第66話 志布志の潮風と帳面の隙間
天正二年(一五七四年)二月。
大隅半島を東西に横断する山道を抜けると、眼前には錦江湾の穏やかな内海とはまるで異なる、外洋の荒波が砕ける太平洋――志布志湾の青い海原が広がっていた。
海岸線に沿って整然と並ぶ、白壁の土蔵群と板葺きの会所。
肝付氏と禰寝氏が屈服し、大隅南部が島津の統制下に入ったことで、太平洋側に口を開けるこの天然の良港・志布志もまた、音もなく島津の勢力圏へと組み込まれていた。
だが、志布志の港務所の奥座敷に漂っていたのは、磯の香りではなく、擦り立ての墨の匂いと、張り詰めた殺気だった。
「若君。僕ぁね、もう指の関節が三つばかり砕け散りましたよ」
座敷の真ん中で、算盤の上に突っ伏して呻いているのは弥三郎だ。
その左右には、高須から運ばれてきた分厚い大福帳と、志布志の商人衆から差し出された入港手形が、天井に届かんばかりの高さで積み上げられていた。
「泣き言を言うな、弥三郎。大隅から日向へ抜ける太平洋航路の要所だ。ここを曖昧にすれば、日向への兵站線そのものが根腐れを起こすぞ」
崇清は手元の細筆を動かし、入出津の帳簿と蔵米の目録を冷徹に照合し続けていた。
「曖昧にしてる暇なんてありませんよ! 見てください、今朝届いたこの巻紙を!」
弥三郎が涙目で掲げたのは、内城・蔵役所からの極印が捺された一通の「監査令状」だった。
筆跡は定規で引いたように寸分の乱れもない、筆頭勘定役・伊集院掃部助忠棟のそれである。
『志布志港の接収に伴う関税出納、ならびに飯隈・高須における昨冬の兵糧消費実態の査定について。
大隅平定以降、境目の防備と称して諸浦の資材を動かしておるようだが、冬期の兵糧米消費量が不自然に抑制されておる。
米を削りて兵の士気を落とし、あるいは私腹を肥やして裏帳簿を作っておるのではないかとの疑念あり。
ついては、志布志の入港税の三割を直ちに本丸へ前納せよ。併せて、出納の全容を記載した台帳を速やかに提出されたし』
「ほら見ろ! 出ましたよ、あの忠棟殿の言いがかり査定が!」
弥三郎が畳をバンバンと叩く。
「城も土地も宗家へ差し出して、こっちは港の運用だけやってるってのに、今度は『米の消費が少なすぎるから怪しい』だなんて! 米を食い潰したら怒る、米を節約しても疑う! どう転んでも僕らの首を刎ねに来る気ですよあの人は!!」
「忠棟殿は言いがかりをつけているのではない」
崇清は薄板を裏返し、炭で数字を書き殴りながら淡々と言った。
「官僚として至極真っ当な監査だ。兵を何百人も国境に張り付かせ、山奥で砦を組みながら、前年比で兵糧米の消費が三割も減っていれば、誰だって『兵を飢えさせているか、どこかで不正に米を隠している』と疑う。帳簿の数字だけを見ている人間には、それ以外の解が見えないからな」
「だ、だったらどうするんですか! 志布志の税を三割も本丸に吸い上げられたら、新造船の修繕費も水主たちへの給金も払えなくなりますよ!」
「吸い上げさせんよ」
崇清は筆を置き、腕を組んだ。
「忠棟殿が求めているのは、理屈の通った数字と、宗家にとっての明確な実利だ。向こうの土俵である帳面の隙間を使って、完全に納得させてやる」
その時、引き戸が開き、潮風の匂いとともに能野甚五郎が姿を現した。
その後ろには、豪奢な絹織物の羽織を着た、肥満気味の老商人が畏縮しながら控えている。志布志の問屋衆を束ねる網元・山下宗意である。
「若君、連れてきたぜ」
甚五郎がどっかりと板敷きに腰を下ろし、煙管を取り出した。
「志布志の商人ども、最初は島津の侍が乗り込んできたと思って怯えてやがったが……高須の白塩と唐芋の樽を見せたら、目の色変えて擦り寄ってきやがった」
「め、滅相もございません、島津崇清様……!」
山下宗意が畳に額を擦りつける。
「これまでは肝付様と伊東様の間で関銭を二重にむしり取られ、船を出すたびに身ぐるみを剥がれる思いでございました。されど、高須から回ってくる白塩は、日向や豊後の商人が競い合って銀を積む至宝。しかも、佐多岬を回る廻船の関税を一元化していただけるとなれば、志布志の問屋一同、喜んで島津の御旗の下で舟を動かしまする!」
「話が早くて助かる、山下殿」
崇清は一枚の受領手形を老商人の前へ差し出した。
「志布志の湊に、飯隈の竹材と白塩を集積する前進兵站庫を置く。お前たち商人には、油津や飫肥方面への沿岸輸送を任せたい。運賃は米ではなく、高須の白塩の現物、ならびに飯隈工房で醸造したある液体の専売権で支払う」
「ある、液体……でございますか?」
宗意が怪訝そうに顔を上げる。
崇清は手元の小振りの素焼きの壺の封を、指先で解いた。
トク、トク、と素焼きの盃に注がれた無色透明の液体。
冬の光に透かすと、表面に細かな油分がゆらゆらと極薄い膜のように揺らぎ、わずかに白く霞んで見える。
「っ!? こ、これは……!?」
宗意の肥えた鼻先が、ピクリと動いた。
蒸留したての荒々しいガス臭と、シラスの泥で育った唐芋が放つ、濃厚で香ばしい甘やかな芳香。
「飲んでみろ。志布志の冬の海風を吹き飛ばす酒だ」
宗意は恐る恐る盃を取り、一気に煽った。
ゴクリ、と喉を鳴らした瞬間、老商人は激しく噎せ返り、両手で喉を押さえた。
新酒特有の尖りきったアルコールが喉を焼き、強烈な芋のアクが鼻腔を突き抜ける。
だが――次の瞬間、カァーーッ!と胃の腑から熱気が噴き上がり、青白かった商人の顔が一瞬で赤銅色に染まった。
「な……なんじゃこの酒はッ! 喉が引きちぎれるほど強い! なのに、後味は驚くほど爽やかで、冷え切っていた足先まで火がついたように温まりおる……!」
宗意は目を丸くし、空になった盃を凝視した。
「米の焼酎とも、琉球の泡盛とも違う。この重厚なコクは何でございますか!?」
「唐芋だ。シラスの痩せ地から無限に湧き出す芋で造った」
崇清は冷徹に言い放った。
「この酒を、志布志の港から日向の油津へ流せ。伊東の苛政で米を奪われ、冬の寒風に震えている日向の民や地侍どもに、この強い酒と高須の白塩を届けるんだ。米を奪う伊東と、米を減らさずに身体を温める酒と塩を運んでくる島津。どちらが生きるための道か、商人のお前なら、向こうの連中がどう判断するか分かるだろう」
宗意の目が、商人の欲望と確信にギラリと光った。
「勝負になりませぬ。日向の土豪どもは、狂喜してこの酒と塩を買い求めましょう。伊東の領国は、内側から雪崩を打って島津へ靡き申します!」
「よし。契約成立だ」
崇清は宗意を退出させると、再び筆を執り、忠棟宛ての返答書状へと向かい合った。
弥三郎が横から覗き込む。
「若君、その返答、どう書く気なんです?」
「忠棟殿が気にしているのは二点だけだ」
崇清の筆が、流麗に、しかし冷酷な数字を連ねていく。
「第一に、冬期の兵糧米の消費減について。
これは、主食米を削ったのではなく、シラス台地で自給した唐芋の余剰デンプンを活用し、兵の身体を温める蒸留酒を製造・配備したことによる成果であると明記する。結果として、本家が最も恐れていた『冬期陣中における兵糧米の浪費』を前年比三割抑制し、蔵米の温存に成功した」
「う……! そ、それなら忠棟殿も文句のつけようがないですね」
弥三郎が唾を飲み込む。
「第二に、刀傷による非戦闘損耗の激減だ。
唐芋焼酎の初留分を前線の救護班へ配備し、傷口の消毒水として徹底運用した。このひと月、境目の小競り合いで手負いとなった番兵三十余名のうち、破傷風や化膿熱で命を落とした者は零。一人あたり米数石に相当する訓練された兵員を、薬水一本で全員前線へ復帰させた」
崇清は書状の末尾に、志布志港の収支試算を添えた。
「『以上の合理化により浮いた兵糧米の一部、ならびに志布志における唐芋焼酎と白塩の通商手数料より、銀二十枚を宗家蔵役所へ上納いたす。なお、志布志の港湾改修と日向方面への兵站路敷設の現場差配は、約定通り蒲生島津が自前の責任において執行する』」
崇清は花押を据え、書状を巻き上げた。
感情論も、弁解も、武士の面子も一切ない。
あるのは「米を温存し、兵を生かし、宗家の蔵を確実に太らせた」という、完璧に整合した事実と数字の弾道だけだった。
「完璧だ……」
弥三郎が震える息を吐き出した。
「これ……忠棟殿、怒るどころか、自分の台帳にこの数字を書き写して悦に入りますよ。『我が監査の前に崇清も平伏した』って顔しながら、大隅の米と銀を喜んで受け取るしかないじゃないですか!」
「それでいい」
崇清は窓を開け、志布志湾を吹き抜ける冷たくも力強い潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「忠棟殿が台帳の数字に満足して判を押している限り、俺たちは誰にも邪魔されず、この海と陸のレールを伸ばし続けられる。大隅は完全に固まった」
太平洋の水平線の彼方――日向灘へ向けて、白き波頭がどこまでも連なっていた。
冬の過酷な寒気と飢えを乗り越え、季節は巡ろうとしていた。
やがて訪れる大麦の実りと、次なる現場の熱気へ向けて、島津の兵站網は確実にその根を広げていた。
マツコの番組で有名になった志布志市志布志町志布志の志布志ですw
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