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第13話 捨て石の辞令



大広間に吹き抜ける冬の冷気が、一瞬で凍りついたようだった。


「……又七郎、控えよ」


上座に座る長男・島津義久(三十三歳)の声は、低く、静かで、しかし広間の板敷きを震わせるほどの絶対的な冷徹さを孕んでいた。 感情を一切表に出さぬ漆黒の双眸が、末席で立ち上がった四男・又七郎(島津家久・十四歳)を射抜く。


「義久兄上ッ! 控えてなどおれるか!」


十四歳を迎えた家久は、なおも引き下がらなかった。 粗末な麻の小袖をまくり上げ、鍛え抜かれた褐色の両拳を固く握りしめながら、血走った眼光で兄たちを見据える。


「高山城が落ち、兼続が死んだ直後だぞ! 今の大隅は、親兄弟を殺された肝付や大姶良の残党どもが、復讐に飢えて牙を剥いてる修羅の巷だ! 木材と馬を奪うだけ奪って丸裸になった獅子目や飯隈に、八歳の又八を放り込むなど……体裁のいい間引きではないか! なぜそんな無駄死にをさせるッ!!」


少年特有の割れ鐘のような怒声が、静まり返る大広間に反響する。 三年前、裏庭の立ち会いで五歳の俺に完封され、「人を使う戦術の理」に戦慄したあの少年。同じ妾腹の生まれとして、本家の兄たちから一段低く見られてきた鬱屈を共有する彼だからこそ、この露骨な左遷の理不尽さに本気で腹を立てているのだ。


だが、義久の斜め後ろに控える次男・島津義弘(三十一歳)が、膝の上の刀に手をかけ、侮蔑の混ざった嘲笑を漏らした。


「又七郎、武門の筋目を違えるな。敵地の最前線に砦を構え、押し寄せる敵を阻むのは武士の誉れぞ。又八と蒲生の残党にその役目を申し付けて何が不服か。……それとも何か? 奥向きで女子供と泥をこねて小銭を稼ぐしか能のない蒲生の血筋には、砦一つ守る骨気すらないと申すのか」 「義弘兄上、口を慎めッ! 又八はただ泥をこねていたわけじゃねえ! あの戦術の冴えは――」 「そこまでじゃ、又七郎」


最後尾で白檀の扇子をパチリと鳴らし、静かに割って入ったのは三男・島津歳久(二十九歳)だった。 その涼やかな顔立ちに浮かぶ笑みは、薄氷のように冷たい。


「義久兄上の差配は、誠に理にかなっておるよ。高山城を落としたとはいえ、島津本隊はいずれ薩摩へ兵を引き揚げねばならぬ。後に残る獅子目の地は、大隅北部と南部を繋ぐ要衝。そこに蒲生の血を引く又八を置き、旧蒲生領の遺臣どもを集めて守らせれば、大姶良や肝付への立派な抑えとなろう。……もし守りきれず討ち死にしたとて、それは蒲生の武運がそこまでだったというだけのことよ」


(……完璧な論理武装だ)


大広間の末席で平伏していた俺――八歳の又八(幼名:楠千代丸)は、畳の冷たさを額に感じながら、前世の胃潰瘍が疼くような感覚を覚えていた。 前世のコンサルタント時代、大企業のリストラや不採算事業の切り離しで何度も見てきた光景だ。


本家の三兄たち(義久・義弘・歳久)の狙いは極めて合理的かつ冷酷。


錦江湾の制海権を握る軍船用木材クスノキ・スギと兵糧を強奪し尽くした後の、維持コストの合わない荒廃地(獅子目・飯隈)に正規兵を置かず、自前の損耗をゼロにする。


「蒲生再興の領地」という名目で蒲生の残党を防波堤として使い倒す。


敵にすり潰されて全滅すれば、目障りだった妾腹の知恵者と仇敵・蒲生の血が一撃で消滅し、本家は痛手ゼロ。


まさに教科書通りの「不良債権押し付けスキーム」。


「……くそっ! 兄上たち全員、血も涙もねえのかよ……ッ!」


悔しさに肩を震わせ、拳を畳に叩きつける又七郎(家久)。 その時、俺はゆっくりと上体を起こし、膝を進めて義久の前へ進み出た。


「……又七郎兄上。お気遣い、心より感謝申し上げます」


八歳特有の澄んだ声で告げると、又七郎が驚いたように目を丸くした。 俺は深々と頭を下げ、上座の義久を見据えた。


「義久兄上、ならびにご重臣の皆様。この又八、謹んで大隅国・獅子目ならびに飯隈への着任をお受けいたします。……微力ながら、蒲生の者たちを率いて砦に籠もり、島津の御家のために敵の逆襲を食い止める防波堤となりましょう」


淀みない返答に、義久の眉がピクリと動いた。 義弘は「ふん、殊勝なことだ」と鼻を鳴らし、歳久は扇子の奥で目を細めて俺を観察している。


「……うむ。よくぞ申した、又八」


義久が重々しく頷く。


「そなたには、現地での自活のため、支度金として銭五十貫、ならびに米百石を下賜する。……速やかに大隅へ下り、獅子目砦を整えよ」 「ははっ。ありがたき幸せにございます」


俺は深々と平伏した。 頭上から降り注ぐ兄弟たちの視線――冷徹な統治者の目(義久)、あからさまな軽蔑(義弘)、疑念と好奇(歳久)、そして一人だけ唇を噛み締めて悔し涙を浮かべる家久。


大広間を辞し、本丸の渡り廊下へ出た瞬間、俺の背後から荒々しい足音が追いかけてきた。


「おい、又八ッ!!」


振り返ると、又七郎(家久)が肩を怒らせて立ちふさがった。その双眸は爛々とした怒りの炎を宿し、今にも掴みかからんばかりの勢いだ。


「てめえ……! なんであんな無茶な辞令をヘラヘラ笑って受けやがった! 獅子目の地形を見たことがあるのか!? 四方を敵の城に囲まれた、逃げ場のないすり鉢の底だぞ! お前ほどの頭があれば、あんなの死ねと言われてるのと同じだって分かってただろッ!!」


激昂する十四歳の兄。 俺は渡り廊下の欄干に小さな手をかけ、冬の冷たい風を吸い込みながら、静かに口元を緩めた。


「……又七郎兄上。三年前の裏庭での立ち会いを、覚えておられますか」 「……あぁ? あの泥仕合がどうしたってんだよ」 「あの時、俺は申し上げました。『敵を釣り、油断させて隘路へ引きずり込み、伏兵で包囲して急所を断つ』――と」


俺は八歳の背筋を伸ばし、大人のコンサルタントの光を宿した瞳で、少年の目をまっすぐに見据えた。


「本家は俺たちを『都合のいい捨て石』として死地に放り込んだつもりでしょう。……ですが、本家の監視が届かない敵地のど真ん中だからこそ、誰の指図も受けずに、俺たちの手で不落の要塞をゼロから築き上げることができるのです」 「……なっ!?」


又七郎が息を呑んだ。 目の前にいる八歳の弟が、死を恐れるどころか、この最悪の左遷を「完全なる独立と実験の好機」として捉えていることに気づいたのだ。


「見ていてください、又七郎兄上。……獅子目と飯隈の谷は、俺たちの墓場にはなりません。押し寄せる敵をすべて飲み込み、すり潰す、大隅最強のキルゾーンに仕立て上げてみせます」 「……き、きるぞーん……?」


十四歳の島津又七郎(家久)が、素っ頓狂な声を上げて目を白黒させた。 先ほどまで爛々とした殺気を放っていた顔が、聞いたこともない異国の単語をぶつけられたことで、一瞬にして困惑の色に染まる。


「又八、てめえ……! なんだその“きるぞーん”ってのは! また南蛮の怪しげな呪術か!? 呪文で敵を呪い殺す気かッ!?」


俺は思わず口元を押さえて小さく咳払いをした。


(……しまった。前世の用語がそのまま口から漏れた)


「……失礼いたしました、又七郎兄上。呪術などではございません。『キルゾーン』とは、南蛮の兵法で言うところの**『敵を意図的に引きずり込み、逃げ場を塞いで確実に殲滅する“仕留め場所(袋小路)”』**のことにございます」 「……仕留め場所だと?」


又七郎が眉間の皺を深くし、腕組みをして俺の言葉に耳を傾ける。


「はい。獅子目と飯隈の谷は、両脇をシラスの白い切り立った崖に挟まれ、道幅が極端に狭い一本道。大軍が一度奥へ踏み込めば、隊列は細長く伸びきり、左右への展開も後退も一切効かなくなります。……そこに上流から丸太や岩を落とし、崖の上から弓と投石を浴びせれば、敵が何千いようとも先頭から順にすり潰すことができるのです」 「……ッ!」


又七郎の息が止まった。 三年前、裏庭の泥濘地で、弥三郎の逃げ足と麻紐の罠によって無様に転がされたあの日の光景が、一瞬で脳裏に蘇ったのだ。


『兵を退かせて敵を釣り、油断させて隘路へ引きずり込み、伏兵で包囲して急所を断つ』――。


あの日、五歳だった弟が裏庭の道具を使って見せつけた「組織戦の理」。 それを今度は、大隅の山林とシラス台地という「本物の地形」を使って、肝付の軍勢相手に仕掛けるつもりなのだと、この天才肌の少年は直感した。


「……なるほどな」


又七郎はごくりと喉を鳴らし、野性味あふれる瞳をギラリと光らせた。


「三年前の泥遊びを、今度は本物の戦場でやる気か。……獅子目の地形そのものを、巨大な罠の底に仕立て上げるってわけだな」 「その通りです。だからこそ、俺たちはあそこへ行かねばなりません」


俺が静かに告げると、又七郎はフッと口端を歪めて笑った。 あからさまな悔しさと、それ以上に「戦の新たな地平」を見せつけられたことへの獰猛な武者震いが、その全身から湯気のように立ち上っている。


「……ふん! 気に入らねえな! 相変わらず、頭だけで人をハメ殺すような汚ねえ策ばかり考えやがって!」


又七郎は悪態をつきながらも、腰の刀をカチャリと鳴らして背を向けた。


「おい、又八! 簡単に野垂れ死ぬんじゃねえぞ! てめえのその何だか知らねえ仕留め場所で、本当に大隅の敵をすり潰せるのかどうか……俺がこの目で確かめに行ってやるからなッ!」


捨て台詞を投げ捨てると、四男・又七郎(家久)は一度も振り返らず、大股で廊下を駆け去っていった。


(――よし。これで家久への種蒔きは完了だ)


あいつは必ず、俺の戦い方(少数誘引・伏兵殲滅の理論)を貪欲に吸収し、自らの血肉に変えていく。 それが後の木崎原、そして九州を揺るがす耳川の釣り野伏へと繋がっていくのだ。


――その日の夕刻、北の丸の屋敷。


「……若君ィ! 荷造り、終わりましたよォッ!!」


裏庭から、弥三郎(十八歳)の泣きそうな絶叫が響き渡った。 庭先には、島津本家から下賜された米百石と支度金五十貫、そして和紙漉きの道具や石鹸の木型を積み込んだ荷車がずらりと並んでいる。 その周囲を取り囲むのは、城外から集結した蒲生の専業武士八十名、そして女・老人・子供を含めた総勢三百八十名の蒲生遺臣団だった。


「……僕ぁね! もう訴えますよ! 出るとこ出ますよ!!」


弥三郎は荷車の留め木を力任せに締め上げながら、濡れ縁に手をついてキレ散らかした。


「なんで俺が、八歳の若君と暴走爺様を連れて、敵のど真ん中の荒れ地へ引っ越ししなきゃならんのですか! 荷物が多すぎる! 草鞋がもう三足もすり減った! 武士の引っ越し作業じゃないですよこれは!!」 「だまりゃ弥三郎ッ! 泣き言を垂れるな!」


甚兵衛(蒲生忠清)が太い丸太を軽々と肩に担ぎ上げ、浅黒い顔を紅潮させて仁王立ちした。


「見ろ、この三百八十名の同胞の姿を! 皆、若君の御旗の下で再び蒲生の誇りを取り戻さんと、目を輝かせておるではないか! これぞ蒲生八幡の大楠のお導き! 獅子目の地に、我らが新たな城を築くのじゃあぁぁっ!!」 「爺様、だから声がデカいっつってんでしょうがァッ!!」


祖父と孫の凄まじい怒号の応酬に、荷車の陰から顔を出した母・楠御前(二十三歳)が、ちよとまつに支えられながら小さく微笑んだ。 その瞳には、かつて日陰の屋敷で怯えていた頃の弱々しさはなく、我が子の切り拓く未来を信じる母の静かな覚悟が宿っていた。


「……行くぞ、全員」


俺は八歳の身体で先頭の荷車へと進み出た。 日陰の屋敷での雌伏の時は終わった。 島津本家が「使い捨ての肉の盾」として放り込んだはずの死地――大隅国・獅子目と飯隈の谷。 そこに、戦国時代の常識を根底から覆す「不落の軍事特区と産業要塞」を打ち立てるための、泥臭き第一歩が踏み出されようとしていた。

次は12時投稿予定です

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