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外伝 深山の大樹 ―蒲生修験暗闘録― 第三話 影の盾と不可視の境界

本日2話目です

① 完成原稿

夜の帳が下りた鹿児島城・北の丸の雑木林。

湿った初夏の夜風が茂みを揺らす中、楠行者衆の頭領・道純は、樹上の枝に張り付いて呼吸を殺していた。

足元から十間(約十八メートル)ほど離れた土塀の影を、黒い装束をまとった男が音もなく移動していく。

島津宗家の隠密「くぐり衆」の草だ。腰の小太刀が鞘と擦れる微かな衣擦れの音、湿った土を踏むときの重心の掛け方。道純の耳は、暗闇の中に潜む監視者の位置を正確に捉えていた。

(本丸の目付が放った見張りは三人。裏木戸に一人、井戸端の抜け道に一人、そして塀沿いに一人)

道純は懐から、細い竹筒を取り出した。

息を潜めたまま、竹筒の先をゆっくりと庭木の間へ向ける。

島津のくぐり衆は、滅ぼされた蒲生の姫(楠御前)と、その子である五歳の楠千代丸が暮らすこの日陰の屋敷を、定期的に外側から覗き見ている。

だが、彼らがその目で見る光景は、すべて道純ら行者衆によって「用意された虚構」に過ぎなかった。

プッ、と小さく息を吹く。

竹筒から放たれた極小の乾燥種子が、塀沿いの草むらに落ちた。

数秒後、茂みの奥でカサリと不自然な音が鳴り、夜鳥がバサバサと鋭い羽音を立てて飛び立つ。

塀の影にいたくぐり衆が、反射的に視線をそちらへ向け、身を沈めた。

そのわずか数秒の死角を縫うようにして、屋敷の裏木戸から、ずっしりと重い背負子を担いだ弥三郎が音もなく滑り出ていく。

背負子の中に収められているのは、屋敷の裏庭で密かに漉き直された「蒲生和紙」の束と、行者衆が山から集めてきた大量のヤブツバキの実だ。

足音一つ立てず、弥三郎が暗がりを抜けて城下への間道へ消えるまで、くぐり衆の視線は道純が仕掛けた「夜鳥の囮」に完全に釘付けにされていた。

道純は口元に微かな冷笑を浮かべ、再び闇の中へと気配を溶かした。

霧島の険しい岩肌を猿のように駆け、獣の気配を読み、風の音と同化して生きてきた楠行者衆にとって、平地の屋敷を囲む城内隠密の配置など、手のひらの上の石ころを数えるようなものだった。

彼らは千代丸から授かった「最初の任務」――霧島の山林から運ぶヤブツバキの供給線を維持するため、北の丸の周囲に完璧な遮断壁を張り巡らせていたのだ。

くぐり衆の巡回刻限を逆算し、巡回ルートの死角にだけ連絡線を敷く。

甚兵衛や弥三郎が城内外を出入りする際は、小動物の鳴き真似や小石の投擲で監視の注意を逸らし、地面に残った足跡を消火用の木灰と濡れ箒で手早く均す。

島津本家が「北の丸の親子は、今日も貧相な長屋で女子供と大人しく引き籠もっている」と信じ切っていた裏で、行者衆は屋敷と外界を繋ぐ輸送路を完全に防衛し続けていた。

だが、どれほど行者衆が外側の目を塞ごうとも、身内が起こす「内側からの大事故」までは防ぎきれなかった。

――数日後の昼下がり。

北の丸の裏庭に、胃の腑を直接雑巾絞りにされたような、弥三郎の絶叫が轟いた。

「一番売っちゃいけない相手に、一番怪しい売り方してどうすんですかァァーーッッ!!」

庭先に腰掛けていた甚兵衛が、目を白黒させて耳を押さえる。

その後ろでは、竈の木灰を集めていた実直な侍女のまつと、二十歳のちよが、柄杓を取り落として固まっていた。

「な、何をそんなに怒鳴るんじゃ弥三郎! 儂は蒲生の誇りを胸に、堂々と商いをして参ったのじゃぞ!」

「その『堂々』が命取りなんだよォッ!」

弥三郎は頭を抱え、土間に膝をついて天を仰いだ。

事の発端は、屋敷の裏庭で試作に成功した「サボン(石鹸)」の行方だった。

チャドクガの毛虫に悶絶しながら絞った椿油と、竈の木灰から抽出した灰汁を煮溶かして固めた、切り餅大の泥石。

千代丸が「これを島津貴久への直接交渉に使い、合法的専売権をかすめ取る」と方針を決めていた矢先、手柄に逸る老臣・甚兵衛が、完成した試作品数個を懐にねじ込んで城下へ飛び出していってしまったのだ。

そしてあろうことか、島津本家の御用商人である問屋の番頭に対し、「蒲生八幡の御神木から採れた秘伝の霊薬じゃ」と大見得を切り、金十両という法外な値でふっかけて売り抜けてきたのである。

「甚兵衛様。まことに、本家の御用商人に売ってしまわれたのですか?」

障子の奥から現れた侍女長の岩崎が、血の気の引いた顔で低く問い詰めた。

「う、うむ。向こうの番頭も、最初は怪しんでおったがな。儂が『肌の傷もたちまち治り、水で洗えば白魚のようになる神仏の薬石じゃ』と湯水で泡立てて見せたら、目を剥いて金貨を差し出してきたわい」

「当たり前でしょうがァッ!」

弥三郎が立ち上がり、土煙を蹴り上げた。

「南蛮船しか持ってこない超一級の宝物を、落ちぶれた蒲生の残党がいきなり持ち込んできたんですよ!? 『どこから盗んだ』『裏で密造して蓄財しているのか』って、秒で島津の目付頭に報告が行くに決まってるでしょうが! ……僕ぁね! もう訴えますよ! 出るとこ出ますよ!!」

「何をわけのわからんことを喚いておるか弥三郎! 武士が主君を訴えてどうする! 謀反で打ち首になりたいのか!」

「わかってますよ! 訴える先がないからここで叫んでるんでしょうが!! なんで俺が、昼は暴走ジジイのケツ拭きして、夜は五歳の若君の指示で木炭の在庫管理をしなきゃならんのですか! この家は上から下まで全員アクセルしかついてねえんだよォッ!!」

二人の怒号が裏庭に木霊する中、縁側に座っていた俺――五歳の楠千代丸は、幼児特有の短い足で立ち上がり、手元の平たいヒノキ板をパチンと叩いた。

「二人とも、そこまでだ」

静かな声だったが、現場の空気を切り裂くには十分だった。

弥三郎が肩で息をしながら口を噤み、甚兵衛が気まずそうに白髪混じりの髭を撫でる。

(やれやれ。前世でもいたな、統制を無視して怪しい勝手営業をかけてくる暴走幹部が)

苦笑を喉の奥で噛み殺し、俺は縁側に広げられた墨まみれの薄板を見下ろした。

「弥三郎の言う通り、甚兵衛の独断専行は完全に手落ちだ。だが、起きてしまった事態を責めても欠品は埋まらん。起爆した導火線を逆手に取るぞ」

「逆手、でございますか?」

甚兵衛が眉を寄せる。

「御用商人が本家の目付頭に『蒲生が怪しい薬を売っている』と注進状を上げるのが先か、こちらから父上――島津貴久の懐に飛び込むのが先かのスピード勝負だ。『あれはオカルトの霊薬などではなく、島津の御家を潤すための新事業の試供品であり、老臣が先走って市場調査を行ってしまったに過ぎません』と事実関係を上書きする」

俺は岩崎とまつに向き直った。

「岩崎、まつ、ちよ。残っている最上質のサボン四個を、上等な蒲生和紙で隙間なく包め。弥三郎、お前は墨をすれ。父上に見せるための事業計画書を今すぐ清書する」

「へいへい! やりますよ、やればいいんでしょ! 墨すりゃあいいんだろ墨すりゃあッ!」

弥三郎が悪態をつきながら硯に向かい、部屋中が再び慌ただしい実務の熱気に包まれた。

その日の深夜、屋敷の天井裏。

暗闇の中で身を潜めていた道純は、梁の隙間から、灯行燈の明かりの下で木板に必死で筆を走らせる千代丸の姿を見つめていた。

島津のくぐり衆の目を外側から完全に塞ぎ、甚兵衛の暴走という特大の火種すらも、五歳の若君は冷静に「本家を巻き込むためのテコ」へと変えようとしている。

(この若君は、ただの蒲生の生き残りではない。山を動かし、国を動かす御方だ)

道純は濡れ蓑の下で、首から下げた大楠の護符を静かに握りしめた。

夜が明ければ、いよいよ島津の最高権力者・貴久を相手取った、命懸けの直談判が始まる。

行者衆の三十余名は、北の丸の木々の梢に散り、若君の背後を守る「影の盾」として、静かにその時を待っていた。


次は15時に更新します

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