷徹な光が宿った。

「……だがな、又八。あまり家中を騒がせるなよ。仇敵・蒲生の血を引くお前が、なまじそれほどの眩しい知恵を見せれば、兄たちにとって目障りな火種となる。……儂がおるうちは庇ってやれるが、弁えて生きよ」

「……ははっ。肝に銘じます」

平伏し、背筋に冷たい汗を流しながら、俺は直談判の場を辞した。

渡り廊下へ戻ると、控えていた弥三郎が駆け寄ってきた。

「……若君。生きてます? 首、繋がってます?」

「繋がってるし、親会社公認の固定の考案料を勝ち取ったぞ」

俺が告げると、甚兵衛は「おお……! 蒲生八幡の御神木のご加護じゃ!」と涙を流して廊下の柱を抱きしめ、弥三郎は「助かった……! 首が飛ばずに済んだ……!」とその場にへたり込んだ。

これで、山中で飢餓に瀕していた楠行者衆へ、島津公認の資金を堂々と仕送り続けるパイプラインは完全に完成した。

だが、父・貴久の懸念はすぐに現実のものとなる。

日陰の屋敷の五歳児がもたらした巨額の利権。

本家の嫡男・義久と、その弟たち義弘、歳久の冷たい視線が、確実にこの屋敷へと向けられ始めていたのである。

この後12時にまた投稿する予定です。

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