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第16話 泥の谷の決着と情報統制

本日4本目です。


冷え切った冬の風が、白いシラスの崖を吹き抜けていく。

谷底の泥濘に残ったのは、武装を解除された橋口軍の兵たち――およそ百数十名だった。

それ以外の者は矢や槍に倒れて動けなくなるか、あるいは崩落の混乱に乗じて命からがら谷の外へと逃げ散っている。

先ほどまで手柄首を求めて狂暴な雄叫びを上げていた者たちも、首魁である城代の嫡男を甚兵衛の丸太一撃で制圧され、退路を巨大な土砂で塞がれた今となっては、ただ恐怖に震えながら頭を垂れるしかない。

「……若君、これ、捕虜はどうすんですか?」

十文字槍の石突を泥に突き、肩で荒い息を吐きながら弥三郎(十八歳)が問いかけてきた。

その手甲は泥と返り血で黒ずみ、額から流れ落ちる汗が冷たい風に冷やされて湯気を立てている。

「皆殺しにして首を並べますか? それとも、本家(島津)に『大姶良の軍勢三百を討ち取った』ってドヤ顔で首実検を送りつけますか? ……まあ、本家は妾腹の八歳児が三百の敵を完封したなんて聞いたら、腰を抜かすでしょうけどね」

「バカ言え。そんなことをしたら、俺たちの首が明日飛ぶぞ」

俺――八歳の又八(幼名:楠千代丸)は、幼児特有の短い足で泥の地面を踏みしめ、薄板の指示書をパチンと叩いた。

前世の現場叩き上げ時代、競合や親会社に知られてはならない「極秘の新規ビジネスモデル」をどう秘匿するか、何度も情報管理計画を策定してきた。

戦国乱世において、「意図的に敵を誘引し、袋小路で包囲殲滅する戦術(釣り野伏の原型)」は、国家の存亡を左右する戦略機密だ。

(この戦術の存在を、外に漏らしては絶対にならない)

もし肝付側に「組織的な誘引伏兵だった」と知られれば、次は慎重に包囲・兵糧攻めを仕掛けられ、この小さな獅子目砦など一瞬で干殺しにされる。

そして何より、島津本家の三兄弟(義久・義弘・歳久)に「八歳の小倅が、高度な集団戦術で大軍をすり潰した」と知られれば、彼らは俺を「いずれ島津を脅かす恐るべき怪物」と認定し、刺客を放ってでも間引きに来るだろう。

「甚兵衛、弥三郎、道純。……これより、この合戦の『事実関係の偽装(隠蔽オペレーション)』を開始する」

「偽装……でございますか?」

甚兵衛が白髪混じりの髭を土埃にまみれさせ、目を丸くして身を乗り出した。

「敵将を制圧し、三百の敵を打ち破った大勝利じゃぞ! 蒲生八幡の御神木のご霊験、島津の御屋形様にも堂々と誇るべき手柄ではないのですか!?」

「爺様、だからあんたは脳筋っつってんでしょうがァッ!」

弥三郎が頭を抱えて怒鳴り散らした。

「本家は俺たちを『都合のいい捨て石』としてここに放り込んだんですよ! その捨て石が、自前の兵だけで三百の正規軍を叩き伏せたなんて報告したら、『あいつら裏でどれだけ兵を隠し持ってやがるんだ』って怪しまれて、本隊が討伐にやって来ますよ!!」

「……弥三郎の言う通りだ」

俺は頷き、三つの偽装方針を薄板に炭で書き殴った。

* 第一段階:捕虜への情報操作(敵方への偽装)

* 捕虜となった兵たちのうち、負傷者には手作り石鹸サボンと冷水で傷口を洗い清めさせ、軽傷の者は身ぐるみ(武器・具足)を剥いだ上で「即日釈放」する。

* 敵将(橋口但馬守の嫡男)は丁重に手当てし、大姶良城へ送り返す。

* 彼らに刷り込む敗因は――**「蒲生の山伏(楠行者衆)が祈祷で大雨と霧を呼び、険しいシラス台地の山崩れ(自然災害)に巻き込まれて部隊が自滅した」**というオカルトの伝聞に固定する。

* 第二段階:現場の証拠隠滅(物理的偽装)

* 谷底に掘った落とし穴や逆茂木、和紙糊トロロアオイの泥濘トラップを直ちに埋め戻し、ただの「崩落した土砂と流木」に見せかける。

* 崖の上の射撃陣地を解体し、木々を自然な状態へ偽装。

* 第三段階:島津本家への報告書作成(本家への偽装)

* 本丸へ送る注進状にはこう記す。

* 『敵襲に対し、出先砦を必死に防衛するも支えきれず無様に敗走。山中へ逃げ込んだところ、追撃してきた敵軍が折悪しくシラスの崖崩れに巻き込まれ、混乱したところを蒲生の残党が泥水すすって奇跡的に押し返したに過ぎず。味方の損害も甚大ゆえ、領地の維持には更なる支援が必要である』

「……ひ、ひえぇ……」

弥三郎がその計画書を覗き込み、背筋を凍らせて引き攣った笑いを漏らした。

「敵には『天狗の祟りと山崩れ』だと思わせて手出しを封じ、本家には『運よく山崩れで生き残っただけの無能な小勢』と見せかけて警戒を解く……。若君、あんた本当に八歳ですか? 腹の中が真っ黒すぎて、俺、もう誰を信じたらいいのか分かりませんよ!」

「生き残るためのリスク管理だ、弥三郎。……道純、行者衆を使って捕虜を解放しろ。山奥から怪しげな法螺貝を吹き鳴らし、天狗の怪異を演出して追い立てろ」

「御意にございます、若君」

道純が影のように頭を下げ、山伏たちを引き連れて谷の出口へと消えていった。

解放された橋口軍の兵たちは、武器を奪われ、薄暗い山林の奥から鳴り響く不気味な法螺貝の音に怯えながら、「獅子目の谷には天狗が棲む」「深追いすれば山が崩れて生き埋めにされる」と口々に叫び、命からがら大姶良城へと逃げ帰っていった。

――そして、数日後。

薩摩・島津本丸の大広間。

「……大隅の又八から注進が届いた」

長男・島津義久(三十三歳)が、届けられた書状を細い指先で弄びながら、静かに口を開いた。

その左右には、腕組みをする次男・義弘と、扇子を手にした三男・歳久が控えている。

「大姶良城代・橋口の手勢三百が獅子目へ攻め寄せたが……出先砦を落とした敵が山中へ深入りし、折悪しくシラスの断崖が崩落。指揮官が負傷して退却したとのことだ。又八らは泥にまみれて命からがら砦の残骸にしがみついておる由」

義久の淡々とした報告に、義弘が鼻を鳴らして吐き捨てた。

「ふん……。運のいい小倅よ。山崩れに助けられただけで、武功でも何でもないわ。やはり女子供と蒲生の残党など、戦の役には立たんな」

「まあ、そう邪険にされますな、義弘兄上」

歳久が扇子をパチリと閉じ、底知れぬ笑みを浮かべる。

「本隊が引き揚げた後の荒野で、八歳の童が泣き言も言わずに敵の足止めをしておるのだ。運であれ何であれ、大姶良の軍勢を追い払ったのであれば、本家としては『都合のいい防波堤』として十分に役目を果たしておるよ。……放っておけばよい」

義久は書状を脇へ置き、冷徹な漆黒の瞳で小さく頷いた。

「うむ。又八には、褒美代わりに古米十石を届けておけ。……勝手に生き残り、勝手に大隅の盾となっておればそれでよい」

本家首脳陣の審査は、無事に通過した。

少なくとも現時点において、彼らの認識の中で楠千代丸(又八)は「山崩れの幸運で辛うじて生き延びている、無害で哀れな捨て石」として位置づけられたのだ。

――その頃、大隅国・獅子目。

「……よし。ひとまず本家への目眩ましは通ったな」

白いシラスの断崖に囲まれた谷底で、俺――八歳の楠千代丸は、手元の薄板に新たな事業計画を書き込んでいた。

戦いは終わった。

だが、ここからが本当の始まりだ。

本家が「哀れな捨て石」と油断し、大姶良の敵が「天狗の棲む魔境」と恐れて手を出せない、この不可侵のエアポケットの中で――

俺たちは手に入れた石鹸の資金と、高隈山系の豊かな資源を使い、誰にも邪魔されない「不落の軍事特区と産業要塞」をゼロから組み上げていく。

和紙と椿油の量産、

シイタケと豚のレーション開発、

そして、いずれ訪れる戦乱の世を根底から覆す「近代的組織力」の構築。

「……弥三郎、甚兵衛、道純」

俺が顔を上げると、泥まみれになりながらも瞳に確かな野望の光を宿した男たちが、力強く頷いた。

「これより、飯隈・獅子目の本格開発を開始するぞ」

八歳の小さな背中に、滅亡した蒲生三百八十名の未来と、やがて九州を呑み込み世界へと覇を唱える「島津海洋帝国」の最初の礎が、力強く刻まれた瞬間だった。

第一部完です。

ここから楠行者衆と貴久とサボン、そして家久の外伝まではこのペースで進めてその後1日1作投稿が基本になると思います。

次は21時投稿予定です。

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