第67話 畦道の苦草と琥珀の泡立ち
天正二年(一五七四年)五月。
大隅の山河を吹き抜ける風が初夏の匂いを運ぶ頃、飯隈と獅子目の段々畑では、黄金色に熟れ切った大麦が一面に波打っていた。
「麦だ。大麦が、こんなにも採れちまった……」
飯隈の勝手場の裏手で、弥三郎が算盤を膝に抱え込み、天を仰いで呆然と呟いていた。
「冬は唐芋の山で、春の終わりには大麦の海ですよ。しかも若君が『発芽させて乾かせ』なんて妙な指図をするから、蔵じゅうが麦芽の甘い匂いで充満して、近所の蜂が集まってきてるじゃありませんか!」
だが、当の崇清は弥三郎のボヤキなど耳に入っていなかった。
手元の素焼きの皿に盛られているのは、獅子目工房の純粋黒豚ラードでカラリと狐色に揚げられた、熱々の「豚肉の唐揚げ」とカツレツの原型である。
サクッとした衣を噛み締めれば、上質な豚肉の濃厚な脂と高須の白塩の旨味が口いっぱいに広がる。
美味い。だが、足りない。
崇清の脳髄が、前世の記憶を呼び覚まして激しく軋んでいた。
脂っこい揚げ物を胃袋に流し込むたびに、喉が、食道が、全身の全細胞が狂おしいほどの渇望を叫んでいる。
ビールだ。冷たくて、喉を痛いほど刺激する炭酸があって、そして何より――あの脂っこさを一瞬で洗い流す強烈でキレのある苦味が欲しい!
冬に造った唐芋焼酎は、身体を温めるには最高だった。だが、度数が高すぎて揚げ物と一緒にゴクゴクと喉を鳴らして飲む酒ではない。
この熱い油と肉の塊を受け止めるには、冷えた琥珀色の、あの苦い炭酸麦酒でなければならないのだ。
ホップはない。だが――。
崇清は前世の醸造史の知識を猛烈な勢いで手繰り寄せた。
中世ヨーロッパにおいて、ホップがビールの防腐・苦味付けの主流となる前、人々は「グルート」と呼ばれる自生の薬草を組み合わせて麦酒を造っていた。
そのグルートの主原料こそが――マグワート。すなわち、日本のあぜ道にどこでも生い茂っている「ヨモギ」である。
「弥三郎! 甚兵衛爺様と子どもたちを呼べ!」
崇清が唐揚げを飲み込み、立ち上がった。
「へ? ま、また何か始める気ですか!?」
「あぜ道や土手に生えている春の若ヨモギを、筵いっぱいに刈り集めさせるんだ。それから高隈山の自生柑橘の乾燥した皮を用意しろ。麦の甘さを断ち切る苦味を仕立てる!」
崇清の暴走めいた執念により、飯隈工房の勝手場は瞬く間に実験場と化した。
まず、発芽させてデンプンを糖化酵素で満たした大麦を石臼で粗く挽き、六十度前後の温湯に投入する。
大鍋の中でかき混ぜると、麦芽自身の酵素によってデンプンが分解され、ドロリとした甘い麦汁が出来上がる。これを麻布で丹念に濾過し、澄んだ黄金色の甘い麦汁を抽出した。
ここまではただの甘い麦ジュースだ。
崇清はそこに、陰干しして青臭さを飛ばし、苦味成分を凝縮させた乾燥ヨモギの葉と、細かく刻んだ柑橘の皮を一気に投入した。
ボコボコと沸騰する大鍋。
立ち上ったのは、野山を凝縮したような、鮮烈で青々とした苦いハーブの蒸気だった。
「うげっ! 苦ッ!」
竈の火の番をしていた猪之助が、思わず顔をしかめて手ぬぐいで鼻を覆った。
「若君、せっかくの甘くて美味そうな麦汁に、なんでそんな苦い野草をぶち込むんですかい! 煎じ薬の匂いになっちまったじゃねえですか!」
「この苦味こそが、命の防腐剤であり、脂を流す刃になるんだ」
崇清は火を止め、煮沸した麦汁を冷却した。
ヨモギに含まれる精油成分は、強い抗菌作用を持つ。ホップと同様、雑菌の繁殖を抑えて酒の酸敗を防ぐ天然の防腐剤となるのだ。
そこへ、飯隈の酒蔵で保管していた清酒酵母を少量添加。
問題は炭酸と発酵だった。
現代のような耐圧ステンレスタンクも、ガラス瓶も王冠もない。
崇清が目をつけたのは、飯隈の山に無尽蔵に生えている「肉厚の孟宗竹」だった。
節を一つ残して切り落とした太い孟宗竹の筒に、発酵途中の麦汁を注ぎ込む。
そして、木工職人に削らせた樫の木の栓を、隙間に槙肌を噛ませて大槌でガンガンと力任せに打ち込み、さらに太い麻縄で十重二十重に縛り上げた。
「瓶内二次発酵だ。竹筒の中で酵母が残った糖分を喰い、炭酸ガスを逃げ場のない竹の内部に閉じ込める」
崇清は密閉された十数本の竹筒を指差した。
「猪之助、これを高隈山から引いている一番深い井戸の底へ沈めろ。冷たい湧き水の中で、十日間じっくり寝かせるんだ」
「へいへい! 爆発しなきゃいいんですがね!」
十日後。初夏の陽光が照りつける昼下がり。
高須造船所と飯隈を行き来する日々の合間、崇清は冷たい井戸から引き上げられた一本の竹筒の前に立っていた。
竹肌は井戸水で濡れ、触れると手の平が痛くなるほど冷え切っている。
竹筒の中からは、耳を澄ますとチリチリと微かな内圧の軋む音が聞こえていた。
「若君、本当に大丈夫なんですか……? 開けた瞬間に竹が破裂して顔に刺さったりしませんよね……?」
弥三郎が物陰から恐る恐る覗き込んでいる。
崇清は小刀を取り出し、樫の木の栓の周りを固めていた麻縄を慎重に切り落とした。
そして、栓の端を木槌で軽く小突く――。
プシュッ!
乾いた、心地よい破裂音とともに、白い冷たい霧が竹の隙間から勢いよく噴き出した。
同時に、勝手場いっぱいに広がったのは、爽快なヨモギの苦味と、柑橘の華やかな香り。
崇清の手が、微かに震えた。
竹筒の栓を引き抜くと、中から現れたのは、炭酸の細かな泡を立ち上らせながら湧き上がる、見事な琥珀色の液体だった。
崇清は深めの素焼きの椀を傾け、竹筒から一気に注ぎ入れた。
トクトクトク……シュワワッ!
液面を覆い尽くす、きめ細やかな純白の泡の層。
濁りのない琥珀色の麦酒が、初夏の光を透かして黄金色に輝いている。
できた。中世の、ヨモギ・グルートエールだ!
崇清は椀を持ち上げ、泡の下の琥珀色の液体を喉へと流し込んだ。
グビリ、グビグビッ、ゴクン!
冷たい刺激が舌先を叩く。
シュワシュワと弾ける心地よい炭酸の刺激の直後、ガツンと口内に広がったのは――鮮烈なヨモギの苦味!
だが、その苦味は決して不快な薬臭さではない。大麦の豊かなコクと甘みを背後からキリリと引き締め、柑橘の爽やかな酸味を残して、喉の奥へと驚くほど軽やかに消え去っていく。
崇清は椀を下ろし、思わず熱い涙が目頭に滲むのを感じた。
苦い! そして、美味い! この舌をリセットする苦味と炭酸のキレ、まさに前世で愛したあのビールだ!
崇清はすかさず、冷めかけた豚肉の唐揚げを一切れ口へ放り込んだ。
カリッとした衣から溢れ出す濃厚な豚の脂。
そこへ、もう一口――グビッ!
ジュワッと広がる脂の重みが、冷たい苦味と炭酸によって一瞬で綺麗さっぱり洗い流され、口の中が信じられないほど爽快に生まれ変わる。
そして再び、唐揚げへと手が伸びる。
無限の、黄金の循環!
「たまらん。生きててよかった……」
崇清が恍惚の吐息を漏らした、その瞬間だった。
ガララッ!
案の定というべきか、勝手場の板戸が吹き飛ぶような勢いで開け放たれた。
「崇清ッ!! なんじゃこの爽やかで苦い匂いはァッ!!」
大姶良の巡回から馬を飛ばして戻ってきたばかりの島津又七郎家久が、砂埃を立てて土間に乱入してきた。
その背後には、大太刀を肩に担いだ中馬重方が、犬のように鼻をヒクヒクさせて立っている。
「うわぁぁ出たァッ! 美味いものの匂いにだけ反応する野生の猛獣ども!!」
弥三郎の悲鳴をよそに、家久は崇清の手にある泡立つ椀を鷲掴みにした。
「酒か!? 泡立っておるぞ! 白い泡がモコモコと湧いておるではないか!」
「兄上、それはひどく苦いですよ。大人の――」
崇清の制止も聞かず、家久は椀に口をつけ、豪快に呷った。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ!
家久の眼が見開かれ、咽喉仏が大きく上下した。
「に、苦ッ!? な、なんじゃこの酒は! 苦草をそのまま絞ったように苦いぞ!」
家久は顔をしかめた。だが、吐き出そうとはしなかった。
炭酸のパチパチとした刺激が喉を駆け抜け、鼻腔を抜けるヨモギの清涼感に、猛将の表情がみるみるうちに変化していく。
「いや、待て。苦い……苦いのに、喉が鳴る! 腹の底が冷え冷えとして、胸のつかえがスーッと消えていきよるぞ!?」
家久の視線が、台の上の唐揚げを捉えた。
無造作に肉を掴んで口へ放り込み、咀嚼し、すかさず竹筒から二杯目を注いで一気に飲み干す!
「ガハッ!!」
家久は太ももをバチンと叩き、歓喜の咆哮を上げた。
「美味いッ!! 脂っこい肉を食うてこの苦い泡酒を流し込むと、いくらでも腹に入るわ! 崇清、揚げた豚をもう五枚持ってまいれ! 酒もじゃ! 井戸の底の竹筒を全部引き上げろッ!!」
重方も椀を両手で包み、ゴクゴクと音を立てて飲み干して、赤銅色の顔を輝かせた。
「美味い! 崇清殿、この泡立つ酒を飲むと、体じゅうの熱が引いて力が湧いてまいりますぞ!」
「無茶苦茶言わないでくださいよォッ!!」
弥三郎が算盤を振り回して叫ぶ。
「大麦を発芽させて竹筒に詰める手間がどれだけかかると思ってんですか! 居酒屋じゃないんですよここは!!」
怒号と笑い声が渦巻く勝手場。
崇清は空になった椀を見つめ、静かに息を整えた。
ヨモギの苦味と炭酸。
それは崇清自身の食の欲望を満たしただけでなく、初夏の過酷な湿気と熱気の中で戦う前線の兵や職人たちの、最高の活力となる可能性を秘めていた。
だが――この爽快なよもぎエールには、「常温では数日で酸敗してしまう」という、兵站物資としての致命的な弱点が残されていた。
その課題を乗り越えるのは、まだ少し先のことになる。
大隅の初夏の風の中、黄金色の泡立ちとともに、飯隈の生活と技術はまた一歩、確かな歩みを進めていた。
焼酎もいいけどやっぱりビールです…
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