第65話 泥谷の白煙とハナタレの夜
国境の救護小屋で、化膿した刀傷に苦しむ足軽たちを目の当たりにしてから、飯隈工房の空気は張り詰めた緊張に包まれていた。
「若君。僕ぁね、もうこの数日間、夢の中で米粒に首を絞められてますよ」
弥三郎が算盤を抱え込み、飯隈の醸造蔵の板敷きで深く胃を押さえて悶絶していた。
「兵たちが国境で寒さに凍えてるから、気付けの酒が要るってのは分かりますよ! でもね、兵糧米や雑穀を酒なんぞに回してみなさい! 内城の忠棟殿に知られたら軍資横領で僕らの首が宙を舞いますよ! なのに……なんですかこの赤紫の泥まみれの塊の山はァッ!?」
蔵の土間には、シラス台地から掘り出されたばかりの巨大な唐芋が、百俵以上もうずたかく積まれていた。
「米を使うなど一言も言っていない」
崇清は前掛けを締め直し、大樽の中で蒸し上がった熱々の唐芋を木槌で突き崩しながら淡々と返した。
「米は最小限の麹だけに留める。酒にする本体は、この芋だ」
「芋で酒ができるわけないでしょォォッ!!」
弥三郎が叫ぶ。
「酒ってのは米か麦かアワを醸すもんです! どこの世界に草の根っこを蒸して酒を搾る狂人がいますか! 芋なんて煮て食うか、蜜を絡めて菓子にするもんですよ!」
「できる。デンプンを麹の力でブドウ糖に変え、酵母がそれをアルコールに変える。原理は米だろうが芋だろうが同じだ」
崇清は木槌を置き、息を整えた。
だが、前世の理屈は頭にあっても、現場の微生物は崇清の都合など待ってはくれない。
焼酎を造るには、まず米麹に水と酵母を合わせて酸度を高める「一次仕込み(酒母造り)」に五日から一週間。さらに、蒸して潰した唐芋を大量に投入して主発酵させる「二次仕込み」に、最低でも八日から十日の絶対的な時間がかかるのだ。
「猪之助、室の温度はどうだ」
「へいッ! 筵を二重に巻いて炭火を弱く焚いてやすが、夜になると冷え込みが厳しくて、麹の野郎が寝ちまいそうになりまさあ!」
泥まみれの猪之助が、額の汗を拭いながら大甕の蓋を覗き込む。
「冷やすな。だが三十五度を超えさせてもいかん。熱くなりすぎれば酵母が死に、雑菌が湧いて醪が腐る。手を入れたときに人肌よりわずかに温かいところで火加減を保て」
「へいへい! 職人泣かせの無茶振りだぜ、まったく!」
蒸した芋は米よりも水分が多く、傷みやすい。
崇清自身、前世で本格焼酎の工場を見学した記憶と理系知識はあるものの、実際に室に籠もって温度を肌で測り、櫂入れを繰り返すのはこの中世の職人たちだった。
二日目に醪がわずかに酸っぱい異臭を放ちかけ、崇清が青ざめて冷や汗を流す場面もあった。慌てて飯隈の湧き水で薄め、雑菌の繁殖を抑えるために徹底して甕を熱湯消毒するなど、薄氷を踏むような手探りの試行錯誤が続いた。
そうして――。
国境の救護小屋へ急ぎの軟膏や解熱の煎じ薬を送りつつ、飯隈の蔵で醪を見守り続けること、十有余日。
十二月の半ばを過ぎ、日向国境から吹き下ろす颪がいよいよ雪混じりの冷気に変わった冬の夜。
大甕の蓋を開けた瞬間、蔵いっぱいに広がったのは、腐敗の臭気ではなかった。
ブクブクと泡立ち、黄金色に熟成した醪から、熟れた果実と蒸し芋が混ざり合ったような、強烈で甘やかな芳香が立ち上ったのだ。
「発酵完了だ」
崇清の口から、深い安堵の息が漏れた。
「醪の比重が下がった。アルコール度数は十二、三度まで上がっている。猪之助、釜へ移せ! 火入れだ!」
「おうよッ! 待ちくたびれたぜェッ!!」
大鍋の上に据え付けられたのは、底を抜いた長大な杉樽――「ツブロ式蒸留甑」だった。
熟成した醪が流し込まれ、竈に孟宗竹の割木が次々とくべられる。樽の上部から斜めに伸びる孟宗竹の冷却管には、高隈山系から引いた氷のような谷水が絶え間なく掛け流されていた。
ゴボゴボゴボ……と、樽の底で醪が沸騰する重い地鳴りが響く。
蒸留の開始だ。
やがて、竹管の先端――小さな素焼きの壺を置いた注ぎ口から、ツツッ、ポタポタと、澄み切った水滴が滴り始めた。
一滴、また一滴。
落ちるたびに、工房の空気が一変した。
「っ!? ゲホッ、ゴホッ!!」
竈の火の番をしていた弥三郎が、突如として喉を掻きむしり、涙目を浮かべて飛び退いた。
「な、なんですかこの匂い……!? 鼻の奥がカッと焼けるようだ! 酒の匂いじゃない、火薬を嗅いだ時のような……!!」
空気中へ急速に揮発していく、暴力的なまでのアルコールの刺激臭。
沸点の低いエタノールが真っ先に濃縮されて滴り落ちる、最初の極少量留分――「初留取り(ハナタレ)」だ。
崇清は素焼きの壺を慎重に引き寄せ、指先にほんの一滴だけ垂らして匂いを嗅いだ。
ツンと鼻腔を突き抜けるエタノールの芳香。そして指先に広がる、瞬時に体温を奪って蒸発していく独特の気化熱の冷たさ。
「六十度、いや、六十五度はあるな」
崇清は口元を緩め、振り返った。
「猪之助! この最初の二升は絶対に飲むな! 喉が焼けてただれる! 小さな竹筒に小分けにして密閉しろ!」
「へ、へい! これをどうするんで?」
「水で薄めず、そのまま国境の救護小屋へ至急運ぶんだ」
崇清の瞳に、冷徹な光が宿る。
「刀傷の泥をサボン水で洗い流した後、このハナタレを患部へ直接浴びせかけろ。傷口を徹底的に焼き清めるんだ」
アルコールによる細胞膜の破壊とタンパク質の変性――近代医学における消毒の現出だった。
化膿止めなど存在せず、傷口を腐らせて敗血症で兵が死んでいくこの戦国時代において、六十度超のエタノールは、何千の槍衾よりも確実に前線の兵を死の淵から引き戻す奇跡の薬水となる。
「道純、早馬を出せ。手遅れになる前に、先刻の手負いどもをこれで洗え!」
「御意」
影の中から現れた道純が、青ざめた表情で竹筒を受け取り、音もなく夜の闇へと疾走していった。
夜半過ぎ。
ツブロ蒸留器から立ち上るハナタレの凶悪な揮発香が落ち着き、二番目以降の「本留」が竹管の注ぎ口から甕へと溜まり始めていた。
「よし、度数は二十五度から三十度あたりで落ち着いたな」
崇清は素焼きの小椀で甕の底からすくい上げ、鼻先へ近づけた。
立ち上ったのは、上品な銘酒の芳香などでは決してなかった。
蒸留したての原酒特有の、鼻腔の粘膜をチリチリと焼くようなガス臭。
そして、シラスの泥で育った唐芋が放つ、青臭い灰汁と焦げたデンプンが混ざり合った、どこか野蛮で土臭い強烈な芋のクセである。
無色透明なはずの水面だが、焚き火の明かりに透かすと、表面に細かな油分がゆらゆらと薄い膜のように漂い、椀の縁でわずかに白く霞んで見えた。
現代のように油分を丹念に濾過し、半年も一年も寝かせて角を取った酒ではない。出来立ての新酒は、舌を刺すようなトゲと、むせ返るような重い油分をそのまま宿していた。
荒いな。ガス臭も抜けてないし、油分が浮いてわずかに霞んでる。芋の雑味がそのまま舌に乗りそうだ。
崇清は苦笑交じりに唇を湿らせた。
洗練とは程遠い。だが、この荒々しい刺激こそが、中世の寒風吹きすさぶ前線には何よりの燃料となるはずだった。
「おい、又八ッ!! 飯隈の山奥で怪しげな煙を上げおって、何の騒ぎじゃ!」
工房の板戸を蹴破るようにして乱入してきたのは、案の定、大姶良方面の警戒から戻ってきた島津又七郎家久だった。
その背後には、大太刀を腰に差した中馬与八郎重方と、白髪混じりの髭を霜で白くした蒲生甚兵衛が続いている。
「家久兄上、甚兵衛」
崇清は素焼きの椀を三つ並べ、甕から汲み上げたばかりの、油分で薄く霞む原酒を注いだ。
「ちょうど火から下ろしたところです。作りたてでひどく味が荒いですが、身体は温まりますよ」
「ん? 酒か? うわっ、なんじゃこの臭いは!」
椀を手に取った家久が、露骨に鼻をひん曲げた。
「煙草のヤニと泥を一緒に煮詰めたような、すさまじい獣の息のような臭気じゃぞ! 崇清、貴様、本当に毒を盛る気ではないだろうな!?」
「いいから黙って喉へ放り込んでみなさい」
崇清が促すと、家久は覚悟を決めたように目を据え、椀に口をつけて一気に煽った。
ゴクリ、と喉を鳴らした瞬間、家久の喉が激しく痙攣した。
新酒の尖りきったアルコールが喉壁をヤスリのように擦り、強烈な芋のクセが鼻腔へ逆流して、さすがの猛将も思わず激しく噎せ返ったのだ。
「か……辛ッ! 喉が引きちぎれるかと思ったぞ!!」
家久は涙目になりながら胸をかきむしった。
だが、噎せ返った直後――カァーーッ!と、胃の腑から身体の内側へ向けて、爆発的な熱気が津波のように押し寄せてきた。
「な、なんじゃ……?」
家久の眼がカッと見開かれる。
「荒い! 舌の上がピリピリと痺れおる! だが……この泥臭い甘みが喉を焼き切った後、凍えきっていた手足の先まで、一気に血が巡り始めよったぞ!」
「どれ、儂にも!」
甚兵衛が椀を奪い取り、恐る恐る口に含んだ。
「うぐっ……! こ、これは確かに凄まじいクセじゃな……! 灰持酒のように甘く喉を通る酒ではない。だが、口に残る脂っこさや泥の臭気を、この強い火のような酒が一瞬で焼き払ってくれるわ!」
重方は椀を両手で包み、匂いなど気に留める様子もなく丸呑みにして、プハッと白い息を吐き出した。
「美味い! 崇清殿、この酒は黒豚の脂身や塩辛い魚にぴったりじゃ! 喉を通る時は岩を呑んだように痛いが、腹に落ちれば焚き火を背負ったように温まる!」
「作りたての原酒ですからね」
崇清は薄く笑い、竈の灰の中から引き出した熱々の焼き唐芋を二つに割った。
「甕の中で数月寝かせれば、浮いた油分が落ち着いて角が取れ、まろやかになります。ですが、この荒々しい毒気のようなパンチこそが、泥水すすって戦う兵にはちょうどいいはずです」
家久は空になった椀を見つめ、まだ舌に残る痺れるような熱気と芋の香りに、獰猛な笑みを浮かべた。
「ふん! 確かに都の公家が飲むような上品な酒では断じてないわ。だが、この荒くれ者のような酒なら、どんな頑丈な敵陣の前でも身体が竦むことはない。崇清、この芋の強い酒、すぐに甕ごと前線の番小屋へ配備せよ!」
「ええ。半月かけてようやく形になりましたが、これでこの冬、凍えて刀を落とす兵はいなくなります」
新酒特有の荒いトゲと強烈な芋のクセ。
洗練を削ぎ落としたその泥臭い一杯が、過酷な冬の国境を耐え抜くための、揺るぎない現実の防壁となっていた。
まぁ前回のあとがきで芋は酒になるのか、などと言いましたがならないわけないですよねw
とはいえ今回できたものは熟成も濾過もしてないのでめちゃくちゃ荒い酒ですね…
次は7時投稿です。




