外伝 深山の大樹 ―蒲生修験暗闘録―第一話 霧島の飢狼
外伝です。楠行者衆で5話あります
冷え切った冬の風が、切り立った凝灰岩の裂け目を吹き抜けるたび、洞穴の天井から湿った小石がばらばらと音を立てて落ちた。
「……頭領。また一人、谷底へ落ち申した」
すすけた頭巾を目深にかぶった男が、濡れた筵をめくって這い入ってくる。
膝の布は擦り切れ、露出した向こうずねは霜焼けで赤黒く膨れ上がっていた。
焚き火の煙が重たく立ち込める岩屋の奥で、道純は無言のまま手元の小刀を動かし続けた。削っているのは、先刻まで凍りついていたクズの根だ。外皮の硬い繊維を削ぎ落とし、わずかに残る白い粉混じりの肉を木椀へ溜めていく。
「どこの奴だ」
「下谷の杢助でございます。……三日、まともに水しか腹に入っておらなんだ。山芋の蔓を探しに崖へ手を伸ばし、そのまま指がすっぽ抜けて」
小刀を動かす手を止めず、道純は低く息を吐いた。
「死んだか」
「息はありませぬ。……首の骨が折れており申した」
「そうか。崖下へ石を積んで埋めておけ。島津の番所に見つかるような煙は立てるな」
「はっ」
男が青白い顔で後ずさり、筵の向こうへ消える。
道純は削りかすの混じったクズの根をひとかけら口に放り込み、奥歯で噛み潰した。強烈な土臭さと渋みが舌の根に広がり、胃袋がきりきりと縮み上がる。唾液を絞り出すようにして飲み込むと、喉の粘膜が逆撫でされるような乾いた痛みが走った。
弘治三年(一五五七年)の春、蒲生城が落ちた。
大隅の名門として四百余年続いた蒲生家は、島津貴久の猛攻の前に本拠を焼かれ、当主の範清・茂清父子は北の祁答院へと逃れた。だが、その数年後には庇護先の内紛に巻き込まれ、父子ともに客死したと風の噂が届いた。
残されたのは、蒲生八幡の御神木たる大楠の懐に生きてきた、修験と山岳戦闘を本分とする楠行者衆――道純ら三十余名の生き残りだった。
他領へ逃れて別の戦国大名に仕官する道がなかったわけではない。
日向の伊東、豊後の大友、あるいは肥後の相良。腕の立つ山伏の忍びや山岳先導役であれば、雇い口を求める余地はいくらでもあったはずだった。
だが、彼らにはそれができなかった。
第一に、行者衆にとって蒲生八幡の神林と霧島山系の山々そのものが、神仏より預かった命の根源(修行の場)だったからだ。ここを捨てて他国へ移住することは、信仰の死を意味していた。
第二に、蒲生を滅ぼした島津による、徹底した街道封鎖と経済制裁である。島津は蒲生旧領の街道筋に厳重な番所を据え、山からの出入りを完全に禁じた。危険なゲリラ予備軍として、塩や穀物の山中への流入を一切遮断し、干殺しにする策を取ったのだ。
そして第三に、主君不在による起請文の縛りであった。かつて神仏の前で蒲生宗家と交わした血判の誓詞は、当主父子が他国で横死したことで、正式に契約を解く相手すら失われていた。主家を裏切って他家へ鞍替えすることも叶わず、行者衆はただ山中に縛り付けられた。
「頭領。塩の壺の底が、とうとう見え申した」
奥の暗がりから、骨と皮ばかりになった若い行者が、素焼きの小壺を差し出してきた。
底にこびりついた灰色の塩粒は、指の腹で撫でれば一度で消えてしまうほどしかない。塩が切れれば、足腰に力が入らなくなり、寒気に耐えられずに内臓から弱って死ぬ。
ここ数ヶ月、口にしたものといえば、苦いクズの根、松の甘皮、日陰に生えた毒気のない地衣類、そしてたまに罠にかかる野鼠や小鳥の生肉だけだった。
「……麓の村へ夜盗に出るか、頭領」
若い行者が、落ちくぼんだ両目を血走らせて呟く。
「島津の手が入った村です。麦蔵の一つや二つ、焼き払って奪えば――」
「ならん」
道純は即座に遮り、小刀の柄で若者の脛を打った。
「野盗に成り下がれば、島津に山狩りの大義名分を与える。今の大隅で本家の兵が山へ踏み込んできたら、刀を握る力すら残っておらん我らは一日で根絶やしだ」
「ですが、このままでは皆、杢助のように飢えて崖から落ちるのを待つだけでございます……!」
「待つのではない」
道純は立ち上がり、洞穴の隙間から冬の霧に煙る山肌を見下ろした。
蒲生の里の方向には、島津が据えた付け城の物見櫓が小さく見えている。
「死んだ真似をして、息を潜めるのだ。……蒲生の血が完全に絶えたわけではない。本丸の奥には、落城の際に捕らえられた姫様(千鶴)が生きておられると聞く」
「女子供一人で何ができましょう! ましてや島津の城の中で、手足を縛られたも同然の身の上……!」
「それでも、蒲生の根は絶えておらん」
道純は冷え切った指先で、首から下げた黒ずんだ木札を握りしめた。蒲生八幡の大楠の端材で作られた護符である。木札の表面は手垢と汗で磨かれ、鈍い光を放っていた。
「俺たちが山を捨て、野盗となって首を晒せば、蒲生の名は真に消える。……どんな泥水をすすろうが、木の皮を食い尽くそうが、この山にしがみついて生き残る。それが、御神木に命を預けた我らの務めだ」
若者は唇を噛み、涙の溜まった目で俯いた。
その腹の底から、ぎゅるぎゅると情けない飢餓の音が鳴る。
洞穴の外では、霧島の山嵐が吹き荒れ、梢を揺らす乾いた音が地鳴りのように響いていた。
手足の感覚はすでに麻痺し、吐く息だけが白く頼りなく散っていく。
いつ終わるとも知れぬ暗闇の底で、道純はただじっと、手元のクズの根を小刀で削り続けた。
やがて訪れるわずかな転機など、この時の山伏たちには誰一人として知る由もなかった。
次は朝7時の予定です




