第12話 大隅の地殻変動
本日4本目です。
日陰の屋敷に、張り詰めた初冬の冷気が吹き込んでいた。
永禄九年(一五六六年)十一月中旬。
俺――五男坊の又八(幼名:楠千代丸)が八歳を迎えた年の瀬、大隅半島のパワーバランスを根底から覆す特大の地殻変動が勃発した。
「若君! 本丸から早馬が走りましたぞ! 高山城が、あの肝付の本拠が落ち申したッ!!」
白髪混じりの髭を寒風になびかせ、裏木戸を跳ね飛ばすようにして甚兵衛が庭先へ駆け込んできた。五十を過ぎた老武士の浅黒い顔は紅潮し、息を荒げながら縁側の板敷きを太い拳で叩いた。
「島津の御屋形様(貴久様)の本隊が、電撃の如き勢いで肝付の居城・高山城を急襲、一網打尽に攻め落としたそうじゃ! しかもその翌日、志布志に退いておった肝付の怪童・兼続が自害……! あの大隅の覇者・肝付兼続が、ついに果て申したぞォッ!!」
裏庭に響き渡る甚兵衛の絶叫。かつて蒲生家を滅亡へ追い込んだ島津貴久の武威が、今度は宿敵・肝付氏の息の根を止めたのだ。
だが、濡れ縁で薄板の帳簿をめくっていた弥三郎(十八歳)は、手にした筆を止め、深いため息をついて頭を抱えた。
「あーあ。爺様、何が悲しくて島津の大勝利をそんな嬉しそうに報告してんですか。肝付兼続が死んだってことは、島津の勢いが止まらなくなるってことでしょう。敵が減れば、本家が次に目を向けるのは『家中の掃除(不穏分子の整理)』ですよ」
「何を不吉なことを言うか弥三郎ッ! 敵の大将が討たれたのじゃぞ! 祝着至極ではないか!」
「祝着なわけあるかァッ!!」
弥三郎が帳簿を畳に叩きつけ、俺に向き直って訴えかけてきた。
「若君! ほら、俺の言ってること間違ってないですよね? この三年、若君がサボン(石鹸)と和紙の利権で本家を潤し、山奥の行者衆に飯を食わせてきたおかげで、俺たちの日陰の屋敷は何とか平和を保ってきました。でもね、外の戦争が片付いちまったら、本家の正室兄上たち(義久・義弘・歳久様)が、この『金の卵を産む不気味な五男坊』をいつまでも野放しにしておくわけがないでしょうが!!」
「弥三郎、お前のリスク管理は百点満点だ」
俺は幼児体型を抜け出しつつある八歳の身体を伸ばし、冷えた手を懐で温めながら静かに頷いた。
戦国大名の組織力学は冷徹だ。
肝付兼続という強大な外敵がいたからこそ、本家も内輪揉めを避け、俺の生み出す石鹸利権と衛生物資をありがたく受け取っていた。だが、兼続が死に、大隅の軍事バランスが一気に島津優位へ傾いた今――本家の正統なる後継者たちにとって、仇敵・蒲生の血を引く異能の末弟は、いつ発火するかもわからない「最も危険な内部の火種」へと変わる。
「若君、それだけではございませぬ」
障子の影から音もなく姿を現したのは、楠行者衆の頭領・道純だった。冬の冷気とともに運ばれてきた山伏の肌からは、強烈な鉄と汗の匂いが漂っている。
「高山城の陥落に乗じ、島津本隊の別動隊が、大隅北部の『獅子目・飯隈』一帯へ雪崩れ込み申した」
「獅子目と飯隈……!? 大姶良の目と鼻の先ではないか!」
甚兵衛が目を剥く。道純は低く唸るように頷き、懐から粗末な絵図を取り出して縁側に広げた。
「島津水軍が大型の関船や安宅船を造るため、高隈山系の極上なるクスノキとスギの巨木を根こそぎ伐採・流送し、現地の兵糧と軍馬を奪い尽くして引き揚げた由。作戦は大成功でございますが、木を切り倒された後の獅子目と飯隈は、丸裸の荒れ地と化して敵中に孤立しております」
「出たよ、親会社の略奪的プロジェクト」
俺は手元の薄板を指先で叩いた。
錦江湾の制海権を握るための軍船用木材と物資だけを奪い尽くし、価値の暴落した荒廃地だけが残された。引き払えば「島津の敗退」として敵を勢いづかせるが、正規兵を置いて守るには補給線が長すぎてコストが見合わない「完全な不良債権(死地)」。
(本家が何を企んでいるか、これで綺麗に線が繋がったな)
この厄介極まりない不良債権の押し付け先と、目障りになった俺たち蒲生陣営の処理。二つの課題を一撃で解決する「最悪の辞令」が、今まさに本丸の首脳陣によって下されようとしていた。
「つまり本家は、木と馬を奪うだけ奪って、後片付けを俺たちに丸投げする気だ」
俺が冷徹に言葉を吐き出すと、部屋の空気が一気に張り詰めた。
濡れ縁の板敷きの上に広げられた大隅の絵図。高隈山の東側に位置する「獅子目・飯隈」は、周囲を肝付方の支城群――大姶良城や串良城に囲まれ、まさに敵の喉元に突き刺さった切っ先のような孤立した飛び地だった。
「若君、まさか本家は、本気で俺たちをそこへ放り込む気なんですか……?」
弥三郎が、恐る恐る引き攣った笑みを浮かべて尋ねてくる。その瞳には、かつてない本物の恐怖が宿っていた。
「高山城が落ちて兼続が死んだってことは、今の大隅は『親を殺された狂犬どもが復讐に飢えて牙を剥いてる状態』ですよ! 本隊が薩摩へ引き揚げた後のそんな場所に、八歳のガキと女子供と蒲生の残党を送り込むって……それ、完全なる『生贄』じゃないですか! 敵の鬱憤晴らしのサンドバッグですよォッ!!」
弥三郎は頭を抱え、濡れ縁の上でのたうち回った。
「僕ぁね! もう訴えますよ! 出るとこ出ますよ!! この三年、俺たちがどれだけ真面目に石鹸と和紙を漉いて本家に上納してきたと思ってんですか! 粗利九割の優良案件を回してきた現場主任に、左遷どころか『最前線の死地で肉の盾になれ』って……! 武士の労働基準法はどうなってんだァァッ!!」
「何をわけのわからんことを喚いておるか弥三郎ッ!」
甚兵衛が太い腕で弥三郎の首根っこを引っ張り上げた。浅黒い顔を紅潮させ、爛々とした目を輝かせている。
「滅相もない! これぞ蒲生八幡の御神木のお導きじゃ! 敵の最前線とはいえ、本家が若君に一城一国の領地をお授けくださるのじゃぞ! 獅子目の地に蒲生の旗を打ち立て、失われた我が領地を切り取り戻す絶好の好機ではないか! ガハハ、儂は嬉しゅうて血が滾るわい!」
「爺様、あんたねえ! その『領地』は敵のど真ん中に浮いてる丸裸の崖の上なんだよォッ! 旗立てた瞬間に四方八方から矢衾が飛んできて串刺しフィニッシュですよ!!」
祖父と孫の凄まじい怒号の応酬に、部屋の奥から駆け寄ってきた母・楠御前(二十三歳)が、顔面を蒼白にして俺の肩を抱きしめた。
「楠千代……! お前をそんな恐ろしい戦場へ行かせるわけにはまいりません! 殿(貴久様)に、私からもお願い申し上げます……!」
「母上、ご安心ください。取り乱す必要はありません」
俺は母の冷え切った華奢な手を優しく握り返し、静かに首を横に振った。
胸の奥で、前世の現場叩き上げコンサルの冷徹な計算式が、猛烈な速度で損益を弾き出していく。
島津本家の狙いは極めて合理的だ。
* 奪ったばかりで維持コストの合わない「獅子目・飯隈」に正規兵を置かず、自前の兵糧と血の損耗をゼロにする。
* 「首尾よく防衛して肝付を食い止めれば、蒲生の名跡再興を考えてやる」と甘言を垂れ流し、蒲生残党をタダ働きの防波堤として酷使する。
* もし敵の猛攻で俺たちがあっさり全滅しても、本家にとっては「目障りだった妾腹の知恵者と蒲生の残党」が一掃されるだけで、痛手は1ミリもない。
完全な「使い捨ての不良債権押し付けスキーム」だ。
「道純、現地の獅子目砦の様子はどうなっている?」
「島津本隊が木材を運び出した後の砦は、ほぼ空堀と柵が残るのみの荒れ果てた抜け殻でございます。されど、四方を険しいシラスの白い崖に囲まれ、谷筋は一本道の天然の袋小路。行者衆の山岳ゲリラを展開するには、これ以上ない要害に仕立て上げられますぞ」
「受けて立つには十分だな」
俺は立ち上がり、絵図の「獅子目」の文字を指先で強く叩いた。
「弥三郎、甚兵衛。本家は俺たちを『都合のいい肉の盾』として死地に放り込む気だが……見方を変えれば、これは千載一遇の『独立のチャンス』だ」
「ど、独立……!?」
「城下で大人しくしていれば、いずれ本家の誰かに毒殺されるか、厄介払いされるのを待つだけだった。だが、敵地の最前線であれば、本家の監視の目は一切届かない。あそこは、手に入れた石鹸の手当を使い、誰の指図も受けずに自前の軍事特区と産業要塞を築ける、最高の実験場になるんだよ」
八歳児の口から放たれる、冷徹極まりない「ピンチをチャンスに変える事業計画」。
弥三郎はごくりと喉を鳴らし、やがて諦めたように深い息を吐き出した。
「へっ。要するに、本家が『もう全滅しただろう』と高をくくってる間に、山奥に誰も手出しできない要塞を作って既成事実化するってことですね。分かりましたよ。どうせ逃げ道がないなら、腹括って崖っぷちで暴れてやりますよ!」
「よく言った、弥三郎! まつ、ちよ、奥向きの荷をまとめろ! 獅子目へ持っていくのは、武器と和紙の漉き枠、そして石鹸の製法覚書だ!」
「「はい、若君!」」
奥向きの女たちが一斉に動き出す。
日陰の屋敷での潜伏期間は終わりを告げ、俺たちの戦いはついに、血と硝煙が渦巻く「大隅最前線」の実戦フェーズへと突入しようとしていた。
――その翌日、本丸の大広間。
「又八。そなたに大隅国・獅子目ならびに飯隈の地、都合数百石を下賜する。速やかに現地へ赴き、蒲生の旧臣を率いて砦を守り、肝付の逆襲を防ぎ止めよ」
上座に座る長男・島津義久の冷徹な声が、広間に響き渡った。
その左右には、腕組みをして冷ややかな視線を向ける次男・義弘と、扇子を弄びながら底知れぬ笑みを湛える三男・歳久が控えている。
まさに、予定通りの「死刑宣告」に等しい左遷命令。
だがその時――広間の末席から、荒々しく床を踏み鳴らして立ち上がる人影があった。
「待てッ!! 義久兄上、正気かッ!?」
十四歳を迎えた四男・島津又七郎(家久)だった。
爛々とした野性味ある双眸を怒りで血走らせ、兄たちへ向かって怒鳴りつけたのだ。
「高山城が落ちた直後の獅子目なんて、怒り狂った大姶良や肝付の残党が真っ先に食らいつく死地じゃねえか! 八歳の小僧に蒲生の残党を数十人つけたところで、ひとたまりもなく皆殺しにされるぞ! なんでそんな無駄死にをさせるんだッ!!」
かつて裏庭の木刀対決で主人公に完敗し、その「戦術の理」に誰よりも戦慄した少年・家久。
本家の三兄たちが冷酷に首を縦に振る中で、唯一人、この妾腹の荒武者だけが、弟の左遷に本気の怒りを爆発させていたのである。
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