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外伝 深山の大樹 ―蒲生修験暗闘録― 第二話 一握の米と大楠の芽

雨脚が強まるにつれ、山肌を滑り落ちる泥水の濁流が、洞穴の入り口に張られた古筵を激しく叩いた。

霧島山系の奥深く、獣道すら途切れた凝灰岩の裂け目。

道純は濡れた岩肌に背を預け、冷え切った指先を組んでじっと息を潜めていた。

岩屋の奥では、飢えで腹をへこませた若い行者二人が、湿気た枯れ枝を抱えて震えている。煙を上げれば島津の巡回に見つかるため、火を焚くことすら許されない。ただ、自身の体温が奪われていくのを待つだけの暗闇だった。

その時、雨音に混じって、足元の岩屑が微かに擦れる音がした。

道純の目が鋭く細まる。無言のまま腰の鉈の柄に指をかけ、音もなく立ち上がった。

獣の足音ではない。二足で歩く人間の、それも泥に足を取られながら無理やり登ってくる重たい足音だ。

「……誰じゃ」

低く濁った声を落とすと、筵の隙間から濡れた頭巾がぬっと押し入ってきた。

ずぶ濡れの麻衣、肩に食い込む太い麻縄。五十を過ぎた老躯を泥だらけにし、肩で荒い息を吐きながら這い入ってきたのは、見知らぬ武士だった。その背には、ずっしりと膨らんだ背負子が括り付けられている。

「……はぁ、はぁ……。ここが、蒲生八幡の御神木に連なる……楠行者衆の窟か」

男は荒い息の下から、掠れた声を絞り出した。

道純は鉈の切っ先を男の喉元へ向けたまま、身じろぎもせず見下ろす。

「いかにも。……何処の草だ。島津の手先か、それとも伊東の回し者か。こんな深山まで何の用で参った」

「草などと無礼なことを申すな!」

男は膝をついたまま、浅黒い顔を雨水で濡らしてカッと目を見開いた。

「儂は蒲生家の遠い分家、蒲生忠清……通称、甚兵衛じゃ! 亡きお館様より楠御前様のお守り役を仰せつかった老骨ぞ!」

「……楠御前様の、お守り役だと?」

道純の眉がわずかに動いた。

蒲生落城の折、城内から島津の本丸奥へ連れ去られたという、旧主の姫のことだ。

甚兵衛は息を整えようと胸を叩き、背負子の縄を震える手で解いた。

「これを見よ!」

どさりと湿った土の上に降ろされたのは、二つの粗末な麻袋と、丁寧に畳まれた古着の端切れだった。

甚兵衛が麻袋の口を乱暴に開けると、中から現れたのは、真っ白な米と、握り拳ほどの粗塩の塊だった。

「……米と、塩……?」

岩屋の奥で蹲っていた若い行者たちが、思わず息を呑んで身を乗り出した。

ここ数年、目にしたことすら怪しい本物の穀物の匂い。道純の喉が、意志とは無関係に乾いた音を立てて鳴った。だが、その視線はすぐに警戒の色を取り戻す。

「……なぜこれを我らに渡す。蒲生が滅びて六年に及ぶ年月、我らは島津に山を塞がれ、見捨てられた野良犬同然だ。いまさら島津の奥向きの者が、何の施しをしに来た」

「施しではないわい!」

甚兵衛が怒鳴り、洞穴の壁を拳で叩いた。その目には、大粒の涙が浮かんでいる。

「若君じゃ……! 楠御前様がお産みになられた若君、楠千代丸様からの言伝ぞ!」

「……若君?」

「そうじゃ。わずか五歳の若君が、敵の城の奥底で監視され、手足をもがれたような暮らしの中で、山奥で飢える同胞の苦境をお聞き届けになられたのじゃ……! そして、御自らの食い扶持を極限まで削り、母上様と共に集められた米と塩を、この甚兵衛に託されたのじゃ!」

甚兵衛は懐から、薄く削られた一枚の木板を取り出し、両手で捧げ持つように差し出した。

「若君はこう仰せられた……! 『我らが島津の軍門に降り、不甲斐ないばかりにお前たちに辛酸を舐めさせてすまない。里を支えるにはまるで足りぬ微禄だが、どうか飢えを凌いでくれ。蒲生の血が絶えぬ限り、共にある』――とな!」

静まり返る岩屋の中。

雨脚の音だけが、遠く外で轟いていた。

道純は差し出された木板を、泥まみれの指先で受け取った。

そこには墨ではなく、小刀の先で器用に刻み込まれた簡素な文字と、蒲生八幡の御神木を模した印が刻まれていた。

削り跡は迷いがなく、深々と木肌へ食い込んでいる。

(敵の膝元で……この山伏どもを、覚えておられたというのか)

道純の胸の奥底で、冷え切っていた血が音を立てて逆流するような感覚があった。

島津からは危険分子として街道を締め上げられ、他家からは関わりを恐れて見捨てられ、神仏への起請文を抱えたまま野垂れ死ぬのを待つだけだった自分たち。

その存在を、城の奥底で日陰の暮らしを強いられているはずの幼き主が、命を削って繋ぎ止めてくれたのだ。

「……頭領」

若い行者が、麻袋の中の米を恐る恐る指で撫で、声を詰まらせていた。

「俺たちは……見捨てられておらんかったのだな……」

「馬鹿者が、泣くでない」

道純は低く叱りつけたが、自らの奥歯を噛み締める顎にも、激しい震えが走っていた。

木板を裏返すと、そこには情愛の言葉とは打って変わって、極めて理詰めで無機質な刻み目が続いていた。

『一、霧島山中に自生するヤブツバキの実を集め、甚兵衛へ渡すこと。

 一、集めたる実は、屋敷より定額の米と塩をもって買い取る。

 一、大隅より日向へ抜ける間道を巡回し、島津および他領の動向を監視すること』

道純は目を細め、木板の刻み目をじっと見つめた。

「……これは、椿の実を集めろと?」

「そうじゃ」

甚兵衛が鼻をすすりながら、大きく頷いた。

「若君は、山伏の誇りを捨てて物乞いをせよとは仰せられぬ。お主らの山の足腰と知恵を、正式な役目として買い取る……契約を結ぶのだと仰せられた。集めた実の量に応じて、毎月欠かさず米と塩を山へ届けると!」

道純は乾いた唇を舐めた。

施しを受け取れば、その場限りの命拾いで終わる。だが、これは「役目」だ。

敵の城内にいながら、幼き若君は自分たちをただの残党ではなく、自らの手足となる山岳の番人として組み込もうとしている。

「……若君にお目通り願いたい」

「何っ?」

「この米の礼と、神仏に捧げる誓いを、直接若君の前で立てねば筋が通らぬ。……甚兵衛殿、城下の屋敷へ案内せよ」

「し、しかし島津の目付頭どもが見張っておるのだぞ! 見つかれば若君のお命が……!」

「俺たちを誰だと思うておる」

道純は首から下げた大楠の護符を握り締め、山野の獲物を射抜くような鋭い眼光を向けた。

「霧島の岩肌を跳ね、闇に紛れて息を殺すのが我ら行者衆の業だ。島津の番人ごときに足跡一つ踏ませはせん。……行くぞ」

――それから三日後の深夜。

降り続く雨が屋敷の屋根を静かに濡らす北の丸で、濡れ縁の雨戸が微かに軋んだ。

擦り切れた敷布から音もなく起き上がり、障子を細く開けると、そこには泥と雨水に濡れそぼった甚兵衛と、漆黒の蓑をまとった男が一人、獣のように低く蹲っていた。

四十がらみの引き締まった筋骨、風雪に晒された銅色の肌、そして顔半分に刻まれた古い刃傷。

男は頭巾を乱暴に剥ぎ取ると、濡れた板敷きに両手をつき、額を打ちつけるようにして平伏した。

「……蒲生八幡が神木、大楠の若木たる楠千代丸様。楠行者衆頭領・道純、御前に罷り越しました」

地を這うような野太いしわがれ声だった。

俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足で縁側に正座し、手元の薄板を膝の上に置いた。

「道純か。……山奥での辛酸、よく耐えてくれた」

「勿体なきお言葉……! 敵の城の奥深くにおわしながら、我ら捨て駒にまで目を配り、過分なる兵糧と役目をお授けくださった若君の御慈悲……行者衆一同、骨の髄まで沁み入ってございます」

道純は濡れた袖で顔を覆い、肩を激しく震わせた。

前世の思考回路は「これで最初の先行投資による連携は成立した」と冷徹に安堵の息を吐いていた。だが、目の前で骨と皮ばかりになって泣き崩れる男の熱さに、胸の奥がきゅっと痛む。

「道純、木板の指示通りに頼む。まずは霧島のヤブツバキの実を集め、甚兵衛を通じてこの屋敷へ運び込め。そして、大隅から日向へ抜ける間道の警戒も怠るな」

「御意。……霧島の山林の木々一本に至るまで、若君の耳目に仕立て上げてみせましょうぞ」

道純は顔を上げ、低く唸ると、音もなく闇の中へと溶けるように跳ね、夜の雑木林へ消え去った。

こうして、島津の監視の裏で、楠行者衆との極秘の兵站と情報網が動き始めた。

だが、山から届く原料を銭に変え、この屋敷を真の意味で成り立たせるためには、城内の監視の目を完全に欺く次なる仕掛けが必要不可欠だった。

次は12時投稿です

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