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第五部終了『蒼溟の覇王 ―島津海洋帝国記―』 〜「死んだら売上ゼロだろ」 戦国薩摩の捨て石から、畳の上で死ぬために組織と兵站を組んで海洋覇権を握るまで〜  作者: 堀川うつら
第4部 大隅制覇と耳川の戦い

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第68話 国境の竹砦と楠の遠眼鏡

天正二年(一五七四年)六月。

日向と大隅の境を縫う財部・末吉の尾根筋は、濡れ雑巾のような梅雨雲に低く閉ざされていた。

黒土と腐葉土が混じり合った赤粘土の尾根道は、大雨を吸って底なしの泥濘と化している。足を踏み出すたびに長靴代わりの藁沓が泥に呑まれ、草鞋の緒が千切れかける鈍い音が湿った空気へ響く。

熊笹を掻き分けた尾根の突端で、猪之助の怒号が響いた。

「ほら引けェッ! 杭頭の高さを揃えろ! 隙間に竹蛇篭を叩き込めッ!!」

樫の大槌が、等間隔に打ち込まれた孟宗竹の親杭の頭を叩き潰す。

ドスン、と湿った地響きが谷底へ抜けていく。

普請の現場に積まれていたのは、丸太の皮を剥いで縄で縛り上げるようなこれまでの防壁材ではない。

飯隈の作業場に据えられた水車鋸によって、同一の長さに切り揃えられた極太の孟宗竹。それを割って荒く編み込み、川原の拳大の割石をみっちりと詰め込んだ組み立て式の竹蛇篭だ。

泥の斜面に打ち込まれた竹杭の溝へ、男たちが息を合わせて蛇篭を落とし込んでいく。石と石が擦れ合うじゃりりという重い軋みとともに、背丈を超える二段の防壁が、まるで石垣の規格ブロックのように尾根の稜線を塞いでいった。

「信じられねえ速さだな」

濡れた杉の切り株に腰を下ろし、大太刀の鞘に肘を預けていた島津又七郎家久が、呆れたように唇を歪めた。

「朝方に資材の荷車が着いたばかりだぞ。半日も経たぬうちに、背丈を超える二段の防壁が尾根を丸ごと塞ぎおった。これなら、敵が攻め寄せてきた後からでも砦を生やせるではないか」

「生やすのですよ、兄上」

傍らで油紙を広げ、墨引きの割付図を確かめていた崇清が、顔も上げずに指先で泥を払った。

「丸太を伐採して現場で削るから、労役の兵が疲弊し、普請に月単位の時間がかかるのです。飯隈の水車動力で竹を規格通りに切り落とし、組み立て式の蛇篭にして運んでくれば、現場の仕事は並べて石を詰めるだけになる。工程の無駄を徹底して削ぎ落とせば、防衛線は敵の行軍速度を上回る速さで前進できるんです」

「くくっ、相変わらず血も涙もない理屈よ」

家久が獰猛に笑い、手にした孟宗竹の筒――冷えたよもぎエールをぐぶりと喉へ流し込んだ。

麦角の青臭い苦味とよもぎの渋みが、雨水で冷え切った口内を洗い流す。

「だが、この苦い麦酒のおかげで職人どもがバテん。泥水をすするより余程力が出るわ」

「若君、麦酒は結構ですがね!」

泥跳ねで前掛けを墨汁のように汚した弥三郎が、懐の算盤を抱え込んで喚き散らしながら駆け寄ってきた。

「前線にこんな立派な竹砦をいくつも建て増しして、竹材の消費量が跳ね上がってますよ! しかも向こうの伊東の斥候どもが、山向こうの茂みから蠅のように湧いてきて、こっちの作業を覗き見してるじゃありませんか! 矢でも射掛けられたらどうするんですかァッ!!」

弥三郎が突き出した指の先、深い谷を隔てた対岸の尾根林――白く煙る雑木林の切れ間に、濡れた笠を深く被った伊東方の物見らしき人影が二つ、三つと蠢いていた。

だが、その影は決して間合いを詰めようとはしない。

「心配いりませんよ、弥三郎殿」

背後から、濡れた下草を踏みしめる硬い足音が近づいてきた。

現れたのは、泥にまみれた陣羽織の裾を括り上げた山田弥蔵有栄だった。新納院高城の城将・山田有信の嫡男であり、この日向国境一帯の間道と地勢を骨の髄まで知る若武者である。

「伊東の物見どもは、ただ震えて見ていることしかできませぬ」

有栄は崇清の前で会釈し、谷向こうの稜線を顎で指した。

「父・有信の手の者が調べましたところ、都於郡城の伊東義祐公は、この境目に一夜にして現れた青竹の巨壁を見て、完全に動揺しております。『島津はいったい何千の兵を山中に伏せているのだ』と。普請の速さそのものが、敵の指揮系統を麻痺させる最大の心理戦となっておりますぞ」

「敵が手を出せないなら、こちらの偵察を一段進める」

崇清は図面を畳み、砦の中央に組み上げられた三丈の物見櫓を見上げた。

「道純」

櫓の板葺き屋根の影から、墨染めの蓑をまとった道純が音もなく滑り降りてきた。

その両腕には、脂の浮いた革紐で何重にも巻き固められた、分厚いクスノキの長箱が抱えられている。

「仕上がっております、崇清様」

道純が片膝をつき、真鍮の掛け金を外して蓋を押し開けた。

収められていたのは、濡れた光沢を放つ漆塗りの太い木筒――真鍮の箍で鏡胴を締め上げられた「遠眼鏡」だった。

家久が眉を跳ね上げ、獲物を嗅ぎつける獣のような目で身を乗り出す。

「なんじゃ、その南蛮の筒は? 大砲の筒にしては細すぎるぞ」

「大砲ではありません。光を集め、遠くの景色を引き寄せる硝子の筒です」

崇清は慎重に遠眼鏡を持ち上げた。

京都の烏丸茶房を通じて、島津歳久が公家界隈や堺の南蛮商人から秘密裏に買い付け、大隅へ転送してきた特級機材である。レンズそのものは南蛮渡来の磨き硝子だが、南九州の多湿と振動に耐えうるよう、飯隈工房の木工班が狂いのない油抜きクスノキの鏡胴を削り出し、蜜蝋と生漆で水密加工を施して組み上げた現場仕様の実用品だ。

崇清は梯子を登り、櫓の最上段の手すりに肘を固定して、接眼レンズに右目を当てた。

油で固められた真鍮の螺子環を、指先で微細に回す。

レンズの円窓の向こう――白く煙る雨霧が円形に切り取られ、一里半(約六キロ)先、深い谷を挟んだ急峻な尾根に構えられた伊東方の前進拠点・三ツ山砦の姿が、ぬっと引き寄せられた。

肉眼では単なる緑の稜線と、門前の人影が一つの黒点にしか見えなかったものが、円窓の奥では「具足を着けた侍」として明確に判別できる。

顔の表情までは見えない。だが、門前に立つ番兵の人数、掲げられた伊東の旗印、そして土蔵の前へ運び込まれる駄賃馬の荷姿なら、十分に識別できた。

「人数と荷駄の数なら、完全に数えられるな」

崇清の瞳に、冷徹な観察者の光が灯る。

「おい又八! 儂にも見せろ!」

横から腕を割り込ませて筒を奪い取った家久が、接眼部に目を押し当てた次の瞬間、「うおっ!?」と短く息を呑んで櫓の手すりを強く掴んだ。

「な、なんじゃこれは! 敵の砦の侍が、すぐ目の前の谷底に立っておるように見えるぞ! 門前の槍の穂先まで数えられるではないか! 化け物の眼術か!?」

「静かにしてください、兄上」

崇清は苦笑しながら、手元の薄板を引き寄せた。

「道純、三ツ山砦の兵糧庫の前に積まれている荷の数が、先月に比べて明らかに減っている。入ってくる駄賃馬も痩せ細り、兵たちの足取りに締まりがない」

「左様にございます」

道純が低く応じる。

「志布志と高須から日向南部へ流し込んだ白塩、そして身体を温める唐芋焼酎の引力にございます。日向の百姓や土豪どもは、伊東へ納めるべき米や雑穀を隠し、山越えの闇市で島津の塩や酒と次々に交換してしまっております。伊東義祐が前線へ送るはずの糧米は、城の蔵へ届く前に途中の村々で吸い取られ、消滅しているのでございます」

必需品である純白の塩と、寒さを吹き飛ばす高濃度酒の魔力。生きていくために不可欠な現物の引力が、伊東の兵糧を山道で行方不明にさせていた。

崇清は遠眼鏡を木箱へ納め、濡れた山並みを見据えた。

自重で崩れかけている敵の領国に、こちらから無理をして攻め込む必要はない。防衛線を張り出し、目と耳を澄ませておくだけで十分だった。

そのとき、頭上の雨雲が裂けた。

梅雨の晴れ間から、初夏の暴力的な陽光が濡れそぼった谷間へ容赦なく叩きつけられる。

湿地帯に溜まった泥水が一気に熱せられ、白い湯気となって立ち上った。谷底から吹き上がってきたのは、生ぬるい蒸し風呂のような息苦しい熱気だった。

「おい、権太? どうした、返事をしろ!」

砦の普請現場から、職人の動転した叫び声が上がった。

泥水の中で大槌を振るっていた屈強な工兵が、足元を激しくふらつかせ、大槌を取り落としてその場に膝を突いていた。

顔面は異様なほど赤く上気しているにもかかわらず、皮膚はカサカサに乾き、汗が完全に止まっている。

「息が……あ、が……」

工兵は焦点の定まらない目で宙を睨み、四肢の筋肉をピクピクと痙攣させながら、白目を剥いて砂利の上へ横倒しになった。

「水だ! 井戸水を飲ませろ!」

仲間が駆け寄って竹筒の水を口へ注ぎ込もうとするが、意識が混濁した男の喉は水を受け付けず、激しく咳き込んで泥水の上へ吐き戻してしまう。

さらにその横で、丸太を担いでいた別の水主が、滝のように吹き出す脂汗に顔を歪めながら突然その場に嘔吐し、胃液をぶちまけて前のめりに突っ伏した。

少し離れた土嚢の脇でも、若い足軽が「足が……攣って動かん……!」と激痛に顔を引きつらせ、太ももを押さえて転げ回っている。

一度に三人、四人――それぞれ異なる症状を露わにしながら、現場の人間が次々と機能を停止させていく。

「若君ッ! 職人たちが次々に倒れていきやす!」

猪之助が血相を変えて叫ぶ。

熱中症の集団発生――急激な高温多湿下での、電解質喪失と体温調節機能の同時多発的な崩壊だ。

崇清は櫓を駆け下りながら、戦慄を覚えた。

竹材は規格化できる。

輸送も管理できる。

兵站も敵情も、すべて数字と図面に落とし込める。

だが――そのシステムを現場で動かしている生身の人間の肉体だけは、工程表の計算通りには動いてくれない。

酒を飲ませて士気を煽り、冷たい井戸水を流し込めば治るという段階を、酷使された人体の限界は疾うに越えていた。


熱中症は恐ろしいですね。

次は19時投稿予定です

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