第61話 城は宗家へ、差配は現場へ
高須の海戦から三日後。 肝属川の河口を埋め尽くしていた血煙と泥水は引き潮とともに消え去り、大隅の山々には抜けるような春晴れの青空が広がっていた。 だが、高須湊の船着場に設けられた仮設幕舎の中は、海戦の最中よりもなお張り詰めた冷気に満ちていた。
「信じられんな」
板敷きの上に正座した軍奉行・樺山忠助が、目の前に並べられた白木の文箱を見つめ、低く唸った。 文箱の中に収められているのは、昨日、使者を立てて無条件降伏を申し出てきた肝付兼亮からの「開城目録」――すなわち、大隅の要害・高山城をはじめとする支城群の明け渡し状、ならびに肝属平野に広がる数万石の田畑の検地帳であった。 そして、その隣に並べられているもう一通の巻紙。 それこそが、崇清が昨晩一睡もせずに書き上げ、自らの花押を据えた「内城・島津宗家宛ての稟議書」だった。 忠助は顔を上げ、墨を磨り直している崇清を鋭く見据えた。
「崇清殿。この書状、本気で義久公へ送るつもりか」 「本気配備でございます、忠助殿」
崇清は硯から筆を上げ、事も無げに頷いた。
「高山城をはじめとする肝付の城郭七箇所、ならびに肝属平野の没収田畑、計三万五千石……これらの一切合切の領有権を放棄し、『すべて義久公の直轄天領として本家へ返上する』と書いてあるのだぞ!?」
忠助の太い指が、文箱を叩く。
「千二百の敵を打ち破り、大隅平定の決定打を放ったのは誰だ! 貴殿の仕掛けた竹柵と灰汁、そして甚五郎の新造船とあの海の嘴ではないか! 本家の詰衆は一歩も泥を踏んでおらぬのだ! 堂々と『高山城を我が蒲生島津の居城とし、大隅南部の差配を認めるべし』と要求して何の後ろめたさがある!」
歴戦の武将であり、義久の従兄弟でもある忠助の憤激は、至極もっともな武士の道理だった。 戦国乱世において、血を流して奪い取った城と土地を他人に無償で譲り渡すなど、正気の沙汰ではない。 だが、幕舎の片隅で算盤を弾いていた弥三郎が、ふうと深く胃を押さえて口を挟んだ。
「忠助様。僕もね、最初は若君が血迷って発狂したのかと思いましたよ。でもね、台帳の数字を弾けば弾くほど、高山城なんて貰ったらうちは三月で破産するって結論しか出ないんですよ」 「破産だと……? 城と三万石を手に入れて、なぜ破産するのだ!」 「城を持つということは、その城を維持する固定費を丸抱えするということです」
崇清が静かに割って入った。 手元の薄板を裏返し、炭で描かれた簡単な収支図を忠助の前に滑らせる。
「高山城は広大で堅牢な山城ですが、それゆえに維持するだけで年間に莫大な普請費用がかかります。さらに、城を守るための番兵、城下町を管理する代官、反抗的な肝付旧臣を慰撫するための手当……それらを賄うには、手に入れた田畑の年貢をすべて注ぎ込んでも足りません。赤字の城を抱え、守るために兵を縛り付けられれば、我々の機動力は完全に死にます」
崇清の目は、冷徹な計算尺そのものだった。
「ましてや、十四歳の妾腹の小倅が、大隅随一の巨城と三万石を我が物顔で領有してみなさい。内城の重臣ども、とりわけ伊集院忠棟殿はどう動くと思いますか? 『蒲生の若造が私腹を肥やし、独立を企てている』と騒ぎ立て、本家の兵糧と鉄の流通を締め上げてくるに決まっています」 「ぐ……」
忠助は言葉に詰まった。 内城の空気を肌で知る忠助だからこそ、忠棟がどれほど「外様の肥大化」を警戒し、帳簿の檻で締め殺そうとしてくるかが痛いほど理解できたのだ。
「だからこそ、所有権は丸ごと宗家にくれてやるのです」
崇清は唇の端を吊り上げた。
「義久公は戦わずして大隅の大半を直轄領として手に入れ、忠棟殿は宗家の蔵に三万石の税収が転がり込んできて歓喜する。その代わり、我々がいただくのは、紙切れ一枚の権限だけです」
崇清が指し示した稟議書の末尾――そこには、極めて実務的な、しかし島津の既存の法度を根底から書き換える要求が、簡潔に記されていた。
『一、高須・根占両港における船改め、ならびに入出津関税の免除・独占運用権 一、錦江湾における廻船・水軍の差配権 一、大隅諸浦における白塩・竹材・木材・兵糧の買い上げおよび価格決定権』
「土地の所有権を捨て、港湾と物流の経営権だけを握る。木崎原の直後、内城の大広間で私が義久公と忠棟殿に約束した『所有と経営の分離』の完全履行です」
忠助は息を呑み、崇清の顔をまじまじと見つめた。
「城も田畑も要らぬ。その代わり、そこから吐き出される米や塩、そして海を動かす権利をすべて握る、と……。崇清殿、貴殿は本当に武士なのか?」 「私は蒲生島津の差配役にすぎませんよ」
崇清は薄く笑い、文箱の蓋を閉じた。
「忠助殿。この稟議書と高山城の目録を携え、内城へ戻っていただけますか。軍奉行である貴殿の口から、ありのままを本家へ伝えていただきたいのです」
忠助は深く、重い吐息を漏らし、文箱を抱え上げた。
「承知した。儂の目で見、耳で聞いたすべてを、義久公の前で証言しよう」
二日後、薩摩・内城、奥政庁。 畳の上に広げられた高山城の開城目録と、崇清の稟議書を前に、筆頭勘定役・伊集院忠棟は完全に凍りついていた。 その青白い眉間には深い皺が刻まれ、定規のように正確な指先が、微かに震えている。
「城を、返上する……だと?」
忠棟の口から、掠れた声が漏れた。 上座には島津家当主・島津義久が、数珠を手繰りながら静かに座している。その表情には波風一つ立っていないが、細められた眼光の奥には、測り知れぬ深慮が宿っていた。
「忠助」
義久が静かに口を開いた。
「高須の戦の始末、相違ないか」
下座に平伏した樺山忠助が、朗々たる声で顔を上げた。
「相違ございませぬ! 肝付の千二百に対し、高須の防備兵力はわずか二百。崇清殿は浜の民や船大工、製塩の女衆までも手足のように動かして泥濘に敵を誘い込み、海では新造船を用いて大将・兼盛を討ち取り申した。その上で、手に入れた高山城も、肝属三万石も、何一つ自らの懐へ入れようとはしておりませぬ」 「謀反の兆候だ!」
忠棟が思わず声を荒らげ、巻紙を指差した。
「義久公、騙されてはなりませぬ! 血を流して奪った城を無償で返上するなど、武士としてあり得ぬことにございます! 土地を欲しがらぬ者が、なぜ港の管理権と関税、そして兵糧の買い上げ権などという異様な権限を求めるのか! これでは……これでは、大隅の動脈をすべて奴一人に握られることになりますぞ!」 「忠棟殿」
忠助が冷ややかに忠棟を見据えた。
「貴殿は、戦というものを知らぬな」 「何だと!?」 「謀反を企てる者が真っ先に欲しがるのは何だ? 己の手足を養うための米と土地だ。城を構え、兵を抱え、堀を深くして本家と対峙する……それがこれまでの三州の叛臣どもの手口であったはずだ。崇清殿は、その城も土地も、すべて宗家の蔵へ差し出すと言うておるのだぞ。自らの兵を養う田畑を持たぬ者が、どうやって本家に弓を引くというのだ?」 「それは……!」
忠棟が絶句する。 論理が完璧に詰んでいた。 反乱を起こすための物理的基盤を自ら放棄している相手に対し、「謀反の疑いがある」という告発は成立し得ない。
「それに――」
忠助は義久に向き直り、畳に両手を突いた。
「高山城に本家の城代を置き、三万石の直轄領を治めるとして……その城代に、大隅の荒くれた船乗りどもを束ね、錦江湾の潮を読み、極上の白塩を日向へ売りさばく才覚がございますか? 崇清殿が港を差配せねば、高須の塩田も造船所も、ただの潮溜まりに戻るだけでございます」
政庁を沈黙が支配した。 カリ、と義久の繰る数珠の擦れ合う音だけが響く。 やがて、義久がふっと口元を緩め、膝の上の巻紙に視線を落とした。
「忠棟」 「は、ははっ!」 「この三万石が宗家の直轄となれば、内城の蔵庭はどうなる」
忠棟は唾を飲み込み、頭の中の算盤を弾いた。
「肝付への軍役に費やしていた兵糧が浮き、直轄税収として年間米一万石以上が純増いたします。薩摩・大隅の軍費の収支は、一挙に黒字へと転換いたします」 「ならば、良きではないか」
義久の声は、どこまでも穏やかだった。 だが、その平熱の奥には、崇清という異形の弟が敷いたレールを、島津の国家戦略として呑み込む冷徹な決断が宿っていた。
「土地は本家が持ち、経営は崇清に任せる。又八は、木崎原の約束を違えず、余に三万石の富を献じたのだ。疑う理由など何処にもない」
義久は筆を執り、崇清の稟議書の末尾に、迷いのない筆致で決裁の判を据えた。
「伊集院忠棟。高須湊の運用権、ならびに大隅の兵站差配役の辞令を作成せよ。蒲生島津崇清に、大隅の海を丸ごと預ける」 「御意に、ございます」
忠棟は深く平伏した。 その背中に滲む冷や汗は、戦場で槍を突きつけられた時よりも冷たかった。 城を取らず、土地も取らぬ。だが、宗家の蔵を太らせることで、己の敷いた道なしには島津が立ち行かぬ体質へと作り変えていく。恐ろしい男よ、島津崇清。 刀を交えることなく、内城の権力構造そのものを共犯者へと仕立て上げた瞬間だった。 大隅の完全平定は、武力ではなく、一枚の稟議書によってここに不可逆の決着を見た。
忠棟さん、あそこまで極端ではないですがオーベルシュタイン味が出てきましたね…




