第8話 暴走ジジイのフライング営業
本日5話目です。最新話から来た方は第4話から第7話もご覧ください。
日当たりの悪い北の丸の屋敷に、初夏の生ぬるい風が淀んでいた。
縁側で冷水に浸した手ぬぐいを絞りながら、弥三郎が天を仰いで深々とため息をつく。
「……あの猪ジジイ、本当に一人で城下へ行っちまいましたよ。若君、追いかけなくてよかったんですか?」
「止めて止まるようなタマじゃないだろ。それに、試作品を四個持たせただけだ。せいぜい馴染みの薬種屋にでも持ち込んで、数百文の小銭に変えてくる程度だろ」
俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足で踏み台に上がり、手元の木板に炭で数字を書き留めていた。
現在、屋敷の裏庭で乾燥させている石鹸の第一陣は、全部で三百八十個。
あと二日も陰干しすれば完全に硬化し、出荷可能な状態になる。
(次の課題は、城下町での実証販売と、島津本家への根回しだな)
前世のコンサルタント時代、新規事業の立ち上げで最も神経をすり減らしたのは「法規制のクリア」と「既存権益者への根回し」だった。
この戦国時代において、最大の権益者とはすなわち島津本家――父・島津貴久である。
南蛮渡来の至宝を勝手に流通させれば、密造・脱税の疑いで即座に手入れが入る。だからこそ、島津専売事業として合法的に組み込ませ、考案料を抜く契約を結ぶのが絶対条件だった。
「……若君、弥三郎さん。お茶が入りましたよ」
二十歳のちよが、粗末な素焼きの湯呑みを盆に乗せて運んできた。
その横では、まつが濡れた和紙の束を丁寧に板へ張り付け、天日干しの作業に精を出している。母・楠御前(二十歳)も、部屋の奥で穏やかな顔で針を運んでいた。
日陰の屋敷に流れる、束の間の平和な時間。
だが――その静寂は、裏木戸を蹴破らんばかりの凄まじい勢いで叩き壊された。
ガラガラバッシャーンッ!!
「戻ったぞォッ!! 弥三郎! 若君! 楠御前様ァァッ!!」
泥だらけの草鞋のまま土足で庭先へ飛び込んできたのは、甚兵衛だった。
五十を過ぎた老武士とは思えぬ身軽さで縁側へ飛び乗ると、肩で荒い息を吐きながら、浅黒い顔を真っ赤に紅潮させて胸を張った。
「……爺様! 縁側に土足で上がるなっつってんでしょうが! まつさんが今朝拭き掃除したばかりですよ!」
弥三郎が手ぬぐいを投げ捨てて怒鳴りつける。
しかし、甚兵衛は孫の小言など微塵も耳に入っていない様子で、腰の麻袋を解き、じゃらりと重い音を立てて縁側の上に何かをぶちまけた。
畳の上に転がり出たのは――鈍い黄金色の輝きを放つ、金子の山だった。
「……は?」
弥三郎の動きがピタリと止まる。
まつが手を止め、ちよが湯呑みを取り落としそうになり、部屋の奥から母が驚いて顔を上げた。
「が、金……!? え、金子?……!?」
弥三郎の目が点になり、震える指先でその黄金を数え始めた。
「一、二、三……じゅ、十両相当……ッ!? 爺様、これ、金十両あるぞ!? なんで泥石四個持って出てって、金十両になって帰ってくるんだよォッ!!」
「ガハハ! 見たか弥三郎! これぞ蒲生八幡の御神木の霊験じゃ!」
甚兵衛は自慢げに仁王立ちになり、太い腕で胸板をドンドンと叩いた。
「城下の豪商にな、若君の泥石を見せて『これは蒲生八幡の御神木より湧き出でし、百病を癒やす秘伝の霊薬じゃ!』と吹聴してやったのよ! そしたら番頭の目が血走りおってな、即座に金十両を積んで『あるだけ全部譲ってくれ』と泣きついてきおったわい! ガハハハハ!」
勝ち誇った顔で胸を張る老武士。
だが、その自慢話を聞いた瞬間、弥三郎の顔からサーッと血の気が引いていった。
隣にいた俺もまた、前世の胃潰瘍が再発したかのような激痛が胃袋を直撃するのを感じていた。
弥三郎が、引き攣った笑みを浮かべながら、掠れた声で問い詰める。
「……ねえ、爺様。今、なんて言いました?」
「ん? だから、豪商に『蒲生秘伝の霊薬』と売り込んで――」
「その豪商って、どこの誰ですか……?」
「城下で一番デカい店を構えておる、島津本家の御用商人の総番頭じゃが?」
静寂が、裏庭を支配した。
一秒、二秒の沈黙の後――
弥三郎の喉から、屋敷の瓦を吹き飛ばさんばかりの絶叫が炸裂した。
「一番売っちゃいけない相手に、一番怪しい売り方してどうすんだァァーーッッ!!」
弥三郎の絶叫が生垣の雀を一斉に飛び立たせた。
膝を折って畳を拳で叩きつける弥三郎に対し、甚兵衛は目を白黒させて口を尖らせた。
「な、何を怒鳴るか弥三郎! 御用商人とはいえ商人じゃぞ! 銭を積む相手に高く売って何が悪い! これで若君も楠御前様も、腹いっぱい美味い白米が食えるではないか!」
「爺様、あんたねえ! 商人がただの善意で金十両も積むわけないでしょうが!」
弥三郎は畳の上の金貨を指差しながら、半泣きの形相で叫んだ。
「島津の御用商人ですよ!? 本家の蔵役人や目付に毎日出入りしてる大商人ですよ! 『蒲生八幡の御神木の霊薬』なんて怪しすぎる触れ込みで、南蛮船のサボンに酷似した幻の薬石が持ち込まれたら……あいつら、一刻と経たずに本家の重臣に密告しますよ! 『蒲生の残党が怪しげな秘薬を売り歩いて蓄財しております』ってな!!」
「ぐ、ぐぬぬ……! 密告など……!」
「するに決まってんだろォッ!!」
弥三郎は頭を抱えて縁側を転がり回り、行き場のない怒りを板敷きにぶつけた。
「……僕ぁね! もう訴えますよ! 出るとこ出ますよ!! なんで十五の俺が、昼は毛虫と戦い、夜は暴走ジジイのやらかした特大のケツ拭きをしなきゃならんのですか! この家は上から下まで全員アクセルしかついてねえんだよォッ!!」
「何をわけのわからんことを喚いておるか! 武士が主君を訴えてどうする! 謀反で打ち首になりたいのか!」
「わかってますよ! 訴える先がないからここで叫んでるんでしょうがァッ!!」
祖父と孫の凄まじい怒号の応酬に、部屋の奥から駆け寄ってきた侍女長の岩崎が、顔面を蒼白にして口元を押さえた。
「……若君。弥三郎の申す通りにございます。島津の御用商人がこれほどの品を抱え込めば、今宵のうちに本丸の蔵役人や目付頭へ報告が上がりますぞ。明日の朝には、島津の手勢がこの屋敷を取り囲み、『神仏を騙りて謀反の軍資金を密造した罪』で、姫様もろとも首が飛びます……!」
「……タイムリミットは、明日の日の出か」
俺は懐から手ぬぐいを取り出し、金子の山を静かに包み直した。
胃の奥がきりきりと痛み、心臓が小さな肋骨を早鐘のように叩いている。
前世のコンサルタント時代、現場の営業マンが顧客に嘘八百の誇大広告を吹っかけて大炎上し、深夜に役員総出で頭を下げに向かった悪夢が脳裏をよぎった。
甚兵衛のやらかしは二重の致命傷だ。
一つは「脱税と密造による謀反の疑い」。
そしてもう一つは、「蒲生八幡の御神木の霊薬」という宗教的権威を騙った誇大広告と詐欺のリスクである。
もし島津本家が「霊薬など嘘ではないか」と追及してきた場合、宗教的な不敬と偽計の罪まで上乗せされ、言い逃れの余地が完全に消滅する。
「甚兵衛、弥三郎、岩崎。パニックを起こすな。……炎上案件の鎮火は、スピードが命だ」
俺は踏み台から飛び降り、幼児の短い足で力強く板敷きを踏みしめた。
「嘘をついて売った以上、言い訳は通用しない。だが、相手が『霊薬の正体』を本家に密告するより先に――こちらから本家のトップ、父・島津貴久の懐へ直接飛び込む」
「なっ……直談判ですか!?」
弥三郎が目を丸くして息を呑んだ。
「御用商人が役人に『怪しい薬石が出回っている』と注進する前に、俺が親父殿の前に試作品と収支計画書を叩きつけるんだ。『あれは霊薬などという怪しげなものではなく、椿油と木灰で作る科学的な石鹸であり、島津の家を潤す専売事業の試供品です。老臣が先走って市場調査をしてしまいました』と、こちらから事実関係を上書きしてしまえば、脱税も謀反の疑いも一撃で消し飛ぶ」
「……じ、事実の上書き……!?」
弥三郎が口をあんぐりと開け、甚兵衛が太い眉をひそめた。
「その“あっぱー”とは何じゃ? 槍の突き技か?」
「技の名前じゃない、防衛策だ。……猶予は今夜一晩しかないぞ。弥三郎、墨をすれ! 親父殿の目の前で叩きつける事業計画書の清書を手伝ってもらう!」
「……はいはい! やりますよ! やればいいんでしょ! 徹夜で墨すりゃあいいんだろ墨すりゃあァッ!!」
弥三郎は泣きべそをかきながら硯に向かって猛然と墨をすり始め、まつとちよは総出で上等の蒲生和紙を切り揃えにかかった。
明朝、島津本家の最高権力者・島津貴久を相手取った、屋敷の命運を懸けた直談判の幕が上がろうとしていた。
明日は7時に投稿予定です。




