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第10話:正室トリオの冷たい視線

「……米、三十石。それに銭にして年二十貫文……ッ!?」

初夏の眩しい陽射しが差し込む北の丸の奥部屋で、弥三郎が算盤代わりに並べた黒豆の粒を指で弾きながら、上ずった声を上げた。

その目の前には、島津本家の蔵奉行から正式に届けられた、朱印の押された「扶持目録」が鎮座している。

「若君、これ……親父殿に『端前でいい』って言ったやつですよね? どこが端前ですか! 奥向きの飯どころか、俺たちと山伏ども全員が毎日腹いっぱい白米食って、新品の草鞋を履き替えてもお釣りが来ますよ!」

弥三郎は頭を抱え、半笑いで畳に手をついた。

「島津本家が吸い上げるサボンの年商予定は、銭三百貫(米三百石相当)だ。そのうちの約一割を、製法の考案料と、屋敷の原料仕入れ差配の手数料として合法的に抜いた。……親会社にとっちゃ『利益の九割を吸い上げられる優良案件』であり、こちらにとっては『奥向きの食費と行者衆三十名の固定給』を満額カバーできる完璧な損益分岐点だ」

俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い指で薄板の帳簿をめくりながら平然と答えた。

「これ以上多く取れば本家の蔵役人や正室方に『妾腹が生意気に蓄財している』と目をつけられる。かといって少なすぎれば行者衆の兵糧が賄えない。『本家には痛くない端数に見えて、現場の実費は過不足なく回収できる極小の数字』……それがこの年三十石と銭二十貫だ」

「……出たよ、五歳児の恐ろしい精密計算」

弥三郎は呆れたように息を吐きつつも、その口元には安堵の笑みを浮かべていた。

台所からは、まつとちよが新調された素焼きの羽釜で白米を炊く、香ばしい甘い湯気が漂ってくる。部屋の奥では、母・楠御前(二十歳)が仕立て直しの古着ではなく、貴久から下賜された柔らかな絹織物の小袖を身に纏い、穏やかに微笑んでいた。

日当たりの悪かった北の丸の屋敷に、初めて訪れた確かな豊かさ。

だが――この急速な変化を、本丸の権力中枢がただ生温かく見守っているはずがなかった。

――数日後の昼下がり。

本丸から北の丸へと続く、風通しの良い渡り廊下を歩いていた俺の前に、三つの長い影が落ちた。

「……おや。噂の『知恵者』がお出ましだな」

冷ややかな声とともに立ちふさがったのは、仕立ての良い絹の直垂ひたたれを纏った三人の若武者たちだった。

本家の嫡男・島津義久と、その弟たちである義弘、歳久の三兄弟である。

先頭に立つのは、長男・島津義久(三十歳)。

すでに家中での発言権を握りつつある若き総大将は、感情を一切読ませない冷徹な眼差しで、静かに俺を見下ろしている。

その斜め後ろには、筋骨逞しい体躯を誇る次男・島津義弘(二十八歳)。

血気盛んな前線の荒武者は、刀の柄に無造作に手をかけ、眉間に深い不快感の皺を刻んでいた。

そして最後尾で、扇子をパチリと弄びながら氷のように鋭い視線を向けているのが、三男・島津歳久(二十六歳)だ。

(……来たな。本家兄上たちの監査面談だ)

胃の奥がキュッと縮み、心臓が早鐘を打つ。

俺はすぐに立ち止まり、幼児らしい仕草で膝を折り、廊下の板敷きに両手をついて平伏した。

「又八にございます。兄上様方におかれましては、ご機嫌麗しく……」

「よい、おもてを上げよ」

義久の静かな声が降ってきた。

顔を上げると、義久の漆黒の双眸が、俺の小さな身体の隅々まで値踏みするように注がれていた。

「又八。父上から聞いたぞ。南蛮の泥石サボンを領内の椿油で作り、本家の専売に仕立て上げたそうだな」

「は……父上の御威光と、蒲生の山林の恵みのおかげにございます」

無難な幼児の返答。

だが、その横から義弘が「ふん」と重い鼻息を吐き捨て、床を踏み鳴らした。

「蒲生、か。……滅びた逆賊の血を引く小倅が、奥向きで女子供と泥をこねて親父殿に取り入るとはな。武辺の道も知らぬ者が、小賢しい銭儲けで家中を騒がせるのは見苦しいとは思わんのか」

武辺一筋な義弘の、あからさまな敵意と軽蔑。

しかし、真に油断ならないのは義弘の怒声ではなかった。

背後に控える三男・歳久が、細い目をさらに細め、扇子の先でトントンと自分の掌を叩きながら、底冷えのする笑みを浮かべて口を開いたのだ。

「義弘兄上、そう邪険になされますな。……又八の手柄は誠に見事。だが、な」

歳久が一歩、間合いを詰めて俺の目の前にしゃがみ込んだ。

その涼やかな顔立ちの奥に光る鋭い眼光が、俺の喉元に刃を突きつけるように迫る。

「……不思議なこともあるものよ。五歳の童が、なぜ南蛮船の相場を知り、本家への上納の筋目を違えず、専売の割符まで整えられたのか。又八、そなたの後ろでその入れ知恵をしている『蒲生の残党』は……一体何を企んでおる?」

扇子の先が、ツンと俺の小さな胸元を突いた。

幼い心臓が、肋骨の裏側で激しく跳ねる。

前世の記憶をたどれば、島津歳久は兄弟の中でも特に知謀に長けた人物として知られている。

「五歳の子供が思いついた」という話を鵜呑みにするはずがない。背後に「蒲生家再興を企む黒幕」が潜み、幼い五男を神輿に担いで島津の内部から利権を掠め取ろうとしているのではないかと疑っているのだ。

ここで「自分が考えました」と賢明さを誇れば、かえって「得体の知れない危険分子」として即座に排除対象になる。

かといって「甚兵衛たちが考えました」と言えば、城外の蒲生遺臣団に謀反の疑いがかけられ、一斉に首が飛ぶ。

正解のルートは一つしかない。

――「貪欲な大人の商人たちの掌の上で踊らされた、無邪気で小賢しい子供」を演じきることだ。

俺はわざと唇を小さく尖らせ、五歳児特有の舌足らずな息遣いを混ぜて、歳久の目を真っ直ぐに見上げた。

「……いれじえ、ではございません。城下の薬種屋の番頭さんが、教えてくれたのです」

「薬種屋の番頭が?」

歳久が眉をかすかに動かした。

俺は幼児らしい仕草で指を折りながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。

「母上のお手が、冷たい水で赤くなって痛そうでしたので……裏庭の椿の実を潰して油を塗り、竈の灰の水で洗ったら、とても綺麗になりました。それを、屋敷に出入りするお爺に持たせて薬種屋に見せたら、『これは南蛮のサボンと同じだ! 銭百文で売れる!』と大騒ぎになりまして……」

「……ほう」

「番頭さんは『儂に任せれば儲けさせてやる』と言いましたが、父上は島津の御屋形様です。城下の商人に騙し取られるくらいなら、父上に全部差し上げて、母上にお薬と甘いお菓子を買ってもらったほうが良いと……そう思いました」

俺は懐から、上等な蒲生和紙で包んだままの試作品の石鹸を取り出し、両手で歳久の前に差し出した。

「歳久兄上、これ……あげます。手をお水で洗うと、とてもいい匂いがして、垢が綺麗に落ちます。合戦で泥だらけになっても、痛くなくなります」

無邪気で、純粋で、母親思いの幼子の贈り物。

だがその裏には、「商人に中抜きされるのを嫌って父(貴久)に直接持ち込んだ」という、子供なりの打算が見え隠れする――そういう絶妙なキャラクターの輪郭を提示したのだ。

歳久は差し出された石鹸をじっと見つめ、やがてフッと口元を緩めて受け取った。

「……なるほどな。商人の欲の皮に目をつけられ、利用されかけたというわけか。……だが、それを横取りさせず、親父殿の懐へ直接持ち込んだのは賢い判断よ」

歳久がゆっくりと立ち上がり、扇子をパチンと閉じた。

その双眸から、張り詰めていた殺気がわずかに薄れる。

だが、その後ろで腕組みをしていた次男・義弘が、苛立たしげに鼻を鳴らした。

「ふん……。所詮は女子供の泥遊びよ。泥石をこねて小銭を稼いだところで、戦の役に立つわけでもあるまい。武士たる者が、商人の真似事などして恥ずかしくないのか」

義弘の屈強な身体から放たれる威圧感は凄まじい。

この男は前線で槍を振るう生粋の武者であり、武力と勝利こそが世界の全てだと信じている。銭勘定や衛生などという地味な後方支援の価値など、今の段階では理解できるはずもなかった。

その時――これまで一言も発さず、静かに俺たちを見下ろしていた長男・島津義久が、重い口を開いた。

「義弘、そこまでにせよ」

静かな、しかし絶対の重みを持つ声音だった。

義弘が口を噤み、歳久もまた居住まいを正す。

義久は一歩、俺の前に歩み寄り、冷徹な漆黒の瞳で俺の小さな姿を見据えた。

その佇まいは、すでに家中を束ねる若き総大将としての風格と、私情を挟まぬ統治者の冷気を纏っている。

「又八。そなたの差し出した泥石、本家の蔵役人が検分したところ、確かに南蛮渡来の品と遜色なき極上の出来であった。……父上が下された『扶持三十石と年二十貫』の考案料、異存はない」

「……あ、ありがとうございます、義久兄上」

俺が頭を下げると、義久は表情一つ変えずに続けた。

「だが、弁えておけ。そなたが生み出したその利権は、すでに島津本家のものだ。そなたと蒲生の者たちが、その端前を糧に大人しく奥向きで暮らす分には、本家としても咎め立てはせぬ。……だが、もしその銭を使って怪しげな蓄財を企み、あるいは城外の不穏分子と結託するような真似があれば……その時は、父上の温情があろうとも、儂が容赦なく叩き潰す」

氷のように冷たい宣告だった。

義久が見ているのは、兄弟の情でも、蒲生への怨恨でもない。

ただひたすらに「島津という組織の統制と安定」だけを見据えているのだ。

「……肝に銘じます」

俺が深く平伏すると、義久は身を翻し、音もなく廊下の先へと歩み去っていった。

義弘が忌々しそうに足音を響かせてそれに続き、歳久だけが去り際に一度だけ振り返り、手にした石鹸の匂いを嗅ぎながら意味深な笑みを残して消えた。

三人の影が完全に視界から消えた瞬間――

俺は床に手をついたまま、肺の中の空気をすべて吐き出すように、長いため息を漏らした。

(……胃が、痛すぎる……)

手足の先が、緊張のあまり冷え切っていた。

前世で経験したどんな修羅場よりも、圧倒的に命のやり取りに近かった。

「……若君! 大丈夫ですか!?」

廊下の物陰から、弥三郎が脱兎の如き勢いで駆け寄ってきた。

その顔は真っ青で、額からは滝のような脂汗が流れている。

「若君、生きてますか!? 俺、遠くから本家の若様方が三人がかりで若君を取り囲んでるのが見えて、もう完全に終わったと思いましたよ! 弥三郎の人生、ここで打ち首フィニッシュかと……!」

「……騒ぐな弥三郎。首は繋がったし、審査は一応パスした」

俺は幼児の短い足で立ち上がり、小袖の裾を整えた。

「パスしたって言っても、あの方たちの目、完全に獲物を狙う鷹でしたよ! 特に三男の歳久様! あの人、絶対に若君の腹の中を探ってましたよ!」

「探らせておけばいい。……怪しまれたが、同時に『本家に従順で、銭の稼げる便利な五男坊』という最低限のポジションは確保できた。屋敷に戻るぞ」

――北の丸の屋敷に戻ると、奥向きでは母・楠御前と岩崎、まつ、ちよが、息を詰めて俺たちの帰りを待っていた。

「楠千代……! 無事だったのですね……!」

母が駆け寄り、華奢な腕で俺の小さな身体を抱きしめた。その身体は小刻みに震えており、目には大粒の涙が浮かんでいる。

「大丈夫ですよ、母上。兄上たちにご挨拶をしてきただけです」

俺は母の背中をとんとんと叩いて宥めながら、部屋の隅に控えていた岩崎と、縁側に座り込んだ甚兵衛に向き直った。

「甚兵衛、岩崎。……本家から公認された『年三十石と銭二十貫』の配分を決定する。弥三郎、台帳を出せ」

「へいへい。……命拾いした直後にすぐ残業ですか。僕ぁね、もう涙も出ませんよ」

弥三郎はぶつぶつと悪態をつきながらも、手際よく薄板の台帳と筆を用意した。

「まず、米三十石のうち十五石は、この屋敷の食い扶持と侍女たちの正式な手当とする。まつ、ちよ、これからは毎日白米を食っていいぞ」

「「まあ……! 白米を……!」」

まつとちよが顔を見合わせ、信じられないといった様子で歓声を上げた。これまで屑米と野草で飢えを凌いできた彼女たちにとって、毎日白米が食えるというのは天国にも等しい待遇改善だ。

「そして残りの米十五石と銭二十貫は……すべて霧島の楠行者衆へ、正規の『原料仕入れ代金および山林警備の手当』として毎月分割で送り届ける」

「若君……!」

甚兵衛が浅黒い顔を歪ませ、目を潤ませた。

「島津公認の金で、山奥の同胞たちに毎月米と銭が届くのですな……! これで誰一人、飢えて野垂れ死ぬことはありませぬ……! 若君の御恩、行者衆一同、生涯忘れますまいぞ……!」

「感傷に浸るのは後だ、甚兵衛。……道純には、山林の警備だけでなく、大隅や日向の国境沿いの動きをより精密に探らせろ。兄上たちの警戒をかわしたとはいえ、本家の目が光っていることに変わりはないからな」

「ははっ! 抜かりなく申し伝えますぞ!」

甚兵衛が力強く頷く。

屋敷の食糧問題は解決し、裏のインテリジェンス・ネットワーク(楠行者衆)への兵糧パイプラインも完全に完成した。

日陰の屋敷の経済状況は、劇的な黒字化を達成したのだ。

だが――本家嫡流の審査を潜り抜けた俺の前に、もう一つの、極めて厄介な「身内の脅威」が立ちはだかろうとしていた。

同じ妾腹の生まれでありながら、武辺の道で這い上がろうと狂ったように木刀を振り回す、もう一人の異端児――

四男・島津又七郎(後の島津家久)の苛立ちに満ちた視線が、日陰の屋敷の五歳児へと向けられていたのである。

次は18時に更新します。

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