第59話 西俣の泥濘と民の罠――砂浜の整流化
春の雨脚は衰えず、濡れたシラスの赤土と磯の匂いが混じり合い、高須の砂浜には重苦しい蒸気が立ち込めていた。 ドオォォン! ドオォォン! 肝属川の河口から響く肝付水軍の陣太鼓に呼応するように、陸路・西俣の湿地帯からも地鳴りのような喊声が押し寄せてくる。 八百を超える肝付軍の歩兵隊だ。長槍の穂先を雨に濡らし、隊列を組んで砂浜への突破を図っていた。
「若君ッ! 敵の先鋒、湿地を抜けて浜へ突入してきやす!」
土嚢の陰で、猪之助が泥だらけの顔を歪めて叫んだ。 砂浜の入口に敷設されたのは、猪之助の工兵班と、浜の民たちが総出で打ち込んだ孟宗竹の逆茂木だった。斜めに削り落とされた無数の太い青竹のトゲが十重二十重に連なり、敵が砂浜の全域へ広がるのを阻み、横幅十間(約十八メートル)の隘路へと進路を強制している。 だが、戦場は図面通りには動かない。 ズザザザザッ! 不穏な破砕音とともに、逆茂木の右翼を支えていた土嚢と孟宗竹の杭が、春雨を含んだシラスごと大きく崩落した。連日の長雨により、地盤の剪断応力が耐えきれず、滑落してしまったのだ。
「杭が滑った! 右手の竹柵が崩れやす!」 「敵が十間の隙間から溢れ出てくるぞッ!」
工兵たちが悲鳴を上げる。 十間に絞り込んでいたはずのボトルネックが、一瞬で倍の二十間へと広がった。 好機と見た肝付の先頭集団二百が、喚声を上げて雪崩れ込んできた。
「抜け穴ができたぞ!」 「高須の竈を焼き払え!」 「ちっ、地盤の緩みか!」
崇清が奥歯を噛み締めたその時であった。
「おのれ肝付の野党どもが! あっしたちの竈に触れるんじゃねえッ!」
砂丘の上から響いたのは、武士の号令ではなく、太く嗄れた女たちの怒号だった。 砂丘の稜線に立ち並んだのは、前掛けを締めた製塩竈の女衆と、腰の曲がった老人たちだった。その手には、湯気をもうもうと噴き上げる巨大な鉄鍋と、孟宗竹の手桶が握られている。
「打てェッ! 灰汁を浴びせろッ!」
バシャァァッ! バシャバシャァァッ! 降り注いだのは、ただの泥水ではない。 高須の製塩竈から出た樫の灰を熱湯に溶かし、サボン製造で長年扱い慣れた「強アルカリの煮え立つ灰汁」だった。
「ぎゃあああああっ!?」 「熱い! 目が、目が見えぬッ!」 「皮膚が溶ける! なんじゃこの水はァッ!!」
先頭にいた肝付兵の顔面に、熱湯灰汁が容赦なく降り注いだ。 アルカリはタンパク質を激しく変性させる。目に入れば激痛で視界を奪われ、皮膚に触れればぬめりとともに爛れを引き起こす。さらに、足元の砂にはサボンの搾りかすである油脂が混ぜ込まれており、滑落したシラスと混ざり合って、人が一歩も踏み留まれない最悪の粘土泥濘と化していた。
「な、なんじゃこの百姓どもは!?」 「泥水に脂が浮いて足が滑る! 踏み込めぬッ!」
歓声は一瞬で阿鼻叫喚の混乱へと反転し、溢れ出しかけた敵の突進がピタリと停止した。
「よし、敵の足が止まったぞ!」
崇清が叫ぶよりも早く、泥煙を突き破って飛び出した影があった。
「大姶良の兵ども、儂に続けェッ!!」
島津又七郎家久である。 具足の草摺を跳ね上げ、背丈ほどもある野太刀を構えた十七歳の猛将が、大姶良と飯隈の精鋭五十騎を引き連れて、混乱する敵の横腹へと突撃した。 ズバァァンッ! 家久の一撃が、先頭で目を押さえていた敵番頭の喉笛を、甲冑ごと薙ぎ払った。 鮮血が春の雨煙の中に高く噴き上がる。
「がはははっ! 狭い泥溝に詰まって足を滑らせておるわ! おい貴様ら、命が惜しけりゃ首を置いていけ! 首置いていかん奴から順に叩き割るぞッ!」
家久は野獣の笑みを剥き出しにして吼え、大太刀を旋回させて敵の隊列をなぎ倒していく。
「深追いはするな! 崇清の言う通り、竹柵の前で踏みとどまり、並んだ首を端から刈り取れッ!」
敵を誘引して包囲するのではない。工兵が地形を刻み、敵の突進力を強制的に狭隘部へ押し込め、詰まった先頭へ逃げ場のない鉄槌を叩き込む。
かつて加久藤城の搦手で崇清が伊東三千をせき止めたあの「動線制御」と、北の丸の裏庭で五歳の崇清が家久を泥濘に転がした「足場殺し」が、いま大隅の砂浜で、八百の軍勢を相手に完璧に作動していた。
「ひっ、退け! 一度引けッ!」
肝付の歩兵隊は、幅二十間の隘路に後続の兵が次々と詰まり、前後身動きが取れないまま、家久の手勢と民の投石によってすり潰されていった。
「信じられん」
土嚢の陰で、軍奉行の樺山忠助が太刀を握りしめたまま息を呑んでいた。
「侍の刃ではない。女や老人が撒く灰汁と泥が、八百の軍勢の突進を完全にへし折った。崇清殿、これが貴殿の言う生活の防衛か」 「ええ。木崎原で教わったのですよ」
崇清は濡れた前髪を払い、冷徹な視線を海へと向けた。
「帳面に書かれぬ兵たちが、この土地そのものを噛み砕く刃になるのだと」
陸の八百は、民の罠と家久の突撃によって完全に分断され、砂浜で釘付けとなった。 だが――それによって、海上に展開する肝付船団の焦燥は頂点に達していた。 沖合から、ひときわ高く法螺貝の音が響き渡る。 陸との連携を断たれた肝付水軍の大型関船が、高須港を海から直接叩き潰すべく、川口の浅瀬を抜けて怒涛の勢いで突き進んできた。
「陸は凌いだ!」
崇清は海辺へ駆け出し、船溜まりの甚五郎へ叫んだ。
「甚五郎、重方! 船を出せ! 海の決戦だ!!」 「応ッ! 待ってましたァッ!!」
能野甚五郎の獰猛な咆哮とともに、筵を剥ぎ取られた新造早船が、白波を蹴立てて海へと滑り出した。
「がはははっ! 狭い泥溝に詰まって足を滑らせておるわ! おい貴様ら、命が惜しけりゃ首を置いていけ! 首置いていかん奴から順に叩き割るぞッ!」
そう…この人あの信長やら那須与一と共に戦ったことで有名な妖怪首置いてけのお父さんなのですw
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