外伝 深山の大樹ー蒲生修験暗闘録ー 第四話銭の重みと最初の月給
霧島山系の深い谷間を吹き抜ける夜風は、夏であっても肌を刺すように冷たい。
暗い岩屋の奥、燻る焚き火の微かな明かりの下で、道純は砥石に水を垂らし、長刀の刃を研ぎ澄ましていた。
シャッ、シャッ、と一定のリズムで鳴る水音。刃先を滑らせる指の腹は、幾重にも重なったタコと古傷で硬くひび割れている。
筵の掛けられた入り口の暗がりから、息を殺した気配が滑り込んできた。
「頭領。下谷の哨戒、交代いたしました」
若い行者が音もなく跪く。その腰には、かつてのような襤褸布ではなく、泥で染め抜いた麻の短い袴が巻かれていた。
「島津の番所の動きはどうだ」
「変化ありませぬ。夜間の篝火は二箇所。間道の抜け穴には気づいておりませぬ」
「油断するな。鳥の止まり木一つ折れても、足跡を残すなとあれほど言ったはずだ」
「はっ」
道純は濡れ布で刀身の鉄粉を拭い去り、鞘へと納めた。カチリと鳴る鯉口の乾いた音が、静かな洞穴に響く。
数日前、屋敷の天井裏から見届けた光景が脳裏に蘇る。老臣・甚兵衛の暴走によって生じた特大の危機を前に、五歳の若君・楠千代丸は怯むどころか、島津貴久への直談判によって局面を打開すると宣言していた。
(若君の知謀は疑うべくもない。だが……相手はあの島津貴久公だ。いくら若君とて、五歳の童を相手に本家がやすやすと利権を認めるものか……)
五歳の若君から最初の米を授かって以来、行者衆三十余名は山中のヤブツバキの実を集め、城下の屋敷へと送り届けてきた。
だが、それも限界が近かった。
若君が自らの食い扶持を削って工面してくれた米は、一人当たり日に一握りにも満たない。飢え死には免れたものの、山を駆け巡る行者たちの肉体は依然として削ぎ落とされ、骨の浮き出た手足でどうにか谷を渡っている状態だった。
(若君の御心には、生涯を賭しても報いねばならん。だが、もし本家との掛け合いが決裂していれば、冬を越せぬ者がまた出る)
道純が奥歯を噛み締めたその時、洞穴の外の枯葉がカサリと小さく鳴った。
続いて、夜鳥の短いつがい鳴きが二度。味方の符牒だ。
「頭領! 甚兵衛殿でございます!」
筵が大きく跳ね上げられ、背負子を担いだ甚兵衛が転がり込むように入ってきた。
五十を過ぎた老躯は汗みどろで、肩で激しく息を切らしている。だが、その背負子の縄を握る手は異様な力で固まり、白髪混じりの濃い髭の下で口元が大きく歪んでいた。
「甚兵衛殿。このような深夜に、また何十里の山道を駆けてきたのか。……若君の直談判は、どう相成った」
「道純……! 息が、息が切れそうじゃが……これを見よ……ッ!」
ドサリ、と湿った土の上に降ろされたのは、編み目の詰まった真新しい藁俵二つと、ずっしりと重い麻袋だった。
俵の隙間から、これまで見たこともない艶やかな穀物の香りが漂い出る。
道純は息を呑み、背負子の前へ歩み寄った。
「これは……」
「やってのけられたのじゃ……! 若君が、あのお館様(貴久公)の御前で見事にサボンの利を説き伏せ、直談判を成し遂げられたのじゃ!」
「成し遂げられた、だと……?」
「島津本家の専売事業として認めさせ、年三十石の扶持米と、銭二十貫文を正式に勝ち取られたのじゃぞ!」
静まり返る岩屋の中。
奥で横たわっていた若い行者たちが、弾かれたように身を起こした。
直談判に挑むと聞いてはいた。だが、まさか仇敵・島津の首魁を相手に、これほどまでの破格の条件を勝ち取って生還するなど、誰が想像できただろうか。
甚兵衛は震える手で麻袋の口を解き、中身を筵の上にぶちまけた。
ジャラララッ、と鈍く重い金属音が洞穴の岩壁に反響する。
現れたのは、幾重にも縄で通された、青黒い銅銭の太い束だった。欠けも錆もない、本物の銭の塊。
「若君は仰せられた……! 『米三十石のうち十五石は奥向きの者たちに。そして残る米十五石と銭二十貫は、すべて霧島の楠行者衆へ、山林の巡回手当および椿の買い取り代金として毎月確実に払い出す』――とな!」
甚兵衛は洟をすすりながら、懐から墨の匂いの残る木板を取り出し、道純の手へ押し付けた。
「これは施しではないのじゃ、道純! 若君が島津から合法的に毟り取られた、お主らの足腰に対する『月給』ぞ! 正真正銘、お主らが山で流した汗の対価じゃあぁぁっ!」
道純は手の中の木板を見つめた。
そこには五歳の幼児の手によるものとは思えぬ、狂いのない割符と、毎月の納品数、哨戒の担当区域、そして支払われる米と銭の数量が整然と刻み込まれていた。
指先で触れた銅銭は、ずっしりと冷たく、そして重かった。
「頭領……」
若い行者が這い寄り、俵の結び目を解いた。
中から溢れ出たのは、糠の混ざらない、真っ白に精米された島津本家の蔵米だった。
若者は震える指先でその白米を一握りすくい上げ、鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、そのままポロポロと大粒の涙を膝の上にこぼした。
「本物の白米だ……。木の皮でも、泥水で煮たクズの根でもない……本物の米だ……」
「馬鹿者が。泣くなと言ったはずだ」
道純は叱りつけたが、自らの喉の奥も熱い塊で塞がれていた。
蒲生が滅びて六年に及ぶ年月、他国へ逃げることも許されず、聖地にしがみついて飢えと寒さに震えていた日々。
世間からは野盗予備軍と蔑まれ、島津からは干殺しの封鎖を受け、ただ死ぬのを待っていた自分たちに、幼き主は生き延びるための「糧」だけでなく、武士としての「誇り」と「役目」を与えてくれたのだ。
しかも、それは後ろ暗い横流しなどではなく、仇敵・島津の金蔵から堂々と引き出された正規の俸禄だった。
「甚兵衛殿」
「何じゃ、道純」
「今夜は、この米を炊く。火を焚くぞ。煙を恐れて冷や飯を食う夜は、今日限りで終いだ」
道純は立ち上がり、洞穴の隅に積まれていた薪を躊躇なく焚き火の中へ投げ入れた。
パチパチと乾いた爆ぜる音が鳴り、紅蓮の炎が洞穴の岩肌を照らし出す。
素焼きの平釜に山水が注がれ、惜しげもなく白米が放り込まれる。
立ち上る湯気。甘く香ばしい飯の匂いが、何年もの間、湿気とカビと血の臭気に満ちていた岩屋の隅々まで満ちていった。
炊き上がった熱々の白米を、行者たちは木椀に山盛りに盛り、粗塩をひとつまみ振って無言で口へかき込んだ。
咀嚼するたびに広がる、純粋な穀物の甘み。
胃の腑が熱を帯び、冷え切っていた手足の末端まで、ドクドクと力強い血が巡っていくのが分かった。
「うめぇ……うめぇよ、頭領……」
若い行者が椀を抱えたまましゃがみ込み、声を上げて泣いた。
誰もそれを咎めなかった。道純もまた、熱い米を奥歯で噛み締めながら、炎の向こうの暗闇を見据えていた。
腹が満ちれば、力が出る。
力が戻れば、この山林のすべてを支配できる。
飯を食い終えた道純は、手元の木板を懐に収め、首から下げた蒲生八幡の大楠の護符を強く握りしめた。
「甚兵衛殿。若君にお伝えくだされ」
「うむ、何と申す?」
「行者衆三十余名、これより霧島から大隅、日向の国境に至る山々を、すべて若君の手の平の上へと仕立て上げまする。敵の一兵たりとも、若君の許しなくこの山を踏み越えさせることはありませぬ」
道純の双眸に、かつてない冷徹で獰猛な光が宿っていた。
飢えた野良犬の時代は終わった。
島津本家の膝元で、幼き怪物が放った最初の「資本」によって、戦国最強の山岳特殊部隊がその鋭い牙を研ぎ澄まし始めていた。
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