第64話 日向の暗雲と国境の物見
天正元年(一五七三年)十一月。 南九州特有の湿った生温かさは姿を消し、霧島山系から吹き下ろす凍てつく颪が、大隅と日向の境目を白く薙ぎ払っていた。 日向国境に連なる山並みを臨む、財部の北端・境目物見砦。 急ごしらえの丸太と土嚢で組まれた櫓の上で、崇清は冷たい風に吹かれながら、手元の薄板に墨を走らせていた。
「若君。いえ、崇清様。僕ぁね、もう足の指の感覚が完全に消え失せましたよ」
隣で毛氈にくるまり、算盤を抱え込んだ弥三郎が、紫に変色した唇をガタガタと震わせている。
「なんで秋に唐芋の菓子を作って喜んでた直後に、こんな吹きさらしの山頂で氷漬けにならなきゃならんのですか! 風が骨に染みる! 耳が千切れそうですよ!!」 「喚くな、弥三郎」
崇清は息を白く吐き出し、視線を北の空――日向・都於郡城の方角へと向けた。
「文句なら、向こうの伊東義祐公に言え。大隅が平定され、禰寝と肝付が相次いで島津の軍門に降ったことで、日向の喉首が完全に塞がれたんだ。向こうが慌てて境目の物見を増やし、不穏な動きを見せるのは至極当然の地政学的反応だよ」
大隅合戦の後、高山城と数万石の検地帳を丸ごと内城の宗家へ返上したことで、伊集院忠棟をはじめとする本丸の官僚たちからの監査の刃は、ひとまず矛を収めていた。 だが、政治の嵐が止んだ途端、今度は軍事の現実が牙を剥いてきたのだ。 木崎原で壊滅的な打撃を受けたはずの伊東氏だが、その領国は日向一円に広大であり、いまだ数千の動員力を誇っている。 島津が太平洋側の志布志湾を押さえ、日向南部への流通を握り始めたことで、伊東方は「兵糧の干殺し」を極度に警戒。このひと月の間に、野尻・紙屋・財部の国境地帯で、斥候同士の小競り合いが急増していた。 カサリ、と音もなく櫓の背後に人影が滑り込んできた。 濡れ藁の蓑をまとい、顔半分に古い刃傷を持つ男――楠行者衆の頭領・道純である。
「崇清様。日向側の動き、掴め申した」
道純の嗄れた声は、冬の寒風よりも低く乾いていた。
「申せ」 「伊東義祐、領内への締め付けをさらに強めております。野尻や三納の百姓から、冬の蓄えである雑穀や塩までも根こそぎ軍糧として徴発し、国境沿いの諸城へ集積中。さらに、高原城周辺へ三百を超える番兵を増強し、我らの早馬や荷駄を力ずくで遮断する構えにございます」 「やはりな」
崇清は薄板に記された防衛線の配置図に視線を落とした。
「木崎原の傷を力攻めで埋めようと焦っている。民から塩と飯を奪って兵を並べれば、短期的には防壁になるが……内部の不満は爆発寸前まで膨らむぞ」 「左様にございます。されど」
道純はわずかに言葉を切り、眼光を曇らせた。
「先ほど、末吉の谷で伊東の物見十数騎と遭遇いたした我が方の番兵三名が、手負いとなって戻り申した。傷が、思わしくありませぬ」
崇清の眉が鋭く寄った。
「案内しろ」
物見砦の麓に張られた、粗末な筵囲いの救護小屋。 隙間風が吹き込む土間に敷かれた藁の上で、二人の足軽が脂汗を流し、苦痛に歯の根を鳴らしていた。 その横では、もう一人の若い兵が、荒い息を吐きながら虚ろな目で天井を見つめている。
「う、うぅ……腕が……腕がちぎれそうだ……!」 「寒い……水を……誰か、水をくれ……」 「これは」
崇清が膝を突いて傷口を覗き込むと、鼻を突く饐えた悪臭が漂い上がってきた。 太刀で切り裂かれた前腕と太ももの刀傷。 傷そのものは骨に達するほどの深手ではない。だが、冬の寒さの中で泥水と汗に塗れ、適切な手当てを受けられなかったため、傷口がどす黒く腫れ上がり、濁った黄褐色の膿がじくじくと噴き出していた。 創傷の化膿――細菌感染症だ。 小屋の隅で薬草を煎じていた古武士が、力なく首を振った。
「手は尽くしました。ヨモギの葉を揉んで傷口に当て、泥を拭い、清め酒を吹きかけはしたのですが……この寒さで傷口が塞がらず、熱が上がって下がらぬのです。このままでは、夜を越せますまい」 「そんな」
弥三郎が息を呑み、青ざめて立ちすくんだ。
「敵の槍で即死したわけでもないのに、たかが刀傷が化膿しただけで死ぬってんですか……!?」 「それが戦場の定めでござるよ、弥三郎殿」
古武士が乾いた声で呟く。
「合戦で手負いになった者の半数は、太刀傷ではなく、その後の腫れと熱で命を落とす。清めるための酒といっても、本家の蔵から下されるのは酸っぱく濁った安酒ばかり。傷を洗うどころか、余計に傷口がただれてしまうのじゃ」
崇清は唇を噛み締め、手負いの兵の熱く燃え盛る額に手を当てた。 抗生物質のないこの時代、傷口の雑菌繁殖はそのまま敗血症と死に直結する。 加久藤の死線でも、木崎原の泥田でもそうだった。 敵の刃から生き延びた兵たちが、後方の陣屋で傷口を腐らせ、ただ苦悶のうちに死んでいく無数の現実。 サボンによる創傷洗浄の徹底で泥や脂は落とせるようになったが、それだけでは深い組織に入り込んだ細菌の増殖を止めきれない。 必要なのは、刃物で切り裂かれた患部を徹底的に無菌化するための高純度のアルコール――「医療用消毒液」だ。 だが、この戦国時代において、傷口を焼くほどの高濃度アルコールなど何処にも存在しない。 薩摩沿岸で造られている米や雑穀の焼酎は、せいぜいアルコール度数二十度前後。消毒に必要な六十度から七十度の純度には到底届かない。
「それに、崇清様」
弥三郎が懐手をして身を震わせながら、小声で囁いてきた。
「兵たちの士気も限界ですよ。この国境の寒風の中、凍えた身体を温めるための酒の一杯すら、うちの陣には配備されてないんですから。本家の忠棟殿に『兵の気付け薬として酒を回してくれ』と頼もうにも、あの人が兵糧米を酒造りに回すのを許すはずがありませんよ。『米は一粒たりとも無駄にするな』って監査状が飛んでくるのがオチです」
正論だった。 酒を造るには、膨大な米や麦、粟などの主食を消費しなければならない。 日向との決戦を前に、貴重な主食兵糧を削って酒を醸すなど、本丸の台帳管理上、絶対に許可が下りるはずがなかった。 凍える前線の兵たち。 化膿して失われていく命。 米を減らせないという兵站の絶対的な檻。
「米を使う必要など、最初からない」
崇清の口から、冷たく研ぎ澄まされた声が零れ落ちた。
「え?」
弥三郎が目を瞬かせる。 崇清は立ち上がり、救護小屋の筵を押し上げて外へ出た。 南の方角――シラスの泥谷が広がる、飯隈と獅子目の台地を見据える。 先月、百姓たちが狂喜乱舞しながら掘り出した、あの無尽蔵の赤紫色の根。 米の取れない痩せ地を埋め尽くし、倉庫から溢れ返っている、途方もない量のデンプンの塊――唐芋。
「弥三郎。飯隈工房へ早馬を走らせろ」 「は、はい!? 飯隈に、何を命じるんです!?」 「ツブロ式の蒸留甑と、孟宗竹の冷却管を至急組み立てさせろ。それから、飯隈の蔵に眠っている唐芋を百俵、竈へ運ぶんだ」
崇清の双眸に、前世の化学工学と事業再生の冷徹な青い光が宿った。
「兵糧米を一粒も削らず、シラスの泥から無限に湧き出す芋で……この冬を越すための最強の酒と、命を救う薬水を造る」
日向国境を覆う凍てつく暗雲の下で、戦国の医療と兵站の常識を根底から覆す「原料革命」の歯車が、静かに噛み合わさろうとしていた。
大学芋。
スイートポテト。
そして焼酎。
崇清君、唐芋の可能性を順調に掘り進めております。
……いや、芋を掘っているのは百姓ですけど。
今回はかなり物騒な用途になりましたが、根っこにあるのは「余っているものを別の用途に回す」という、いつもの崇清式問題解決です。
米がないなら困る。
では米を使わなければいい。
この発想、本人としては至極当然なのですが、周囲からすると「また何か始めたぞ」という話になりそうです。
次回、飯隈工房で蒸留開始。
芋は酒になるのか。 そして、その酒は本当に兵士たちを救えるのか。
次の投稿は19時です。
お楽しみに。




