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第7話 灰汁と油の奇跡

今日4話目の投稿です。最新話から来た方は第4話から第6話までもご覧ください。

「……米俵二俵分のツバキの実から、搾れる油はざっと四斗(約七十二リットル)」


翌朝、裏庭に据え付けられた真新しい木製万力(圧搾機)の前で、俺――五歳の楠千代丸は手元の木板を指で叩いた。 その数字を聞いた瞬間、弥三郎の動きがピタリと止まり、折っていた指をわなわなと震わせた。


「よ、四斗……ッ!? 四十升ってことですか!? 髪油用の小瓶に小分けしたら、一体何百本分になるんですかそれ!?」 「四百本分だ。だが言ったはずだぞ、弥三郎。油を小瓶でちまちま売る気はない」


俺は幼児の短い足で踏み台に上がり、竈の横に並べられた大樽と平たい素焼きの木型を指差した。


「この椿油四斗すべてを、木灰から煮出した強アルカリの灰汁あくと反応させて鹸化けんかさせる。……出来上がる『サボン(石鹸)』は、切り餅大の塊にしておよそ四百個分だ」 「よ、四百個……ッ!?」


弥三郎が息を呑み、隣で腕組みしていた甚兵衛が太い眉を跳ね上げて身を乗り出してきた。


「若君! 南蛮渡来のサボンといえば、博多や堺の豪商が銀十匁(銭千文)を積んで買い求める幻の宝物! それが四百個となれば……ぜ、銭四百貫文……ッ! 米にして四百石分に化けるということですかな!?」


老武士の血走った眼差しから、熱い鼻息が漏れる。 だが俺は、冷徹に首を横に振った。


「皮算用が過ぎるぞ、甚兵衛。南蛮船から買う正規品の相場でそのまま売れるわけがない。不純物もあれば、ブランド力もない試作品だ。卸値は一個あたり百文から百五十文が関の山だろう。……それでも粗利は九割以上、銭にして四十貫文から六十貫文の純益が手元に残る」 「……十分すぎるわァッ!!」


弥三郎が頭を抱えて叫んだ。


「日陰の屋敷の裏庭で、五歳児がゴミ同然の灰と拾ってきた木の実から、大名家老の年収レベルの銭を生み出そうとしてるんですよ!? 僕ぁね、もう怖ろしいですよ! 夢なら早く覚めてくれ!」 「騒ぐな弥三郎。まずは試作品を作り、効果を実証するのが先決だ。まつ、ちよ、竈に火を入れろ!」 「「はい、若君!」」


まつとちよが息の合った手つきで薪をくべ、大鍋に張られた澄んだ灰汁を温め始めた。 搾りたての黄金色の椿油が、湯気を立てる灰汁の中へ少しずつ注ぎ込まれていく。


「まつ、しゃもじで一定の速さでかき混ぜ続けろ。手を休めるなよ。油と灰汁が手を取り合って固まるまで、根気よく混ぜるんだ」 「はい! 蒲生で和紙の繊維を練り合わせるのと同じでございますね。任せてくださいませ!」


まつの力強い腕さばきで、鍋の中の液体が次第にとろみを帯び、白く濁ったクリーム状へと変化していく。 立ち上る湯気には、油の香ばしさと木灰の独特の匂いが混ざり合っていた。


型に流し込み、冷え固まるのを待つこと数刻。 夕暮れの薄暗がりの中、素焼きの型から取り出されたのは――灰褐色に固まった、手のひら大の無骨な塊だった。


「……まあ、楠千代。これは……?」


奥向きの障子を開け、恐る恐る近づいてきた母・楠御前(二十歳)が、大きな瞳を丸くしてその塊を見つめた。 二十歳になった今も少女のように華奢な母の指先は、冷水と針仕事で荒れ、痛々しく赤らんでいる。


「母上、手を貸してください」


俺は母の冷え切った手を井戸水で濡らし、灰褐色の塊をその掌で優しく擦り合わせた。 冷え切った井戸水をかけ、塊を擦り合わせた瞬間、きめ細やかな白い泡がモコモコと両手を包み込んだ。 立ち上る湯気とともに、椿油の甘やかな香りと木灰の清々しい匂いが、薄暗い部屋の空気をふわりと変えていく。


「母上、水で洗い流してみてください」


言われるがままに母が柄杓の水で泡を流すと、長年の冷水仕事と寒風でアカギレだらけだった手の甲が、見違えるほど白くしっとりと洗い上がった。 煤や油の汚れが嘘のように消え去り、突っ張っていた皮膚が柔らかく息を吹き返している。


「す、すごいですわ……! 水で洗うといつも手が痛んで裂けていたのに、まるで薄い油の膜で守られているように滑らか……!」


二十歳になっても少女のように純真な母が、涙ぐみながら両手を頬に当てて微笑んだ。 その横で、侍女長の岩崎(志保)とまつ、ちよの三人が、息を呑んでその掌を凝視している。


「……まことに、手荒れが引いて肌が透き通っておりますな」


岩崎が低く呟き、膝を進めて俺の前に平伏した。


「若君。この泥石はただ肌を滑らかにするだけではございませぬ。刀傷や擦り傷、あるいは産褥の穢れを清める際にも、凄まじい効き目を現しましょう」 「その通りだ、岩崎。傷口が膿んで命を落とすのは、目に見えぬ小さな穢れが原因だからな。この泡で洗い流せば、兵の生存率は跳ね上がる」


俺が平然と答えると、庭先で腕組みをしていた甚兵衛が、節くれだった拳を握りしめて身を乗り出してきた。


「ガハハ! 聞いたか弥三郎! これぞ蒲生八幡の御神木のご霊験じゃ! 傷も治せば肌も白くなる幻の薬石! これを城下の市で売り捌けば、金十両どころか百両二百両の大儲けじゃぞ!」


浅黒い顔を紅潮させて気炎を吐く老臣。 だがその横で、濡れ縁に腰掛けていた弥三郎が、冷ややかな視線を祖父に向け、手にした手ぬぐいを膝に叩きつけた。


「……爺様、浮かれる前に少しは頭を使いなさいよ。こんな南蛮船ですら滅多に持ってこない宝物を、落ちぶれた蒲生の残党が城下で売り歩いてみなさい。島津の目付に『どこで盗んできた』『謀反の資金源か』って一発で捕まって、全員揃って打ち首ですよ」


弥三郎は呆れたように息を吐き、視線を俺へと移した。 その眼差しには、いつものボヤキだけでなく、逃げ場のない現実を直視する切実な色が宿っていた。


「……で、若君。粗利が九割だか何だか知りませんがね。この泥石を売って手に入れた銭、一体何に使う気なんです? 日々の飯を食うだけなら、和紙の内職と母上の扶持米のやり繰りで何とかなります。銭数十貫文なんて大金を動かす以上、何かデカい使い道があるんでしょう? ……俺たちの命と蒲生の命運を預けるんです。現場を回す俺にも、その行き先を教えてもらえませんかね」


痛いところを突いてくる。 こいつは指示された作業をこなすだけでなく、「この過酷な労働の先にどんな生存ルートがあるのか」を確かめようとしているのだ。


俺は手元の薄い木板を指先で叩き、弥三郎の目をまっすぐに見据えた。


「霧島の楠行者衆への固定給の増額、そして……島津の目をかいくぐって集める、鉄と刀と武具の極秘備蓄だ」 「鉄と武具……!?」


弥三郎が息を呑み、甚兵衛が「その“こていきゅう”とは何じゃ? 槍の構えか?」と素っ頓狂な声を上げた。


「島津本家がこの日陰の屋敷を生かしているのは、『無害で手がかからないから』に過ぎない。……だが、いつ本家の都合で放逐され、あるいは厄介払いで危険な戦場へ駆り出されるか分からんのだ。その時に自前の兵糧と武器、そして山林の抜け道を押さえる情報網がなければ、俺たちはただの捨て駒としてすり潰される」


五歳児の口から放たれる、冷徹なまでのリスク予測。 弥三郎はごくりと喉を鳴らし、やがて腹を括ったように深いため息をついた。


「……へっ。要するに、いざという時の『逃げ道と身代金』を今のうちに金で買っておくってことですね。分かりましたよ。泥石作りでも何でも付き合います」 「よし。そうと決まれば、まずは最初の『完成品四百個』を急ぎ仕上げるぞ」


俺が立ち上がると、甚兵衛が獰猛な笑みを浮かべて立ち上がった。


「若君、お任せあれ! この甚兵衛、若君の足を引っ張らぬよう、一足先に城下の商人と話をつけて参りますぞ!」 「……あ、おい爺様! 待て!」


弥三郎の制止も聞かず、老武士はずっしりと重い木箱を抱え、気迫に満ちた足取りで屋敷の裏木戸を飛び出していってしまった。 この甚兵衛の超人的な行動力による大暴走が、屋敷を揺るがす特大の危機を引き起こすとは、この時の俺たちはまだ知る由もなかったのである――。

本日もう一つ21時に投稿します。よろしくお願いします。

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