第15話 泥の谷のキルゾーン
本日3本目です。
第15話:泥の谷のキルゾーン(第一次獅子目防衛戦)
初冬の冷たい風が、大隅・獅子目の台地を吹き抜けていた。
木々を切り倒され、白いシラスの地肌がむき出しになった荒涼たる大地に、激しい喚声と乾いた木材の軋む音が響き渡っている。
「押せっ! 丸太を立てろ! 隙間をシラス土と萱で埋めんかい!」
甚兵衛(蒲生忠清)が、五十を過ぎた老体とは思えぬ怒声を張り上げていた。
彼らが背後を固めているのは、台地の北端――かつて島津本隊が木材伐採の仮陣地として使っていた、腐りかけの柵と低い土塁が残るだけの「出先砦」である。
「……若君! これ、本当に砦って呼んでいいんですか!? 見てくださいよ、柵の高さが俺の胸までしかないじゃないですか! 敵の馬が一跳びで乗り越えてきますよ!!」
泥だらけの手甲を直し、削りたてのマダケの杭を地面に叩き込みながら、弥三郎(十八歳)が目を血走らせて叫んだ。
その額からは冬の寒風をものともしない汗が吹き出し、首筋を泥水とともに濡らしている。
「弥三郎、文句を言うな。ここは本拠ではなく、ただの看板だ」
俺――八歳の又八(幼名:楠千代丸)は、物見台代わりに積まれた土俵の上に立ち、手元の薄板を指先で弾いた。
八歳児の短い手足は吹きさらしの風にかじかんでいるが、前世の現場で叩き込んできた冷徹な戦術眼は、眼下に広がる街道の砂煙を一点に見据えていた。
俺たちが大隅に入植した陣容は、蒲生の専業武士が八十名、女・老人・子供を含めた非戦闘員が三百名の総勢三百八十名。
対する敵は、高山城落城の混乱の中で手柄に飢え、狂暴化した大姶良城代・橋口軍の手勢三百。
(まともにこの出先砦に立て籠もって正面衝突をやれば、兵力差と練度でこちらの防衛線は一刻も持たずにすり潰される)
だからこそ、この台地上の出先砦は「敵を受け止めて、適度に削った上で、無様に崩壊して見せるための舞台装置」でなければならなかった。
「道純、敵の距離と陣容は?」
「街道を直進して参る敵の先頭は、馬上の騎馬武者十騎を先頭にした槍衾およそ二百。……旗印は橋口但馬守の嫡男。高山落城の汚名をそそがんと、功名心に目を血走らせておりますな。接触まで、もはや一町(約百メートル)もございませぬ」
「よし。弥三郎、甚兵衛、手筈通りにやれ。最初は死に物狂いで踏ん張れ。だが、敵が『手応えあり』と調子に乗って全軍で押し込んできた瞬間――一気に陣を捨てて南の山中へ敗走するぞ」
「……へいへい! わかりましたよ! 命がけで戦ってから無様に逃げ惑う役を最前線でやれってことですね! 僕ぁね、もう胃に穴が開きそうですよ!!」
弥三郎が十文字槍の柄を握り直し、怒鳴り散らしながら柵の最前列へ飛び出した。
直後――台地の向こうから、地鳴りのような怒号が炸裂した。
「かかれェッ!! 蒲生の残党と島津の小倅を一人残らず叩き斬れェッ! 高山城の無念をここで晴らすのじゃあぁぁっ!!」
砂煙を巻き上げ、朱塗りの槍を構えた橋口軍の先鋒が、怒涛の勢いで出先砦の柵へ突っ込んできた。
ドガガガァァンッ!!
激しい衝突音とともに急ごしらえの木柵がきしみ、土煙が舞い上がる。
先頭の騎馬武者が槍を突き出し、柵の隙間から蒲生の兵たちへ襲いかかる。
「うおらぁッ! 通すかよォッ!!」
弥三郎が咆哮し、十文字槍の鉤爪で敵の槍先を強引に払い落とすと、穂先を鋭く突き出して敵馬の鼻先を突いた。
馬が狂ったように棹立ちになり、乗っていた武者が泥の上に転げ落ちる。
「若造が図に乗るなァッ!」
すぐさま左右から敵の槍衾が殺到し、弥三郎の小袖の袖口を切り裂く。
甚兵衛が太い丸太を振り回して敵兵を薙ぎ倒し、蒲生の老武士たちが死に物狂いで槍を突き出す。
その必死の抵抗は、敵の目から見れば「孤立無援の残党が、死に瀕して必死に爪を立てている姿」そのものだった。
「手応えあり! 敵はわずか数十の烏合の衆ぞ! 押し破れ! 首を挙げた者には望みの恩賞を取らすぞッ!!」
後方で馬に跨る敵将が刀を抜き、全軍突撃の号令を下した。
三百の敵兵が一斉に砦の柵へ殺到し、数で押し潰しにかかる。
柵の支柱がバキバキと音を立ててへし折れ、防衛線が限界を迎えたその瞬間――。
物見台の上から、俺の鋭い指笛が鳴り響いた。
(――第二段階へ移行。偽装退却を開始!)
「く、くそっ! もう支えきれねえ! 退けぇッ! 南の山中へ逃げろォォッ!!」
弥三郎が絶叫し、わざと槍の石突を地面に放り出すようにして背を向けた。
甚兵衛も「無念じゃあぁぁっ!」と迫真の叫びを上げ、丸太を捨てて泥まみれになりながら駆け出す。
砦を守っていた武士たちが、示し合わせたように蜘蛛の子を散らすが如く、南の険しい谷筋へと雪崩を打って逃走を開始した。
「ハハハ! 崩れたぞ! 逃がすな、追えェッ!!」
砦を突き破った橋口軍の先頭集団が、歓声を上げて敗走する弥三郎たちの背中へ殺到する。
敵将自らも手綱を打ち鳴らし、手柄首を独り占めせんとばかりに突撃を開始した。
「……若君ィィッ! もう足が棒ですよ! 槍先がケツに刺さるゥゥ! 僕ぁね、もう限界ですよ!!」
シラスの白い砂煙を巻き上げながら、弥三郎が叫び散らして走ってくる。
千切れかけた草鞋を引きずり、十八歳の足腰の粘りだけで前のめりに転倒するのを堪えながら、必死の形相で谷筋を疾走していた。
そのすぐ後ろ――五間(約九メートル)先で敵の槍衾が狂暴な光を放っている。
「逃がすなァッ! 首を取れ! 島津の落とし胤と蒲生の残党どもを一人残らず叩き斬れ! 高山城の仇じゃあッ!」
橋口但馬守の嫡男が、朱槍を振りかざして獰猛な怒号を張り上げる。
二百余の槍衾が、地響きを立てながら雪崩を打って狭隘な谷底へと踏み込んできていた。
高山城落城と兼続自害の屈辱に叩き落とされた彼らにとって、目の前で無様に逃げ惑う蒲生の残党は、新体制への最高の手柄首に見えていた。その浅ましい功名心が、敵将の目を完全に血走らせ、足元の地形の異常さを視野から削ぎ落としていたのだ。
両脇を垂直に近いシラスの白い崖に挟まれたこの場所は、一歩奥へ踏み込めば軍の横展開も後退も一切効かない、天然の巨大な袋小路である。
「若君! 弥三郎が死にます! 丸太を落としましょうぞ!」
崖の上の茂みの中で、甚兵衛が俺の肩を万力のような握力で鷲掴みにして揺さぶってきた。
「甚兵衛、揺らすな! 息を殺せ! まだ早い……!」
俺は奥歯を噛み締め、崖下へ殺到する敵の隊列を冷徹に睨み下ろした。
八歳児の小さな心臓が激しく早鐘を打っている。
前世でどれほど炎上プロジェクトを潜り抜けてこようと、眼下で数百の人間が本物の殺意を剥き出しにしている狂気には、何度立ち会っても胃袋がきりきりと縮み上がる。
(だが、ここで合図を急げば、敵の後方が谷の外に残ってしまう……!)
罠の基本は、獲物を底の底まで引きずり込むことだ。
敵将が先頭に立ち、我先にと谷の最深部へとなだれ込んでくる。隊列が細長く伸びきり、最後尾の一兵卒がシラスの崖の間へ完全に吸い込まれた瞬間――。
俺は、懐で握りしめていた木板をパチンと弾いた。
「弥三郎、引き込み完了だ! 甚兵衛、行者衆、谷の出口を塞げ! 敵将をここで確実に仕留めるぞ!」
「応ッ!!」
甚兵衛の咆哮が谷底に響き渡った。
「……ちくしょう、やってやる! 谷底に落ちたのはお前らのほうだァッ!!」
逃げ惑っていた弥三郎が、泥濘に両足を踏み張って急反転し、手にした十文字槍を大上段に構えた。
それを合図に、谷の最狭部に偽装されていた胸壁の裏から、伏せていた蒲生の専業武士八十名が一斉に立ち上がり、凄まじい怒号とともに槍衾を突き出したのだ。
「なっ……!? 伏兵だと!?」
先頭を駆けていた敵将が驚愕に目を剥き、手綱を引き絞る。
だが、後ろから雪崩を打って押し寄せる自軍の兵に押され、急停止などできるはずもなかった。
さらに足元は、事前に和紙の糊(トロロアオイの残滓)と泥水を流し込んで捏ね上げた、底なしの泥濘地である。
ズブブッ、と馬の足が泥に深く沈み込み、前列の兵たちが次々と折り重なるように転倒していく。
「退け! 一旦退けぇッ!!」
部隊長が叫ぶ。だが、その声は頭上から降り注いだ絶望の轟音にかき消された。
ドゴォォォォンッ!!
谷の入り口――敵の最後尾の頭上から、崖の上に待機していた非戦闘員(女・老人たち)が、太い丸太と大量のシラス岩を一斉に突き落としたのだ。
もうもうと立ち昇る白い粉塵の中、大姶良・橋口軍の退路は、完全に土砂と倒木によって物理的に塞がれた。
「……逃げ場はないぞ、大隅の猛者どもよ」
崖の上から見下ろす俺の背後に、楠行者衆の頭領・道純が音もなく歩み寄る。
三十名の山伏たちが、手にした強弓の弦をギリリと引き絞った。
「これより、一方的な制圧を開始する。……道純、射て」
「ははっ!」
ヒュンヒュンと風を切る矢の雨が、逃げ場を失い密集した敵の頭上へ容赦なく降り注ぐ。
島津海洋帝国の伝説となる「釣り野伏」の第一号が、今まさに大隅の谷底でその獰猛な牙を剥き始めたのである。
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