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第14話 奥向きの別れと蒲生の出陣

本日2話目です。

永禄九年(一五六六年)十一月下旬。

島津本丸の北の丸、日当たりの悪い屋敷の裏門には、夜明け前の底冷えする霧が立ち込めていた。

庭先には十数台の荷車が並び、車輪の軸がきしきしと重たい音を立てている。

積み込まれているのは、島津本家から形式的に下賜された米百石と支度金五十貫、そしてこの三年間、母や侍女たちが血の滲む思いで守り育ててきた和紙漉きの木枠、石鹸の木型、そして椿油の搾り機だ。

「……若君、これを行者衆へ」

霧の奥から音もなく進み出た道純へ、俺――八歳の又八(幼名:楠千代丸)は、ずっしりと重い麻袋を手渡した。

中に入っているのは、本家からせしめた支度金の一部と、石鹸専売の手当てからプールしておいた純金粒だ。

「道純、霧島の山伏三十名は、表立って俺たちの隊列に加わるな。高隈山の裏尾根伝いに先行し、獅子目と飯隈の山林に潜伏して早期警戒網センサーを張れ。……大姶良や肝付の手勢が動けば、即座に狼煙と早馬で知らせるんだ」

「御意にございます、若君」

道純は麻袋を押し戴き、鋭い眼光を伏せて深く平伏した。

「飢えに瀕していた我ら行者衆に、三年もの間、欠かさず米と銭を送り届けてくださった若君の御恩…… たとえこの身が高隈の谷底で朽ち果てようとも、若君の背後から敵を通すことは断じてございませぬ」

山伏たちは影のように霧の中へと散り、高隈山系へと消えていった。

これで、裏の情報網の先行展開は完了だ。

残る課題は、この屋敷に残る家族との別れだった。

「……楠千代」

濡れ縁の薄暗がりから、母・楠御前(二十三歳)が静かに歩み寄ってきた。

二十三歳になった今も、その佇まいは少女のように華奢で儚い。

だが、かつて日陰の屋敷で怯えるばかりだった母の瞳には、涙を堪え、我が子の覚悟を受け止めようとする芯の強さが宿っていた。

「母上。……ご一緒にお連れできず、申し訳ありません」

俺は八歳の身体で母の前に膝をついた。

大隅の獅子目・飯隈は、いつ敵の夜襲があってもおかしくない最前線の死地だ。非力な母を連れて行けば、防衛の足枷になるだけでなく、万が一の際に母の命を危険に晒すことになる。

「母上には、この北の丸に残っていただきます。本家に対して人質として留まっていただく形になりますが……石鹸の手当ては毎月この屋敷へ入るよう手配してあります。不自由はさせません」

母はふわりと膝を折り、冷え切った両手で俺の幼い頬を包み込んだ。

その指先は、椿油と石鹸のおかげで、かつてのアカギレだらけの荒れ肌から見違えるほど滑らかになっていた。

「謝ることはありません、楠千代。……そなたがこの屋敷の皆を救い、蒲生の者たちに生きる望みを与えてくれたことを、母は誇りに思っています。……どうか、無事で。生きて、またこの屋敷の椿を見に帰っておくれ」

「……はい、母上」

胸の奥がキュッと締め付けられる。

前世では味わったことのない、血の通った母親の温もり。

(絶対に死なない。そして、この人を誰も脅かせない安全な世界を作る)

俺が立ち上がると、母の後ろに控えていた侍女長の岩崎(志保)が、毅然とした面持ちで平伏した。

「若君。奥向きの守りは、この岩崎が命に代えても全ういたします。島津の本家筋や蔵役人がいかなる嫌がらせを仕掛けてこようとも、一歩も退きませぬ。……若君は、大隅の地で存分に蒲生の旗を振るってくださいませ」

「頼むぞ、岩崎。まつ、ちよ、母上をお守りしろよ」

「「はい、若君! 行ってらっしゃいませ!」」

まつとちよが涙を拭いながら頭を下げた。

――裏門を出ると、そこには異様な光景が広がっていた。

「……うわぁ、集まった集まった。本当に三百八十人もいやがる……」

荷車の前で草鞋の紐を締め直していた弥三郎(十八歳)が、死んだ魚のような目で集結した大群衆を見回してボヤいた。

城外の各地から集まった、元・蒲生家の専業武士八十名。

そして、彼らの家族である女・老人・子供を含めた非戦闘員が三百名。合わせて総勢三百八十名の蒲生遺臣団だ。

粗末な小袖や襤褸を纏い、錆びた槍や鍬を手にした彼らの瞳には、落城以来失われていた生への執念と、幼き若君・楠千代丸への熱狂的な忠誠が宿っていた。

「若君! ご下命を!」

先頭に立つ甚兵衛が、太い丸太を肩に担ぎ、浅黒い顔を紅潮させて仁王立ちした。

「見よ、この蒲生の同胞たちの顔を! 捨て石上等! 敵地のど真ん中、獅子目の荒れ地に我らが新たな国を築くのじゃあぁぁっ!!」

「爺様、だから声がデカいっつってんでしょうがァッ!!」

弥三郎が頭を抱えて怒鳴り散らし、隊列の武士たちがドッと笑い声を上げる。

「……全軍、出陣だ! 目指すは大隅国・獅子目!」

俺の短い号令とともに、三百八十名の車列が霧の立ち込める街道へと歩み出した。

錦江湾を船で渡り、険しい高隈山の山裾を越える過酷な行軍。

――辿り着いた大隅国・獅子目の地は、まさに島津本隊によってクスノキとスギの巨木を根こそぎ伐採され、兵糧も軍馬も奪い尽くされた「完全なる荒野」だった。

「……うわぁ。本当に何にもねえ」

荷車の留め木を解きながら、弥三郎が死んだ魚のような目で荒れ地を見渡し、濡れ雑巾のように地面へへたり込んだ。

「見てくださいよ若君! 砦って聞いてたのに、残ってるのは腐りかけの柵と土塁の跡だけじゃないですか! 建物どころか屋根すらねえ! こんなすり鉢の底みたいな谷で、女子供や年寄りを含めた三百八十人がどうやって冬を越せって言うんですか! 僕ぁね、もう島津の総務部を訴えますよ!!」

「喚くな弥三郎ッ! 腹から声を出せ!」

太い丸太をドスンと地面に突き立てた甚兵衛が、目を剥いて仁王立ちした。

「屋根がないなら木を切れ! 飯がないなら野山を駆けろ! 見ろ、この切り立ったシラスの白壁を! 左右を断崖に囲まれ、谷の入り口は一本道! 敵が何千押し寄せようと一歩も通さぬ天然の要害ではないか! ガハハ、これぞ蒲生八幡の御神木のお導きじゃ!」

「爺様、あんたねえ! その『天然の要害』ってのは、裏を返せば『逃げ場のない袋小路』ってことでしょうがァッ!!」

祖父と孫の凄まじい怒号の応酬に、集結した蒲生の武士や百姓たちが思わず苦笑いを漏らす。

だが、その視線の先――八歳の又八は、冷え切った両手を懐で温めながら、谷の地形を鋭く観察していた。

(……完璧だ)

幅わずか数十間の隘路。両脇は登攀不可能なシラスの断崖。

前世で学んだ軍事工学とサプライチェーンの知見が、瞬時にこの谷の要塞化プランを弾き出す。

「甚兵衛、弥三郎、文句を垂れるのは後だ。三百人の非戦闘員を奥の岩陰へ避難させつつ、戦える八十名の専業武士で直ちに防衛陣地の構築に入るぞ」

俺は手元の薄板に炭で指示を書き込み、集まった八十名の武士たちを見回した。

「第一班は、谷の最狭部に伐採済みの雑木とシラス土を混ぜた胸壁を二重に築け。

第二班は、崖の上に投石用の丸石と、伐採したマダケを斜めに削った逆茂木を敷設。

そして第三班は……谷底の湿地帯に、和紙のトロロアオイの残滓と水を流し込み、足を取られる泥濘トラップを造成しろ」

「……出たよ、若君の嫌がらせトラップ」

弥三郎が引き攣った笑みを浮かべつつも、即座に腰を上げて兵たちへ指示を飛ばし始めた。

文句を言いつつも最速で現場を回す長男力。この男が現場主任にいてくれるからこそ、俺の組織論は机上の空論にならずに機能するのだ。

しかし――防衛線の完成を待つ猶予は、天から与えられなかった。

ヒュオオオォォッ――!

山林の奥から、鋭い狼煙が一本、黒々と立ち上った。

直後、崖の上の木立から音もなく飛び降りてきたのは、楠行者衆の頭領・道純だった。

「若君! 敵襲にございます!」

道純のしわがれ声が谷底に響き渡る。

「大姶良城代・橋口軍の手勢、およそ三百! 高山城陥落の混乱に乗じ、島津の出涸らしとなったこの獅子目を奪い返さんと、一気に街道を突き進んでおります! 接触まで、わずか半刻(約一時間)!」

「さ、三百……ッ!?」

弥三郎が目を剥いた。

こちらは引っ越してきたばかりで、女子供や老人を除けば実質的な戦闘人員は八十名のみ。

敵は手柄に飢え、血気にはやる正規の手勢三百。

「若君! どうします!? まだ土塁も半分しか出来てないですよ! 逃げますか!? 逃げるなら今ですよ!!」

弥三郎の悲鳴のような問いかけ。

だが、俺は首を静かに横に振った。

「逃げれば奥の女子供まで背中から斬られて全滅だ。……道純、行者衆を崖の上の伏兵位置につかせろ。甚兵衛、お前は槍隊の先頭に立て」

俺は八歳の身体で、粗末な柵の前に据えられた踏み台の上に立った。

手にした薄板をパチンと叩き、全軍へ向けて澄んだ声を響かせる。

「恐れるな、蒲生の者たちよ! 敵は俺たちが飢え疲れた烏合の衆だと思い込み、何の警戒もなくこの一本道へ突っ込んでくる!

――ここが、奴らの墓場だ。

我が設計した『キルゾーン(仕留め場所)』の威力を、大隅の敵どもにとくと教えてやれッ!!」

「「「おおおおおォォォッッ!!!」」」

山あいの谷底に、八十名の蒲生武士たちの咆哮が木霊した。

泥にまみれ、白いシラスの崖の下で、怒涛の如く押し寄せてくる橋口軍の先頭集団。

冷徹に敵を引きつけ、完璧なタイミングで罠のロープを引く甚兵衛。

逃げ惑う敵を崖の上から射すくめる楠行者衆。

そして、半泣きで絶叫しながら必死の形相で槍を突き出す弥三郎の姿――。

捨て石として放り込まれたはずの八歳の童が、大隅の戦国史を根底から塗り替え始める「獅子目要塞・第一次防衛戦」が、今まさに火蓋を切ったのである。

次は15時に更新予定です。

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