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外伝 深山の大樹 ―蒲生修験暗闘録―第五話 表の物流、裏の樹根

楠行者衆の外伝はこれで終わりです。

北の丸の裏木戸を、一台の大八車が軋んだ音を立ててくぐり抜けた。


荷台にうずたかく積まれているのは、霧島山系から運び込まれた黒々としたヤブツバキの実が詰まった麻袋の山だ。 それを曳くのは、麻の作務衣に身を包んだ道純と二名の若い行者衆。腰の山刀は紐で固く結わえられ、手には槍ではなく荷縄が握られている。


土塀の角から、島津の「くぐり衆」の黒装束がじっとその様子を見つめていた。 だが、かつてのような刺すような殺気はない。手元の帳面に「霧島の山伏、椿の実・十俵を納入」と淡々と筆を走らせると、草はそのまま音もなく背後へ消えていった。


裏庭の縁側に腰掛け、短い足をぶらつかせながら帳簿をめくっていた俺――六歳の楠千代丸は、手元の薄板を指先で弾いて小さく息を吐いた。


「……監視の目が、完全に『検品』の目に変わったな」 「へいへい。見てるこっちは心臓が縮み上がりそうですけどね」


隣で木炭の粉を掃き集めていた弥三郎(十六歳)が、首筋の古傷をポリポリと掻きながら深いため息をついた。


「最初は『蒲生の残党が怪しい動きをしてるんじゃねえか』って、くぐり衆どもが昼夜問わず庭木に張り付いてたってのに……。いまや『ああ、今日もサボンの原料運びか。ご苦労なこった』ですからね。若君、あんた本当に何をやったんです?」 「何も怪しいことはしていないぞ。ただ、正面玄関から通しただけだ」


俺は薄板の墨書きを見つめ、前世の流通コンサル時代の記憶を思い返して微かに苦笑した。


隠密や間諜のネットワークを維持しようとすれば、普通は「いかに敵の目を欺いて裏口から忍び込むか」に腐心する。だが、隠れれば隠れるほど、相手の防諜網は警戒度を跳ね上げる。 ならば最初から「隠す必要のない公然たる理由」を与えてやればいい。


父・島津貴久から「サボン専売権と仕入れ差配の手数料」を公認させたことで、この屋敷と霧島を結ぶ連絡線は、一晩にして「怪しい残党の抜け道」から「島津本家公認の原料調達網」へと塗り替わったのだ。


島津の目付頭やくぐり衆がどれほど疑って調べようとも、出てくる事実は極めて潔白だ。 山伏たちは実際に山林から大量の椿の実を採取して運び込み、屋敷はその対価として貴久公認の米と銭を「手当」としてきっちり払い出している。受け取った山伏たちは、銭を懐に収めて大人しく山へと帰っていく。


偽装が嘘偽りのない「本物の経済活動」である以上、島津側にはこれを咎める理由も、過剰に見張る理由も存在しない。


――だが、この完璧な表の物流網の「ついで」として、裏の作戦は凄まじい精度で回り始めていた。


「……若君。今月の仕入れ分、すべて納め申した」


道純が草履の泥を落とし、縁側の前に音もなく跪いた。 かつて骨と皮ばかりで飢えに震えていた男の肌には血色が戻り、その双眸には野武士の獰猛さと、組織化された職人の冷徹な光が宿っている。


「道純、ご苦労だった。……山の方の『ついで』の検分はどうなっている」 「はっ」


道純は懐から、薄く削られた竹札の束を取り出し、手際よく縁側へ並べた。 そこには、五歳の俺が指示した書式に従い、霧島から大隅、日向の国境沿いに至る山岳カルテが細密に刻まれていた。


「霧島南麓の抜け道三箇所、すべて行者衆の巡回路に組み込み申した。日向・伊東領との境にある間道には狼煙台を二箇所据え、敵の斥候が動けば半刻でこちらの耳に入りまする。……また、大隅南部の肝付領、高山から大姶良へ抜ける山道も、木こりに扮した配下が地形と水源をすべて書き留めてございやす」 「よし。……山伏の足で椿の実を拾い歩くついでなら、どこの領主の山番に見つかっても『実を集めて島津の城へ納める商人坊主だ』と言い逃れができるからな」 「へえ。島津の鑑札を堂々と見せてやると、敵方の番小屋の役人も怪しみもせず通しやす。……飯の心配がなくなり、銭をいただけるとなれば、若い者どもの足取りも以前とはまるで違いやすぜ」


道純はそう言って、首から下げた蒲生八幡の護符を撫で、口元をわずかに緩めた。


彼らはもはや、山奥に追い詰められて死を待つ「滅びた蒲生の亡霊」ではない。 若君から正式な手当を受け取り、自らの山岳技能を誇り高く売り渡す「専門技術集団」として山を闊歩しているのだ。 精神の尊厳を取り戻した人間が発揮する組織力は、ただの義理や脅迫で動く忍びの比ではなかった。


そこへ、台所の方から太い声を上げながら甚兵衛が駆け寄ってきた。


「道純! 今月の米の勘定板じゃ! ほれ、奥向きから焼き塩も二壺つけておいたぞ! 若君の御慈悲、腹の底まで染み渡らせて山へ持ち帰るがよい!」 「……甚兵衛殿、声が大きゅうござる。島津の番人に筒抜けになりやす」 「何を言うか! 堂々と商売をしておるのじゃ、隠すことなど何一つないわい!」


甚兵衛が浅黒い顔を紅潮させて胸を張る横で、弥三郎が「はいはい、爺様の相手は俺がしますから」と割り込み、俵の積み込みを手際よく指図し始めた。


(……表の調達網が強固であればあるほど、裏の情報網は誰の手にも触れられない不可視の領域になる。これなら、いずれ島津本家からどんな理不尽な辞令が下ろうとも、先手を打てる)


縁側から見上げる空は高く、霧島の山並みが青く澄んで見えていた。


この二年後――永禄九年(一五六六年)。 島津本隊による高山城急襲の余波を受け、俺たち蒲生残党が大隅の最前線「獅子目」という絶望的な飛び地へ放り込まれるその瞬間まで、この目に見えぬ「影の樹根」は、大隅の山林の奥深くへと静かに、そして確実にその根を張り巡らせていくのであった。

次から貴久とサボンの外伝3話です。


次は21時投稿予定です。

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