第11話 木刀とマネジメント
本日3話目です。ストックがあるので16話までは飛ばしていきます
日当たりの悪い北の丸の裏庭に、激しい風切り音と小気味よい打擲音が鳴り響いていた。
「せぇぇぇいッ! はっ! とぉッ!!」
初夏の生ぬるい風を切り裂き、汗だくになって木刀を猛然と振り回しているのは、一人の少年だった。
年齢は十一歳前後。粗末な麻の稽古着の袖をまくり上げ、泥だらけの素足で地面を力強く踏みしめている。
鋭く尖った顎の輪郭、獣じみた爛々とした双眸、そして体躯の芯に通った尋常ならざるバネ。
島津貴久の四男にして、同じく妾腹の生まれ――幼名を島津又七郎、後の島津家久である。
「……あーあ。またやってるよ、四男坊……。頼むから他所でやってくれませんかね。木刀の風圧で、干したばかりの和紙が飛んでっちゃうんだよ」
縁側の端で、仕上がった蒲生和紙の束を揃えていた弥三郎が、死んだ魚のような目で空を仰いでボヤいた。その額には、朝からの重労働でうっすらと汗が滲んでいる。
「弥三郎、文句を言うな。あちらも居場所がないんだよ」
俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足を縁側からぶら下げ、薄板の台帳に炭で数字を書き留めながら静かに答えた。
手首の関節が小さく軋む。五歳児の拙い肉体は、文字を書くだけでも余計な握力を消耗するのだ。
同じ妾腹でありながら、俺と又七郎の置かれた立場は似て非なるものだった。
俺は仇敵・蒲生の血を引く日陰者として奥向きに押し込められ、前世の知恵で「内職と利権の合法化(サボン専売)」によって経済的な安全圏を構築した。
一方の又七郎は、母の身分が低いために本家の三兄たちから一段低く見られ、その劣等感と焦燥感を「個人の圧倒的な武勇」でねじ伏せようと、狂ったように木刀を振り続けているのだ。
だが、汗を流して鍛錬に励む又七郎の瞳には、ここ数日、明らかに俺に対する「苛立ちと敵意」が渦巻いていた。
(……無理もない。自分が血反吐を吐いて木刀を振っている横で、五歳のガキが泥をこねて親父殿から年三十石と銭二十貫の公認手当をもぎ取ったんだからな)
武士としてのプライドだけで生きている又七郎から見れば、俺の行動は「小賢しい銭ゲバの裏工作」にしか見えないのだ。
「おい、又八ッ!!」
予想通り、木刀を激しく振り下ろした又七郎が、荒い息のまま木刀の切っ先をピタリと俺の鼻先に突きつけてきた。飛び散る汗の匂いと、少年特有の生々しい熱気が肌を刺す。
「はい、又七郎兄上。何でございましょう」
「何でございましょう、だぁ!? てめえ、すました面してんじゃねえぞ! 奥向きで女子供と泥をこね回して親父殿に取り入り、小銭を稼いで兄上たちに媚び売りやがって……! 武士の家に生まれながら、恥ずかしくねえのかッ!」
激しい罵声が裏庭に響き渡る。
台所で昼餉の米を研いでいたまつとちよが息を呑み、奥の障子の隙間から母・楠御前がおびえたように顔を覗かせた。
「……あのー、又七郎様」
弥三郎が手にした和紙を置き、首筋の湿疹をポリポリと掻きながら間に入ってきた。
「若君が稼いだその小銭のおかげで、本家の軍費も浮いてるんですから、そう邪険にしなさんな。それに、五歳の子供に本気で木刀突きつけて威張り散らすのも、武士としてどうかと思いますよ?」
「うるせえ! 蒲生の残党風情が口を挟むなッ!」
又七郎が一喝し、木刀の柄を握り直して俺を睨み据えた。
「又八! お前がどれだけ口先と泥細工で親父殿を騙そうが、ここは戦国の世だ! いざ戦になれば、敵の首を獲れる腕っぷしだけが全てなんだよ! ……文句があるなら、その木刀を取って俺と勝負しろ! 叩きのめして、武士のイロハを体に刻み込んでやる!」
十一歳の少年が、五歳の幼児に木刀での立ち会いを要求する。
傍から見ればただの理不尽な八つ当たりだ。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ又七郎様! 正気ですか!」
弥三郎が目を剥いて叫び、俺の前に立ちはだかろうとした。
「五歳児相手に木刀で勝負って、勝って当たり前、負けたら末代までの恥ですよ! うちの若君の腕なんて、あんたの木刀一発でポッキリ折れちまいますよ! 僕ぁね、もう止めますよ! 出るとこ出ますよ!!」
だが、俺は弥三郎の袴の裾をキュッと引っ張り、静かに押し留めた。
そして、幼児の短い足で立ち上がり、縁側から草鞋を履いて庭の土の上へと降り立った。
「……若君!?」
「又七郎兄上。……武将たる者、自ら木刀を振るって敵を斬り伏せることだけが『強さ』だと、本気でお思いですか?」
「……あぁ? 何を当たり前のこと言ってやがる」
又七郎が鼻で笑う。
俺は首を横に振り、庭の片隅に置かれていた細い竹竿を一本、指差した。
「個人の武勇だけで突っ込むのは、ただの猪武者です。……真の武将とは、『手持ちの人員と地形をどう配置し、どう連携させて相手の急所を完封するか』という統率の仕組みで勝つものにございます」
「……チッ、またわけのわからん屁理屈を……!」
「立ち会いをお受けいたしましょう。ただし、俺は木刀を持ちません。指一本、兄上には触れません。……俺が指図する弥三郎と、この庭の道具だけで、兄上の木刀を一歩も動かせずに完封してみせます」
「なっ……!?」
又七郎の顔が屈辱で真っ赤に沸騰した。
五歳の童が、十一歳の自分に対し「指一本触れずに手下だけで完封する」と言い放ったのだ。
「……言ったな、又八ッ! 泣いて謝っても容赦しねえぞッ!!」
木刀を正眼に構え、じりじりと間合いを詰めてくる又七郎。
日々鍛錬に明け暮れて引き締まった身体から放たれる気迫は本物だ。踏み込む足音一つにも、獲物の喉笛を噛み千切らんとする獣の鋭さが宿っている。
「……ひ、ひぃぃっ! 若君、本当にどうすんですか!? 俺、竹箒しか持ってないですよ! 竹箒で木刀受けたら一撃で砕け散りますよ!!」
弥三郎が目を剥き、濡れ縁に背中をぶつけながら絶叫した。
その横では、奥の部屋から飛び出してきた甚兵衛が「若君に何をするか四男坊ッ!」と割って入ろうとしたが、俺は短い左手をスッと横に出して老臣の突進を制した。
「甚兵衛、動くな。……弥三郎、逃げ腰になるな。相手の眼前に竹箒の先を突き出し、間合いを保ちながら後ろへ下がれ」
「さ、下がれって……! 追い詰められたら終わりじゃないですかァッ!」
「いいから下がれ。俺の指図通りに足を動かせ」
俺は幼児特有の小さな歩幅で庭の隅へ歩み寄り、腕組みをして冷徹に戦況を俯瞰した。
幼い身体の心臓はトクトクと早鐘を打っているが、前世の現場で幾多の炎上を鎮火してきた思考回路は、氷のように冴え渡っていた。
(個人の武芸で勝とうとするから、体格と筋力で劣る側が負けるんだ)
戦とは、個人の腕力勝負ではない。
「敵の視野を狭め、心理を誘導し、あらかじめ設計されたキルゾーンへ誘い込むこと」――それこそが組織戦の真髄だ。
「小細工ばかり弄しおって! 逃げ回るしか能がないのか、蒲生モヤシどもがァッ!!」
又七郎が苛立ちを爆発させ、弥三郎の突き出す竹箒を木刀で乱暴に薙ぎ払った。
バシィンと甲高い音が響き、竹の枝先が宙に舞う。
視界を塞ぐ邪魔な箒が払われ、弥三郎が無様に後ずさる姿を見た瞬間、又七郎の爛々とした双眸に「勝機」の光が宿った。
(――かかった)
敵が優勢を確信し、前傾姿勢で一気に踏み込もうとする瞬間。
それこそが、最も人間の視野が狭まり、足元の罠に無防備になる瞬間なのだ。
「弥三郎、そこだ! 箒を捨てて左へ跳べ!」
「うわああああっ!!」
弥三郎が泣き叫びながら左の雑木林へ転がり込むように身を投げた。
又七郎の目の前から、標的(弥三郎)の姿が完全に消える。
勢い余った又七郎の右足が、力強く地面を踏み抜いた――その場所は。
「甚兵衛、引けッ!」
「応ッ!!」
庭の物陰に潜んでいた甚兵衛が、地面に這わせてあった細い麻紐を渾身の力で引き絞った。
それは今朝、和紙漉きの木桶を裏庭へ運ぶために敷設していた、滑車付きの荷揚げ用ロープだ。
ピィンと張られた麻紐が、地面の枯れ草の下から跳ね上がり、又七郎の右足首を正確に引っ掛けた。
「なっ……!?」
突進の慣性がついた身体が、前方の虚空へと放り出される。
体勢を崩しながらも、さすがは後の名将・島津家久、咄嗟に左手を地面について受け身を取ろうとした。
だが――俺の設計は、転倒させるだけで終わるほど甘くはなかった。
「ちよ、まつ、水を打て!」
「「はいッ!」」
台所口で待機していた二人が、紙漉きの残水が入った大桶を傾け、又七郎の着地点めがけて一気にぶちまけた。
そこは、昨日までチャドクガ防除のためにツバキの剪定枝を積み上げ、さらに和紙の糊(トロロアオイの粘液)の残滓を捨ててあった、ぬめるような泥濘地だった。
ズザザザザァァッ!!
「うわっ……ぐあぁぁっ!?」
着地した左手がツルリと滑り、又七郎の身体は泥水の中を無様に数間滑走した。
手から弾き飛んだ木刀が、カランカランと虚しく乾いた音を立てて縁側の板敷きの下へと転がり込んでいく。
「ぐっ……お、おのれ……ッ!」
全身泥まみれになり、頭から紙くずとツバキの葉をかぶった又七郎が、屈辱に顔を真っ赤にして跳ね起きようとした。
しかし、その喉元に――
ピタリと、冷たい感触が突きつけられた。
又七郎が息を呑んで見上げた先には、細い竹竿を両手でしっかりと構えた、五歳の楠千代丸の姿があった。
その切っ先は、又七郎の首筋の急所から寸分もブレていない。
さらに、又七郎の左右を取り囲むように、泥だらけの弥三郎が濡れた剪定鋏を構え、甚兵衛が太い丸太を肩に担いで仁王立ちしている。
逃げ場は、四方のどこにも残されていなかった。
「……勝負あり、にございます。又七郎兄上」
俺は静かに竹竿の切っ先を下げ、息を整えた。
幼い両腕の筋肉がぷるぷると震えていたが、視線だけは決して逸らさなかった。
「……な、なんだこれは……」
又七郎は泥の地面に手をついたまま、呆然と呟いた。
怒りや屈辱を通り越し、自分の身に何が起きたのかを必死に理解しようと、爛々とした瞳が激しく揺れている。
「俺は……ただ木刀を振り下ろそうとしただけだ……。なのに、あいつが逃げて、足が引っかかり、水で滑って……気づいたら囲まれてやがった……」
「当然です」
俺は幼児の短い足で一歩近づき、泥まみれの兄を見下ろした。
「弥三郎がわざと逃げて兄上の視界を奪い、甚兵衛が足止めし、まつとちよが足場を奪った。……兄上は自分の腕力しか見ていなかったが、こちらは五人全員の役割と庭の道具を連動させて兄上をハメたのです」
俺は手元の薄板を指でトントンと叩いた。
「兵を退かせて敵を釣り、油断させて隘路へ引きずり込み、伏兵で包囲して急所を断つ。……武将の強さとは、自ら刀を振るうことではなく、**人を連動させて敵を術中にハメる戦術**を敷くことにあると、ご理解いただけましたでしょうか」
静まり返る裏庭。
風が吹き抜け、濡れたツバキの葉がサワサワと擦れ合う音が響く。
又七郎は泥を握りしめ、ギリッと奥歯を鳴らした。
五歳の弟に完敗した屈辱。だがその瞳の奥には、武芸の技量を超えた「恐るべき戦術の理」を目の当たりにしたことへの、強烈な戦慄と興奮が火花のように散っていた。
「……ちっ」
又七郎は立ち上がり、泥まみれの着物の裾を乱暴に払った。
「……クソが。屁理屈ばかり並べやがって。……だが、気に入らねえが、手も足も出なかったのは事実だ」
又七郎は縁側の下から木刀を拾い上げると、肩に担ぎ、ギラリとした野性味あふれる視線を俺に向けた。
「又八。てめえのその小賢しい頭、戦の役に立つどころか……下手をすりゃ大軍を皆殺しにする毒薬だぞ。……武士の体すらできてねえモヤシのくせに、気味の悪いガキだ」
毒づきながらも、その言葉の端々には「ただの無害な五男坊」から「得体の知れない恐るべき知恵者」へと、相手を一段高い存在として認めざるを得ない響きが混ざっていた。
「おい、蒲生の若造!」
又七郎が急に振り返り、木刀の先で弥三郎を指差した。
「……ひゃっ!? な、なんですか!」
「いい逃げ足だったぞ。……次会う時までに、もっと素振りをしとけ。足腰が軟弱すぎる」
言い残すと、又七郎は泥だらけの足取りで、一度も振り返らずに北の丸の門を抜けて去っていった。
嵐のような時間が過ぎ去り、裏庭に再び静寂が戻る。
「……あー、怖かった! 怖かったよォッ!!」
弥三郎がその場にへたり込み、濡れた地面を叩いて叫んだ。
「若君! なんですかあの罠は! 紐を引くタイミングがコンマ一秒でもズレてたら、俺の頭が木刀でスイカ割りにされてましたよ! 僕ぁね、もう寿命が十日縮まりましたよ!!」
「ガハハ! 見事じゃったぞ弥三郎! 若君の采配、まことに神懸かりじゃ!」
甚兵衛が太鼓腹を叩いて笑い、弥三郎が「笑い事じゃない!」と怒鳴り返す。
だが、俺は去りゆく又七郎の背中を見つめながら、小さく息を吐き出した。
(――これで、種は蒔いた)
あいつは今日、個人の武勇の限界を知り、「誘引と伏兵による包囲殲滅」の恐ろしさを肌で覚えた。
この苦い敗北の記憶こそが、やがて九州を揺るがす大戦乱において、あの島津家久という怪物を「戦国最強の戦術家」へと覚醒させる最初の引き金になるのだ。
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