老雄の愛憎 ―島津貴久と日陰の五男― 第一話 泥遊びの値踏み
貴久と楠千代丸のサボンの「談判」のその後です
本丸の私室から下がって三日、北の丸の長屋には奇妙な静けさが戻っていた。 だが、それは嵐が去った平穏ではない。巨大な歯車が音を立てて噛み合い、島津という組織そのものが動き出したことによる、張り詰めた静寂だった。
縁側に座り、膝の上で削りかけの薄板を指先でなぞる。 六歳の身体は相変わらず小さく、板の端を押さえるだけで指の関節が白くなった。
「……若君、また帳面ですか」
庭先で木炭の粉を篩いにかけていた弥三郎(十六歳)が、煤で汚れた手拭いで首筋を拭いながら、呆れたように息を吐いた。
「本家から米十五石と銭二十貫が届いて、道純たち山伏への仕送りもきっちり通ったんでしょう? もう泥水すすってサボンをこねる必要はないじゃないですか。あとは大人しく、奥向きで母上と温かい汁でもすすってりゃいいんです」 「手配が済んだからこそ、次の出庫と在庫の数字を固めておくんだよ。……現場が手を止めた瞬間、資材の滞留が起きて欠品になる」 「けっぴん? また始まったよ、若君の訳の分からん呪文が」
弥三郎は肩をすくめ、手元の竹籠を地面に置いた。
(……つい、前職の資材管理の癖で口が滑る。こんな時代にまで在庫回転率を気にするとは、業が深いな)
俺は苦笑を噛み殺しながら、板に炭で刻まれた数字を見つめ直した。 俺が父・島津貴久に持ち込んだのは、あくまで「首を刎ねられないための防衛策」だった。 甚兵衛が城下の御用商人にサボンをフライング営業してしまった失態を揉み消し、「これは脱税でも私利私欲でもなく、島津本家の専売事業の試作でございます」と事実関係を上書きする。 製造と販売のリスクはすべて島津本家へ丸投げし、自分たちは安全圏で合法的な考案料(固定給)を抜く。 前世で言えば、零細ベンチャーが大手親会社に特許を買い取らせ、ライセンス料で食いつなぐようなものだ。
それで一件落着――のはずだった。 だが、あの五十手前の歴戦の大名・島津貴久は、五歳児が差し出した泥臭い試作品を、俺の想定を遥かに超えるスケールで「化け物」へ仕立て直そうとしていた。
――その日の午後。
本丸の奥、蔵奉行所の一室に、俺は再び呼び出されていた。 呼び出されたのは俺だけではない。 部屋の中央には、縮緬の豪奢な羽織を着流した肥満体の男――城下の島津筆頭御用商人である山形屋の当主・嘉兵衛が、油汗を額に浮かべて平伏していた。 その脇に、本家の蔵役人と、目付頭が険しい顔で控えている。
そして上座には、島津家当主・貴久がどっかりと胡坐をかいていた。 膝の上には、俺が献上したあの切り餅大のサボンと、木灰から抽出した原料の壺が並べられている。
「嘉兵衛」
貴久の低く太い声が、板敷きの部屋を震わせた。
「は、ははっ……! 大殿におかれましては、お呼び立ていただき恐悦至極に存じます……!」 「先日、奥の老いぼれ(甚兵衛)がお前の店へ持ち込んだという泥石……金十両で買い取ったそうだな」
ピシリ、と空気が凍りついた。 嘉兵衛の背中が目に見えて震え、畳に擦り付けた額から汗が滴り落ちる。
「め、滅相もございませぬ! あれは……その、南蛮渡来の奇貨と見受けられましたゆえ、手前どもの浅慮にて、つい味見にと……!」 「責めてはおらん」
貴久は短く吐き捨て、手元のサボンを指先で転がした。
「むしろ、その値踏みは正しい。……嘉兵衛、博多や堺の会合衆どもが、南蛮船からこの石をいくらで買いもとめておるか、知っておるか」 「は……。南蛮船の持参するサボンは、一塊で銀十匁から十五匁、上等の細工物ともなれば金一両を越える値で取引されております」 「左様。南蛮渡来の至宝ゆえ、京の公家や有力大名ですら、手に入れるのに血眼になる幻の薬石よ」
貴久は冷笑を浮かべ、畳の上の泥石を顎でしゃくった。
「これを、島津の手で量産する」
嘉兵衛が息を呑み、弾かれたように顔を上げた。
「りょ、量産……!? 国産処方を、手前ども薩摩の地で立ち上げるのでございますか!?」 「そうだ。原料の仕込みと差配は、奥の又八に任せてある。……だが、嘉兵衛。ただ作って町屋へ垂れ流すような真似は許さん」
貴久は片膝を立て、鋭利な眼光を商人へ突きつけた。
「このサボン、二つの品に分ける」
(……二つに分ける?)
控えていた俺は、内心で眉をひそめた。 俺が木板に描いた計画書では、単一規格の石鹸を大量生産し、スケールメリットで原価を押し下げて堺や博多へ流す「薄利多売のコモディティ戦略」を想定していた。 だが、貴久の口から出た構想は、まったく別の次元にあった。
「一つは、城下や領内の庶民、さらには他国の足軽どもへ売り捌く『普及品』じゃ」
貴久は太い指を一本立てた。
「油は質の落ちる雑油を使い、木灰の灰汁も手荒く煮詰めよ。形も不揃いで構わん。匂い消しの香も入れず、ただ垢と油が落ちるだけの無骨な泥石とせよ。銭十文から二十文の安値で、領内の鍛冶屋や染め物屋、兵の傷洗い用に売り捌く」
嘉兵衛が目を丸くする。
「へ、へえ……。安値で流せば、町人や百姓も飛びつきましょうが……それだけでは大した利には」 「本命はもう一つじゃ」
貴久はもう一本の指を立て、手元の白く滑らかな試作品を持ち上げた。
「極上のヤブツバキの油のみを用い、灰汁を何度も晒して白く澄ませよ。そこへ南蛮渡来の伽羅や白檀の香を練り込み、蒲生の特製和紙で隙間なく包む。木箱には『島津御用・薩摩霊石』の焼き印を打て」 「し、島津御用……!」 「これを、年にわずか三百個に絞る」
貴久の口元が、冷徹な統治者の笑みに歪んだ。
「博多や堺の豪商、さらには京の近衛殿をはじめとする摂関家、そして足利将軍家や有力大名への『進物(外交贈答)』としてのみ流すのだ。市中には一切出さん。銭をいくら積まれようと、島津の許しなき者には一欠片たりとも売るな」
(……流通量の制限による、人為的なプレミアム化か……!)
俺は背筋に冷たいものが走るのを覚えた。 下位モデル(普及品)を意図的に粗悪にし、領内の実需を押さえつつ「石鹸という存在」の認知を広げる。 その一方で、上位モデル(島津御用)は徹底的に品質を極限まで高め、供給を極端に絞り込むことで「持っていること自体が最高の身分証明」となる外交兵器へと昇華させる。
誰でも買える高級品は、高級品ではない。 下位の粗悪品が存在するからこそ、上位の「島津御用サボン」の希少性と権威が、何倍にも跳ね上がるのだ。
(……現代の高級ブランドの市場支配戦略を、この戦国大名は直感と統治知だけで組み上げてやがる……!)
俺が「生き残るための小遣い稼ぎ」として持ち込んだビジネスモデルを、貴久は一瞬で「島津の家格を押し上げ、中央の権力者たちを懐柔するための戦略物資」へと作り変えてしまったのだ。
「嘉兵衛、分かったな」
貴久が立ち上がり、大柄な影が平伏する商人を覆い尽くした。
「へへっ……! 畏まりましてございます! 上方への工作、手前どもが命に代えて差配いたしまする……!」
嘉兵衛が額を畳に擦り付け、部屋を下がっていく。 役人たちも退室し、私室には俺と貴久の二人だけが残された。 張り詰めた沈黙の中、貴久がゆっくりと振り返り、冷徹な眼光の奥に、どこか悪戯っぽく笑うような光を浮かべて俺を見下ろした。
「……どうじゃ、又八。貴様の考えた泥遊びも、儂の手にかかれば少しは役に立つであろう」
明日は7時に投稿します。




